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太陽王ルイ14世展 ヴェルサイユ宮殿 2009年10月20日-2010年2月7日

過去記事


ルイ14世 唯一の信仰 唯一の法 唯一の王


ルイ太陽王(ルイ14世) 王権神授説の宮廷絵巻


ルイ14世 芸術への愉楽


ルイ14世 コルベールの重商主義 芸術政策


スペイン継承戦争 フェリペ5世への箴言


ヴェルサイユ宮殿でフランス革命以後、初めて公開されるものがあるらしい。ルイ14世に関しての記事にはずいぶんと画像を掲載してきているので、ぜひ過去記事からご覧いただきたい。画像は大きくなるはず。

まずは、過去記事に使用していない画像をアップし、それからルイ14世展のご紹介




Charles Meynier チャールズ・ミニャール


これはめっちゃ酷いね、フランス革命のときにでもやられたかって感じだが、生まれた太陽王が王権を授けられる場面ではないかと。

抱っこしているのは母后アンヌ・ドートリッシュ。三銃士でもおなじみか?




(C)Exposition Louis XIV, l'homme et le roi


マントノン夫人がわかる?ルイ14世の横顔の肖像画もみえるでしょ。逆に手前がよくわかんないが、ギイ・ルイ・ル・ヴュー・ヴァーノンサル(Guy Louis Le Vieux Vernansal)のナントの勅令の廃止の作品だと思う。

過去記事にもたっぷりとル・ブランの画像を使用している。

マントノンの肖像画はこちらから。
秘密の正室 マントノン夫人」 「ポール・スカロン マントノン夫人の最初の夫」




ルイ14世の戴冠 1654年6月8日
Philippe de Champaigne フィリップ・ド・シャンパーニュ 


全員正装している姿の作品は珍しい。衣服も壁もフランス王室の紋章で埋め尽くされている?




(C)Exposition Louis XIV, l'homme et le roi


僕がもっとも嫌いなルイ14世の肖像画だ。どういうわけかこの作品を鑑賞すると軽蔑の念がよぎるのだ。イアサント・リゴー(Hyacinthe Rigaud)の「ルイ14世の肖像画」は1701年の作品。



聖職者が跪いている。唯一の宗教を示しているのか?肖像画に向かって神と崇めているようだ。この絵のプロバガンダ効果はどうだったんだ。作品は1658年でニコラ・ミニャール(Nicolas Mignard)が描いた。ピエール・ミニャールは兄弟。




(C)Exposition Louis XIV, l'homme et le roi


この作品はこの写真だと見えない左下だが、頭部の彫刻だけは見えるだろうか。そのすぐ左に天球儀だか地球儀がある。そして巻物や書物がころがっているんだ。コルベールアンリ・テストラン( Henri Testelin)の作品で、過去記事にはこの人の別な作品を掲載。「ルイ14世 コルベールの重商主義芸術政策」からどうぞ。コルベールがフランス王立科学アカデミーのメンバーをルイ14世に披露している作品になる。



これさ、ルイ14世の結婚を祝った作品なんだけど作者不詳。ツリーに紋章のオーナメントをつけちゃったり、結構良く見ると面白い。




(C)Exposition Louis XIV, l'homme et le roi


これはルイ14世当時のシアターを再現していたのか。オペラ・コミックの上演。ルイ14世はモリエールののゲネゴー劇団(Hôtel de Guénégaud)とブルゴーニュ劇団(Hôtel de Bourgogne)との統合し、王立劇団「コメディ・ フランセーズを設立した。この過去記事は「ルイ14世 芸術への愉楽」からどうぞ。



こちらはシャルル・ル・ブラン。寓意画で「偉大なるルイ14世」だ。唯一の信仰 唯一の法 唯一の王 そのものだ。

暗王ではなかったというが、結局国民が犠牲になっている。犠牲とは貧しさということではなく、生命の犠牲ということだ。

最後はルイ14世の一族。これは楓に書いてもらった記事。



肖像画「ルイ14世とその家族」 1670年
Jean Nocret ジャン・ノクレ


作品に描かれたルイ14世の家族たちと寓意画で何にたとえられているかを楓が書いてくれた。ちなみに不明で予測されている人物は3名。

参考は主要人物だけで、あとは推測らしいのでご了承のうえご覧ください。

また、王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュとの間には3男3女で、1670年以前の誕生の子どもが描かれている。

公妾でルイ14世の子を産んでいるのがわかtっているのが、寵姫ルイーズ・ド・ラヴァリエール4名、モンテスパン侯爵夫人は7人で、オランピア・マンチーニ(マンシーニ)は、たぶん何人かはそうだろうといわれている。

記事 「ルイ14世 御伽の国から夜伽の国へ

さらに


17世紀にルイ14世に贈られた天球戯、地球儀の記事はこちら
記事「ルイ14世 球体に描かれた肖像画
| ルイ14世 | 00:04 | trackbacks(2)



