クロード・ベルナールの『実験医学序説』傾倒し、同時代の科学のなかで、実験的生理学を検証するような『ルーゴン・マッカール叢書 Les Rougon-Macquart』を書く。父親が狂死したアデライード・フークの前妻の良き因子を受け継ぐ子孫と、時々ヒステリーの発作を起こす後妻の大酒飲みで犯罪者の愛人の血筋が、五代目までの子孫をとおして文学という作品に仕上げている。第二帝政時代(1852〜70年)のあらゆる社会の人間をその叢書二十巻を、25年の歳月をかけて描かれた大作。
その作者がエミール・ゾラだ。
−これは真実を語る作品だ、最初の民衆小説だ、嘘偽りは語らず、民衆の匂いのする最初の小説だ。民衆はすべて邪悪だなどという結論を引きだしてもらっては困る。げんに、わたしの作中人物は邪悪ではない、無知のまま、自分の生きる苦しい労働と貧困との環境に毒されているにすぎないのである。−
Emile Zola Portrait by Edouard Manet (1868)
(ジャポニズムが覗える)
この第7巻が、1876年のエミール・ゾラが描いた「L'Assommoir
居酒屋」である。下層社会の風物や病的な愛欲がもたらす荒廃と破滅してゆく姿が、ゆっくりと残忍に零落していく。健気で働き者の女が、ゆっくりと惨めで醜い姿に飲んだくれとなって、極貧の生活で、得体の知れぬものを口にし、最後には死体をなかなか発見されないという物語だ。これが、上流階級のみならず、労働者階級までが、この作品の悲惨さを邪悪とするのだが、それに対して、先にある「これは真実を語る作品だ」というゾラの発言があったわけだ。
画壇では、「品の良くないもの」が絵画の流行となった。それは、洗濯女と踊り子だ。ゴングール兄弟で名が通っている兄のエドモンドが、1867年に出版された「マネット・サロモン」の中で、当代のもっとも画趣豊かなモデルとされていた職業であると述べている。詩人ボードレールが提唱した「近代生活」に登場する蹄り子,洗濯女,音楽家,競馬,浴女,それにカフェは、当時の風俗の象徴でもあった。
乳母の時代から、労働者階級の女たちは、ずいぶんと呼称があった。リヨンヌ(雌ライオン)、ココット(雌鶏)、ベル プチト(知ってる隠語だろ?)などがあげらるが、貧困で娼婦としての夜の職業があったからだろう。この洗濯女にも階級があるという。
この居酒屋では、ゾラがドガの「洗濯女」からインスピレーションを受けているようだ。「 自分自身の著作の中であなたの絵のいくつかを描写した。」と語っているという。
ドガ Degas, (Hilaire-Germain-) Edgar
1884年「
アイロンをかける女たち」
Les repasseuses (Women Ironing) Musee d'Orsay, Paris
「
A Woman Ironing」 1869
Reyer and the WasherwomanPaul Getty Museum, Los Angeles
Edgar Degas 1834-1917Degas GalleryL'Assommoirは英語でuntranslatableだ。フランス語のそれは、鼠や小動物を捕まえる罠や、19世紀パリに普及した口語の単語「安いアルコール−居酒屋」をさし、無分別や悲哀がしのばれる。ゾラが言う下層社会の貧困と無知とは、無分別であり、「無秩序」を招くということではないか。
フランスでは、1792年-1804年を
第一共和制といい、
ブルボン朝の廃止から恐怖政治の時代であり、ナポレオンによって、
第一帝政がはじまる。1804年から1814年頃で、軍事独裁政権であった。
フランスにおける1848年の2月革命から1852年のナポレオン3世の即位までの間をフランス
第二共和政というが、ブルジョワ共和主義者と労働者、農民の支持を得たルイ・ナポレオンが即位し、1852年から1870年までの君主体制を
第二帝政という。この時代、1853年から1870年までセーヌの県知事であったジョルジュ・オスマンにより、パリは近代化された。ダーウィンの種の起源は、その前であるな。そのあとにパリ万博があり、マネのオランピア、ゴンクール兄弟のマネット・サロモンがでてくるわけだ。ゾラ「ルーゴン=マッカール叢書」の刊行は、第二帝政のあと。
ゾラの第19巻「壊滅」では、1871年の
パリ・コミューンの乱。ドーミエやピロテルなど社会諷刺に優れた画家が、誇張や古典作品のパロディ、辛らつな似顔絵等で、政治家たちやパリ風俗をリトグラフに描く。
ギュスターヴ・クールベの存在を忘れてはならないな。それからがフランスはティエールの時代となるのだ。−
Commune de Paris imageだから、この時代を生きた文化は目まぐるしい。文学も絵画も
暦もだ。
こうした政治や社会情勢は、ゾラは晩年に空想的社会主義に傾き、1894年の陰謀による