神とルイ14世 1674年 まさに王権神授説 
by シャルル・ル・ブラン


イエス・キリストが王位とヘルメットをルイ14世に贈る。
右側はジャン=バティスト・コルベールだ。

過去記事 ルイ14世 王権神授説の宮廷絵巻

そして
唯一の信仰 唯一の法 唯一の王を象徴しているか。

楓のところも、sai のところも、僕のところも、もう、高校生の子がいなくなった。みんな大学生。
高校生の教科書や参考書をたまに読んでいたという楓に、「アホか」と思ったことがあったが、たまたま「世界史B」が目の前に・・・。

いやぁ、面白い。そういうわけでルイ14世を書いてきたが・・・。
記事にするたび嫌いになるこいつ。

ルイ14世 王権神授説の宮廷絵巻
ルイ14世 芸術への愉楽
ルイ14世  コルベールの重商主義芸術政策
ルイ14世 スペイン継承戦争 フェリペ5世への箴言

さてさて絶対王政の時代、でてきたハプスブルグ家。そしてブルボン家。

Louis XIV devant Maastricht, Pierre Mignard, 1673

ルイ14世 1673年
ピエール・ミニャール


参考書のほうをみると、「テーマ」というところに雑学が記載されている。

あるときフランスのルイ14世が廷臣に年齢を尋ねたところ、「すべてのことは陛下のお考えしだいでございます。わたくしめの年齢も、どうぞよろしいようにお決めください。」と絶対王政の由来の話がのっていた。

それで、ルイ14世についてしばらく記事にしてみようと思ったわけ。

ダルタニャン物語の三銃士にもでてくるフロンドの乱。これがルイ14世の5歳で即位した当時のことだ。

三十年戦争のために重税が課せられ、貴族が反乱を起こしたわけだ。これが不幸中の幸いで、貴族勢力は鎮圧され、絶対王政確立につながったからだ。

Louis ambassador 1663

スイスの大使を迎えるルイ14世 1663年
by ファン・デル・ミューレン 


無学といわれているルイ14世だが、何が無学かというと、この幼少時に覚えなければならないラテン語、古典などが、フロンドの乱などで、正規の座学と学業を中断せざる得なかった。

ルイ14世は無学といえども、もともと洞察力にすぐれ、人心を掌握する術と、胸に秘めた王国つくりを実践した人だ。

ちょっと勘違いの危ない親父的なところはあるかもしれないが。

名だたる貴族を招集し、心性を収攬し、宮廷の礼節と儀式を収斂し分別化させ、国王としての執務を執り行い、さらにルイ14世の愉楽の場は、廷臣にも与えることで「息抜き」の時間を提供する。

「私は人々を楽しませようとした。人々は自分たちが好むものを王が好んでいるのを見ると、感動するものだ。これが時には褒美を与えるよりも人々の心をつかむ」



芸術の守護者 ルイ14世
ジャン・ガルニエ Jean Garnier


のちのフランス王妃マリー・アントワネットは、王妃としての特権のみ要求し、王妃としての執務がなく、分別化させた宮廷の礼節をいまいましく思い廃止したりもしている。

ルイ14世の功績はというと

重商主義の政策、官僚制度と特権身分の保障、常備軍の編成、植民地政策で絶対王政支配を固めていったこと。儀式や作法、バレエが功績じゃないから。(笑)

マザランの政治では
ルイ14世幼少時の宰相マザラン
フロンドの乱の鎮圧、三十年戦争の終結(ウェストファリア条約)

重商主義の政策は
財務政策総監のコルベール

打倒!ハプスプルグ家!

ハプスブルグ家 寓意画 「落日の寓意画 アントニオ・デ・ペレーダ」

ネーデルランド戦争(1667-68)はアーヘン条約で講和
オランダ戦争(1672-78)はナイメーヘン条約で講和
ファルツ継承戦争(1688-97)→ウィリアム王戦争になり、ライスワイク条約で講和


The Decision to Make War on the Dutch in 1671

オランダ戦争を決めたルイ14世 1671年 シャルル・ル・ブラン


Louis XIV Gices Orders to Attack Four Strongholds in Holland 1672

オランダ戦争 4つの要塞の攻撃を指示するルイ14世 1672年 シャルル・ル・ブラン


そしてスペイン継承戦争。

ルイ14世 スペイン継承戦争 フェリペ5世への箴言

戦争に、対外政策で国庫は怪しくなっている。
フランス東インド会社(1664年-1769年)
ポンディシェリ占領(1674年-1763年まで?)
フランス西インド会社設立(1664年)
フランス領ルイジアナ(1682年頃-1803年)
カナダ・アカディア植民地帝国(1605年)

なぜ、フロンドの乱が起こったのか。

ルイ13世期の戦争は戦費調達のために民衆にはたび重なる増税がおこなわれ、新税の導入がフロンドの乱につながったわけ。

The Peace Treaty of Nijmegen 1678 King Louis XIV

1678年ネイメーヘン条約(ナイメーヘン条約)講和のルイ14世
シャルル・ル・ブラン


ルイ13世期
ユグノーや貴族勢力を抑圧。
三部会の召集を停止(1614年)、全権を独占する。
三十年戦争(1618−1648)はウェストファリア条約で講和。
そしてリシュリューは塩税とタイユ税(土地税)を引き上げた。

今朝方、フロンドの風が起こった
大きなうなり声をあげて
マザランに吹き付ける
今朝方、フロンドの風が起こった
あぁ~それで、飛んだんだ。
うなるような暴風で、フロンドの乱のはじまりとなるマザラン邸に「石」が飛んだのか。
 



タペストリー マザラン たぶん中央上がマザランか?
カラー版はこちら


それがまたルイ14世時代も戦争、戦争、戦争。増税、増税、増税。

ルイ14世親政時代の主な税制には間接税、物品税、塩税、タイユ税がある。コルベールは貴族と聖職者の免税特権の廃止まではしていないが、税の徴収と運用方法を改善した。

ルイ14世  コルベールの重商主義芸術政策

(ということはタイユ税以外は第1身分も納めていたのか?

ルイ14世の親政にはいってから、1701年に人頭税、1749年に二十分の一税を取り入れたとある。

ちょっと当時の税金の勉強を。(当時のフランスは地方によって税金の種類や税額は違う。)

Copyright © 2009 National Gallery of Art, Washington D.C. NGA HOME

マザランのタペストリー 書物を持ち片手を挙げているのがマザラン?
(C) National Gallery of Art, Washington D.C. NGA HOME


まずフロンドの乱(1648-1653)の頃の税金は。


法務貴族(官職保有層)
ルイ13世期(1601-1643)には高位の司法・財政・行政官職の売買(売買の官職保有者を法務貴族という)には、「ポーレット法」(1604年)によって官職価格の六十分の一を税金として毎年に払う。さらに官職世襲制度があり、引き続き徴収できる体制があった。

マザランの時代(ルイ14世期)には、国王直属の総代監(知事)の下に法務貴族が徴税のための制度に、さらに利用されるわけだ。さらにマザランは官職の売買を計画した。

一方パリの民衆の税金は。
タイユ税(土地税)、トワゼ税(特殊建築税)、タリフ税(省略して関税)、エイド税(間接税)というパリ市民の税金。そのほかに、献納金、富裕者税、土地譲渡税だ。

こうして民衆と法服貴族が宮廷側と対立に至ったのだ。




ルイ13世、ルイ14世が登場するダルタニャン物語 著者デュマ(父)が左椅子?
後方は髭のないネルヴァルか?そしてシャトーブリアンとユーゴーじゃない???
ピアノはリスト、そしてデュマと思われる隣の椅子に座るのがジョルジュ・サンド。
そして、リストの足元に座るのが、女優のマリー・ドルヴァルかと思われるが・・・。

ちなみにダルタニャン物語では、三銃士のうち、アトスとアラミスがフロンド側につき、ダルタニャン、ポルトスはマザラン側。
マザランが大衆や法務貴族から嫌われたのはこういうわけだった。だからマントノン夫人(ルイ14世の秘密の王妃)の最初の夫、ポール・スカロンは「マザリナード」と呼ばれた反王室冊子を世に送り出したわけだ。ちなみに法務貴族だったらしい彼の父親はリシュリューに職を解かれたらしい。

ポール・スカロン マントノン夫人の最初の夫
こうしてマザランによって鎮圧されたフロイドの乱。



ギリシャ神アポロに扮したルイ14世


wikiによると、
乱が平定して程なく、17歳のルイ14世が狩猟の帰りに乱の根源となっていたパリ高等法院に立ち寄り、法服貴族たちを高飛車に恫喝して有名な「朕は国家なり」(L'État, c'est moi)の科白を言い放ったというエピソードがヴォルテールの『ルイ14世の時代」に記述されている。
そうだったのか?「朕は国家なり」のセリフは?