ドレフュス事件に巻き込まれていく。マルセル・プルースト「失われた時を求めて」にも挿話されているこの事件は、アンテレクチュエル、ゾラの弾劾文に啓発されドレフュス派の運動に加わった社会主義者ペギーや、ゾラ裁判にゾラを支援する芸術家エミール・ガレ、セザンヌ(まったく無関心でありながら)やモネ、ナビ派の画家エドアール・ヴァイヤール、ピエル・ボナール、ケル・サヴィエル・ルーセル、風刺画のエマニュエル・ポアレらがドレフュス派とされる。
ガレは1890年『パリ万博』(ジャポニズムの年代、エッフェル塔にエジソンか?)において『黒いガラスシリーズ』を発表。ここには、ドレフュス事件に対する怒りを表現しているともいわれている。悪や腐敗を象徴する色の表現だ。
反ドレフュス派のアンテレクチュエルらが
アクション・フランセーズを組織している。哲学教授のアンリ・ヴォジョア(Henri Vaugeois)、文芸批評家のモーリス・ピュジョ(Maurice Pujo)、シャルル・モーラス(Charles Maurras)、歴史家ジャック・バンヴィル(Jacques Bainville)、経済学者ジョルジョ・ヴァロア(Georges Valois)、作家の息子レオン・ドーデ(Léon Daudet)がいた。そしてポール・ヴァレリー、ロダンも反ドレフュス派である。
バルザックは1838年、ユゴー、デュマ、ジョルジュ・サンドと文学者協会La Société de gens de lettresを設立(現在は
Société des Gens de Lettres −SGDL)している。1891年に、ゾラは文芸家協会長に選出され、亡くなったバルザックの彫刻をロダンに依頼した。詩人のジャン・エカールが文芸家協会長に就任しても、その彫刻は完成しない。ロダンの代わりにアレクサンドル・ファルギエールに依頼したり、ドレフュス派のロダン支持者やらなにやらの介在があったり、よけいややこしくしているのだ。頭部像、裸体像、数々の習作があり、その完成は、ロダンの死後である。(
Statue monumentale de Balzac)
ウジェーヌ・カリエール、ジョルジュ・クレマンソー、アンリ・ロシュフォール、ピュヴィ・ド・シャヴァンヌ、ロジェ・マルクス、ギュスターヴ・ジェフロワといった同時代の政治家や芸術家、批評家、詩人などで、いずれもロダンの周囲を芸術的、思想的に彩る人物たちだ。
「オーロール紙」(Aurore)はジョルジュ・クレマンソー(Georges Clemanceau)が所有する新聞に、ゾラは「私は弾劾する!」(J’accuse !)を発表。つまりジョルジュ・クレマンソーとアンリ・ロシュフォールという真っ向から対立する2人の言論人にそれぞれ関係するゾラとロダンは、作品も思想の違いが現れている。
このゾラは1886年、第14巻「制作」で、セザンヌを「精神を病み、自殺してしまう主人公のモデル」としたため絶交。1902年、パリの自宅で不可解な死を遂げている。インスピレーションを与えたというドガは鋭く激しい性格のため妻もなく、友人も、門人も無いという生涯で、1917年83歳でこの世を去っている。自然主義の作家ギー・ド・モーパッサン(1850〜1893)による小説「メゾン・テリエ」の挿絵はドガ。パリのアンブロワーズ・ヴォラール社が1934年に出版している。
さて、「居酒屋」の哀れな洗濯女の息子エチエンヌ・ランティエは、第13巻「ジェルミナール」で、炭坑労働者の悲惨な生活とストライキの敗北の物語の主人公として登場する。最後に軍隊と衝突してその一斉射撃に打ち破られたあとの入坑の日。アナーキストの仕業でエチエンヌと運搬婦カトリーヌが炭鉱事故に。閉じ込められた中で初めて結ばれるが、カトリーヌは息絶える。苛々するのが資本家側の女達。自分たちが労働者を幸せにしているという思い込みや労働者には親切な心で
施しをしてやれば満足するだろうという感覚。
1906年の3月末、実際にスト権確立のための投票がノール、アンザン、パ・ド・カレ(Pas-de-Calais) の炭鉱夫たちによって行われた。この春先にクリエール(Courrieres)で事故が起こっている。
事故発生から約3週間のあいだ「坑道の水と腐った肉と燕麦とで食いつないだ」というが、痛ましい「腐った肉」には、想像を絶する。生存者は13名だった。僕が小学生の頃は国内の炭鉱の惨事、社会人になれば炭鉱の失業者と、常に運命に左右される職業だ。
炭鉱夫たちの生活の様子を描いた作品がある画家ヴァン・ゴッホが、1879年から1880年にかけて住みこんだ、炭鉱の労働者ドゥクリュック家の住まいが「ゴッホの家 Maison de Van Gogh
」と呼ばれている。「チャタレイ夫人の恋人」で有名な作家デイヴィッド・ロレンス(英国)の父は、炭鉱夫の親方。
参考サイト
Le Petit Journal/
Courrières 10 mars 1906/
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