法服貴族で成り立つ高等法院は通常の司法権限だけでなく、勅令や法令の登記や国王に建言する立法的行政的権限も有している。

1673年、ルイ14世は勅令の登記に際して高等法院に建言権を封じた。ボローニャ政教条約(wiki:教会財産に対する課税権や聖職任命権を国王に与えたもの)を、新司教区にまで徹底する。(ちなみにこの年は商事王令が制定された。破産防止のための商業帳簿の義務付けだ。)

前後するが法典化による統一的な法制度の手段として、1667年に司法制度を統一するための民事王令、司法権を中央集権で掌握するものに1670年の刑事王令がある。

国家のルールが法律であり、それを定めた権力が王令(国王立法)じゃん。絶対王制下の国王が作った法律は、王権側の支配権で定められるわけ。こうしてルイ14世の「唯一の法」が支配するんだな。



ルイ14世


ヴェルサイユでは国王と国務諮問会議が決定を下し、地方では総代監(知事)が国王の命令を施行する。
過去記事 ルイ14世 王権神授説の宮廷絵巻 
立法・行政・司法の三権をルイ14世自らの手に掌握したのだ。

「L'État, c'est moi」

ちなみに ルイ15世期
ルイ14世期の戦争による人的物質的損失からの「回復」の時代と呼ばれている。


ルイ14世の孫 ルイ15世の寵姫ポンパドゥール夫人
「私の時代 マダム・ド・ポンパドゥール」


聖職者、貴族を含む全国民を対象とした「二十分の一税」だが、かなり融通の利いたものだったらしい。

ルイ16世期
ルイ16世時代は。国民に増税したため、貴族・聖職者などの第一身分からの税金を免除。(アホか)
ルイ16世時代の民衆(農民)が、国や領主にどれだけを支払ったかは下記記事を参考に。ずずっと下にカーソルを下げて・・・。長い記事だから。
マリー・アントワネット フランス紀行から

国庫はルイ14世時代からというが、トドメを刺したのはほかならぬこのルイ16世の時代。だって国庫が危ういのに第1身分の税金免除や王妃の濫費がトドメだろうよ。



タペストリー ルイ14世、スペイン王フェリペ4世、後ろは王妃マリー・テレーズ
「フェザン島でのフェリペ4世とルイ14世の会見」(国王物語より)
シャルル・ルブラン 作 1660年


さて、ちょっと女の話。ルイ14世の愛妾たちだ。

1658年頃にダルジャンクール嬢(Mademoiselle de la Motte d'Argencour)といい仲になる。このダルジャンクール嬢だが、リシュリュー時代では軍事技術者であり、「Château Trompette(トロンペット城)」の著者でもあるピエール・ド・コンティ・ド・ダルジャンクール(Pierre de Conty d'Argencour  1575-1655)の孫かその家系のものではないかと思った。

マザランほどじゃないが、ナルボンヌの知事までなった人。

ダルジャンクール(あるいはアルジャンクール)は、周囲の反対で結局修道院に身を潜めた。あんまり話題にのぼらない人。

マザランの姪五姉妹の二人がルイ14世に見初められている。「マザリネット」と呼ばれた五姉妹のラウラ、オリンピア、マリー、オルテンシア、マリア・アンナ。

マザリネットのマンチーニ姉妹

次女のオリンピア・マンチーニ(1638-1708)はソワソン伯ウジェーヌ・モーリス・ド・サヴォワの妻。フランス王ルイ14世の愛妾でもあった。あのモンテスパン伯爵夫人の黒ミサのラ・ヴォワザンの顧客の一人。



オリンピア・マンチーニ
ソワソン夫人


三女のマリー・マンチーニはラシーヌの「ベレニス」に、ルイ14世との悲恋が書かれているほどだ。結婚まで考えたため、マザランと王太后アンヌ・ドートリッシュによって公子ロレンツォ・オノフリオへ嫁がされた。

弟王の妻ヘンリエッタ・アン・ステュアートもその一人。

そしてヘンリエッタ・アン・ステュアートの侍女だったルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール。

この人はこちらから
ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール ルイ14世の菫の貴婦人

モンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイスとマリー・アンジェリク・ド・フォンタンジュ嬢。

二人の話はこちらから
モンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイス

そしてマントノン夫人。

この人はこちら
秘密の正室 マントノン侯爵夫人
この人の夫はこちら
ポール・スカロン マントノン夫人の最初の夫
というわけで、マントノン夫人が影で手引きをしたというナントの勅令の廃止の話しに移る。



宗教の勝利 1686年
ルイ14世の肖像画 by シャルル・ル・ブラン


マントノン夫人云々より、ルイ14世の親政がはじまってから、カトリックへの改宗を薦めていた。改宗したものへは援助のための基金を設立し、改宗したものは5万人を超えている。そして20万人ほどがプロテスタント層に残った。

こうした状況で、「ほとんどのプロテスタントが既にに改宗している。」ということを強調し、ナントの勅令(プロテスタント側にもカトリックとほぼ同じ権利を認めたもの)が必要がないという結論に至るわけだ。

1685年、「ナントの勅令」はフォンテーヌブローの勅令でルイ14世が破棄を法令した。

ルイ14世を王国の宗教的統一を成し遂げた「コンスタンティヌスの再来」と呼んだのは、宮廷説教師でもある聖職者のジャック=ベニーニュ・ボシュエ (Jacques-Bénigne Bossuet)だ。

つまり「唯一の信仰」がここで確立したわけだ。

おめでとう!
une foi, une loi, un roi
唯一の信仰   唯一の法   唯一の王 ルイ14世よ。

参考(引用)
wiki
ルイ14世紀の時代 ヴォルテール
ヴェルサイユの春秋 ジャック・ルヴロン
[ルイ14世] ブログ村キーワード


ルイ14世 唯一の信仰 唯一の法 唯一の王


ルイ太陽王(ルイ14世) 王権神授説の宮廷絵巻


ルイ14世 芸術への愉楽


ルイ14世 コルベールの重商主義 芸術政策


スペイン継承戦争 フェリペ5世への箴言


ちなみに王妃マリー・テレーズのドレスにまつわるモード史はこちら
記事「シャネル以前 宮廷のクチュリエ ウォルト
| ルイ14世 | 22:39 | trackbacks(2)
ジャック・ルヴロン「ヴェルサイユの春秋」 ルイ14世 宮廷絵巻から

Equestrian portrait louis xiv 1692



王の権力はどこに起因するものか
それは神から授けられたものである


1682年、ルイ14世は在位40年を迎える。この年、息子グランド・ドーファンに王太子ルイ(ルイ16世の父)が誕生した。

いよいよヴェルサイユを王室と国家の牙城とし、貴族たるものここで生きなければならぬ。 by ジャック・ルヴロン

歴史家は
「王は貴族から陰謀の好尚を拭い去り、飼い馴らす。」

幼少のルイ14世を襲った貴族の反乱、フロンドの乱の追憶だ。首都パリは知識層もブルジョワ層も、法務貴族も多い。1563年にカトリーヌ・ド・メディシスが建造を命じたテュイルリー宮殿のような歴史軸に、劇場や愉楽を楽しめる幾多の場。貴族とパリ市民をひとつにしてはならない。

Louis XIV (1638-1715) as Jupiter Conquering the Fronde

ジュピターに扮するルイ14世 1648年以降?
チャールズ・ポワソン(Charles Poerson)

王は
国王の偉大さと豪奢への追従にふわさしい城。
執務も愉楽もとりおこなえ、貴族の領地よりも心を奪う美麗な城。
哲人ラ・ロシュフコーをはじめ、名だたる有名貴族がそこに仕え、芸術家や文人たちが集う城。
ルイ14世の目標は、フランス貴族最高の人士をヴェルサイユに集め、意のままに操縦することだ。

作家スタンダールは
ルイ14世の傑作は、言葉の本質的な意味でアンニュイを造ったこと、追放によるアンニュイを発明したことだ。
フランス貴族は
王の物質的な恩寵を当てこみ、ヴェルサイユに居住するのを願わない貴族はいなくなる。
さて王の物質的な恩寵をあてこむ貴族たちを熱心な廷臣に仕立てるには?

Réparation faite à Louis XIV par le doge de Gênes dans la Galerie des Glaces de Versailles (par Charles Le Brun, château de Versailles)

1685年5月15日、ジェノヴァ総督ドージェの謁見を行うルイ14世
クロード・アレ(Claude Guy Halle)


過酷なばかりの厳しい礼節の励行を強制すること。
儀式の参列と位階の序列と特典

ルイ14世も治世のはじめは自由気ままにふるまった。幾人もの愛妾を抱え、部屋を伺いに行く。ところが1682年以後、国王自身も気晴らしや不謹慎な放縦を追放する。たぶん、個人の自由は存分に味わってきただろうから。

日常生活のありふれた挙止や行動が細かく規制される。

貴族は宮廷席次に狂奔する。
「王は廷臣に確実な効果を与えるほど、恩恵を施していない事実に気づき、万人むけの恩寵にかえ、嫉妬をふりまく。

王の小さな贔屓の演出。

さらな作為の産む希望と期待を、国王ほど巧みに利用した人間もほかにいなかった。」 

by サン=シモン

王の起床と朝の儀式


王妃が亡くなり、マノントン公爵夫人と厳粛な結婚式をあげたあと、王は王の寝室の寝台で眠ることを習わしとする。

ここには筆頭侍官がいる。

王が眠るまで側で仕え、明朝7時には床を離れ、午前7時半。
「陛下、お時間でございます。」

8時15分
4人の王の部屋つき「勅人貴族」は、王の寝台のカーテンを開け放つ。
夜の短い肌着に部屋着と聖遺物。

Louis XIV bedroom, Versailles

Louis XIV bedroom, Versailles
ルイ14世の寝室


そして王の朝見がはじまる。
王家の本流の血族と王族、公爵、歴代陪臣の旧貴族(侍従長、納戸職長官、装束職長官、装束司)、部屋つきの勅人貴族、王の侍官と限られる。

筆頭侍官が数的の酒精を注ぐ 
侍従長は聖水盤を捧呈
ルイ14世は十字を切る
参列者は一斉に「閣議の間」へ向きを変え
扉が開かれると 宮廷司祭は祝祷を唱えた

午前8時半 国王は肘掛椅子で鬘を選ぶ。侍従長が王の夜の帽子をはずす。靴はヒール、筆頭侍官が差し出す部屋着にかえる。


朝賀の儀 御所の役職者だけの参列


上侍医頭はじめ常勤医師、外科医、4人の居殿事務官、書記、ご進講係り、式部職長官、納戸職筆頭侍官ほか、「勅許入室許可状」をもつ特恵的貴族が並ぶ。

Versailles

右:ルイ14世の椅子の間のシェーズ・アフェール
左:ルイ14世曾孫のルイ16世のシューズ・ペルセ


国王は座を外さぬよう、室内用の「用を足す椅子」にも座る。
朝賀の儀が終えると国王は朝の引見の鬘を選ぶ。

ルイ14世時代は、シェーズ・ド・アフェール(chaises d’affairs、用を足す椅子のこと)といっていた。

「キャビネ・ドゥ・シェーズ」(椅子の間)とよぶ小部屋に、設置タイプのシェーズ・ド・アフェール、あるいはシューズ・ペルセ(穴あき椅子)が置かれていて、右のものがルイ14世専用だったもの。

左はたぶん曾孫のルイ16世のものといわれているシューズ・ペルセ。室内用だ。

当時のトワレ事情はこちらから
記事「トワレとビデとガルデ・ア・ロー

朝の引見


御所の役職者の参列につづき、「栄爵の士」が入場する。
栄爵の貴紳は衛士に名を告げると、衛士は勅人貴族にむかって名を復唱する。国王に個別に紹介する順を復唱しているのだ。

大貴族、顧問官、元帥、司教、諸外国の使臣との引見をだ。



鏡の間
朝から晩まで宮廷人の往来があった。


朝食


午前9時をまわるころ。
グラス2杯のぶどう酒とスープである。給仕は厳粛に、毒見の形式も守られている。
たぶん下剤にあたるブイヨン・プルガティフ(乳香、蛇の粉末、馬糞尿)がスープだったのではないか。


召し換えとミサ  王の寝室 礼拝堂


顔と両手を洗う。理髪師が剃刀で顔をあたる。
王太子が肌着を渡す。(不在の場合は孫、甥)
何本かのネクタイが奉仕者の手で捧げられる。
王は1本を選び自分で結ぶ。
つぎに3枚のハンカチ。二枚を手にとる。
宮廷の時計師がネジをまき懐中時計を主に渡す。
身支度が終わると寝室の祈祷台にひざまずく。

ここで重要なことは、全宮廷が教会の慣行に順応し、貴族たちに宗教的義務を思いこさせるためである。

王妃が逝去してからはルイ14世は朝の10時からミサに参列する。王家の課せられた儀務である。

The chapel within the Palace of Versailles

ヴェルサイユ 礼拝堂


衛士と王の部屋つきの侍官や侍従を前駆に、国王はロザリオを手に礼拝堂に進む。

僕的には貴族たちの義務もあったと思うが、ルイ14世の「老い」を感じる中高年に差し掛かった頃。

「老い」との戦いは、ブルボンの子孫繁栄も心をよぎったと思う。(これは僕らのような40代でなければピンとこないかもね)

かつルイ14世が老いて天に召されても、ルイ14世の国事の功績とこの城、貴族を統治した宮廷儀礼など、ルイ14世の神格化を願っていたのではないか。

それが信心に一層に熱心になった所以と思っている。


執務と顧問会議  執務の間


大半が顧問府の会議で、大臣は位階順に着席することになっている。

職能別の「新 枢密顧問会議は水曜日
「財政顧問官会議」は火曜と土曜
もっとも重大な「枢密顧問会議」は日曜日
木曜日は特別な面会日で、おもに建築家や園芸家と会合する。
金曜日は聴罪司祭を招く。

Jean-Baptiste Poquelin

ルイ14世と作家モリエール
ジャン=レオン・ジェローム(Jean-Léon Gérôme)
19世紀の画家による作品


ここでは作家を招いて歓談したり、リュリやドラランドによって演奏も行われ、執務中に音楽も堪能できたわけだ。
ルイ14世 芸術への愉楽

執務室では引見も行われる。月曜日の「衛兵の間」に据えられた請願書。格別の謁見に預かれるのは貴族の計らいによる。有力者の後ろ盾が必要なのだ。


王のディネ(昼食)の儀  王の居室


王の指定した品数しかでない「小膳式の儀」である。高位の廷臣と式部職の貴族が距離を置いて待立する。

王妃も王太子妃も亡くなってからは一人である。

Moliere dining with Louis XIV 1857 Jean Auguste Ingres

「ルイ14世の食卓のモリエール」 1857年
ジャン・オーギュスト・ドミニク・アングル(Jean Auguste Dominique Ingres)
アングルがこんな作品を19世紀に描いたとは。


勅人貴族が王に時間を告げると、ルイ14世が席につく。

「二人の衛兵が先頭を歩む。つぎに部屋の取次役。警杖を手にした宮殿長。パン管理職の貴族、宮殿監督官、書記長らが続く。その後に肉料理を運ぶ大膳職員と主膳頭。殿は陛下の二人の側近衛兵がつとめる。」

小行列が厨房から王の居室まで続く。自然に熱度が緩和される。

王が酒を所望する。
酌取り役 「国王陛下にお飲み物を」 
彼は最敬礼し、宴席給仕主任の詰めているビュッフェに急ぐ。
ビュッフェではそろいのグラスをのせた金の皿と水晶の水差しを渡される。
宴席グラス係補佐を連れてもどり、当番の貴族の毒見が行われてから王は酒と水で割ったグラスを口にする。

王は、アンリ4世依頼のフォークとナイフの使用を、古きよき時代を模倣し、ルイ14世は1本のナイフと自身の優雅な指で食事をする。

とにかくルイ14世の振る舞いは、周知のとおり華麗で優雅だったわけで、古きよき時代の作法もさまになっていた。

Anonyme, Le cabinet du Grand Dauphin au château de Versailles

ヴェルサイユ宮殿のルイ15世とフィリップ鏡
(ルイ14世の孫ルイ15世と ルイ14世の弟オルレアン公フィリップの子)


ごらんのように、ルイ14世の甥フィリップ2世が描かれている作品で、鞠躬如として立ち尽くしている姿が描かれている。

王の陪席する栄誉は、王の一族や親族を問わず、だれにも許されなかったという。

この鉄則について、ルイ14世とフィリップ親王の顧問会議の出入りの一こまをサン=シモンは書いていた。

「殿下は王に対して誠に恭順、たえず立ちづめでおられる。ある日、国王は殿下にかさねて座るようお声がけをなさっていた。殿下はふたたび最敬礼をしたのち、ようやく腰をおろしたものの、王がディネをとり続けている間、神妙に同じ姿勢のまま、座っておられた。」

ルイ14世の威信と威令のほどがしのばれるというものだ。

ちなみに、この当時のルイ14世のディネのメニューは。
4皿のサラダに4皿のスープ、そしてステーキ、ハム2枚、ラム肉が出され、ゆで卵、つづいて菓子と果物がだされたらしい。


王の午後


とくに話したい貴族を指名してディネをあとに、「執務の間」にもどる。

そのあとに、衣裳部屋の係を呼び、着替えをする。少数の顧問「部屋つきの勅人貴族」しか立ち会わない。

そうして狩猟か散歩だ。大理石内庭に姿を現す。この短い時間は、身分や資格に関係なく、誰もが王に請願書なり嘆願書を手渡せる絶好の機会だ。

プリミ・ヴィスコンティ曰く
「私は思い出さずにはいられない。出発の瞬間の慌しくも壮麗な光景を。

色とりどりの制服に身を固めた兵士、廷臣、せわしく動き回る従僕たち。とりわけ王妃が女官たちと着飾って野に出かけるときの蜜蜂の女王さながらの貫禄あるお姿を。」

鹿狩りは週1回。
狩猟による狩は週2回。

狩猟は歴代のフランス王により愛好される。ブルボン家代々は肉体の訓練や運動の成果のみを期待してはいない。

Louis XVI, the Royal Hunt

ロイヤル・ハント 王室の狩の風景
ルイ14世の孫 ルイ・フェルナルンドの鹿狩り
ミシェル=バルテルミー・オリヴィエ  Michel Barthélemy Ollivier


農地や収穫を荒らす野獣狩と領地下の良民の被害を救う有益な事業でもあると信じていた。

しかしながら王の特別狩猟区が設立されたことは、もはや上記の訓練や有益な性質とは縁遠い。愉楽以外の何者でもないということだ。

当今供廻りの人数と豪勢さはにおいて、ルイ14世の狩猟群に匹敵し得るものもいない。

住宅などの森林地帯の侵食。その保護は狩猟地の保護で、さらに鳥獣類は飼育をされるようになる。

「わが愛しき孫よ・・・。」からはじまる告論。狩猟をする宮廷人に課せられる勅定でもあるべきだが、この告論は下記記事からどうぞ。
ルイ14世 スペイン継承戦争 フェリペ5世への箴言

さて、そのほかの日は貴婦人との散歩、庭園散策、あるいは各建造物の訪問である。

こうした庭園散策は、ルイ14世自身の自筆による「ヴェルサイユ庭園案内書」があるが、庭園の真価と美の誇りを書き綴ったもを完成させた。

ルイは午後5時を回ることはほとんどなく、宮廷に戻ったという。


聖体降臨式と宮廷社交


起床から数えて3度目の着替えを行う。このときに華麗で威厳び満ちた盛装姿に替える。

そしてこの午後の終わりに再度顧問会議が開催しない限りは、「親書」の署名にはいる。公的ではない文書や秘書官に作成させた記録類に目を通しているわけだ。


「国王が何か込み入った話や国事の話をするとき、マントノトン夫人は刺繍をしたり、本を読みつつ聞く。誰か大臣が来て、緊急の議題を出しても、めったに口出しをしない。稀にしか答えない。その稀にしか答えない言葉がそのまま決め手となったことがある。」

ちなみにマントノン夫人の最初の夫はピュルレスク詩人のポール・スカロンだ。彼のサロンで上流で自由な格式のないサロンでさまざまな見聞を積んでいるだろう。
小一時間後、マントノントン夫人を訪問する。週に1〜2度、夏は午後6時、冬は午後5時の聖体降臨式に出席する。

そうして廷臣たちがもっとも待ち焦がれた時間が訪れる。

「アパルトマンの催し」だ。

週に3日、夜の7時から10時までの慣わし。

王妃マリー・テレーズが嫁いだ頃にはすでにフランス王室の慣わしだった。王は告げる。

「マダム(王妃)、余は希望する。
アパルトマンの集いで、貴女がダンスをされるのを。
余らは私人として会場にいるのではない。
公人としてそこにあらねばならないのである。」



ルイ14世のビリヤード 


ビリヤード、トランプ、賭博、ダンス、音楽界、芝居、そして軽食。終わりはコントラダンス。

「ディアナの間」にはビリヤード。「アポロンの間」は玉座の間。アパルトメントの夜会では、ここが舞踏会場に変じる。

週に3回のアパルトメントの夜会では、「豊饒の間」にある銀の甕に、熱いコーヒー、ショコラ、果実のジュース、レモネード、葡萄酒がそれぞれ満たされる。

ヴィーナスの間では、菓子、砂糖づけの果実、フルーツが銀やクリスタルの器にピラミッド型に盛られている。



下の写真は、ルイ14世の主席画家であるシャルル・ル・ブランの作品による室内の装飾品。ここはヴェルサイユではないが、たぶんこんな感じで盛られていたのだろう。

Sideboard in the Dining Room the Salles Des Buffets at Vaux-Le Vicomte After 1641

ルイ14世に終身刑をいいわたされたフーケの城内
ヴォー=ル=ヴィコント城 (Château de Vaux-le-Vicomte)
「横領金城」を建てたため、なおルイ14世の怒りを買ったか。





マルスの間

マルスの間では音楽と賭博




宮廷人たちは、じつはマルリー宮、モンテスパン侯妃(ルイの公妾)のクラニー邸などで朝から大勝負をしていたらしい。

はては致命的な負債を背負い込むと廷臣たちは、気前のよいルイ14世に泣きつく。三度目の国王はとうとう専制的になり、王の意のままに翻弄される結果となる。

賭博の効果は廷臣たちを専制的に利用できたのではないか?(笑)


大膳式の晩餐


午後10時
王は暖炉を背にして中央に坐を占めただろう。壇上には小楽団。国賓の名の王侯・王妃を招く。公開晩餐会のしきたりだ。

のちのルイ16世が大衆の面前で食事をする儀式をみた、イギリスのアーサー・ヤングは「まことに奇妙である」という話があるが、ルイ14世は違う。

ルイ14世は自分の生活を全ての者によって賞賛されるべき芸術品だと考えて、国王自身の生活を公開したわけだ。

それが、サン・シモンに「暦と時計さえあれば、どこにいようと、今、王が何をしているかをいうことが出来る。」と言わせしめたことなのだ。

つまり、廷臣たちの礼節と序列が微細にいきわたる様子を示しているともいえないだろうか。
さて 王妃も王太子妃も亡くなって、背後には侍医頭が数名並ぶ。

ルイ14世の容貌を害し、不潔さと不衛生さを増しただけの侍医頭。

ルイは4歳の頃から数本の歯しか残っていなかったという。麻酔なしの歯を抜く治療はこんな幼少から行われてきたのか?

いよいよ最後の1本も迷信で抜かれ、下顎までも破壊した。侍医ダガンの抜歯のこと。

ワインを飲めば鼻から流れ、丸呑みせざる得ない食事は、朝のブイヨン・プルガティフ(下剤)で一日嘔吐と垂れ流し。

ルイ14世の相手の女性が気絶するほどの匂いとは、こうした施術のせいだったわけだ。

匂いの記事
パフューム ある人殺しの物語
この物語の匂いというのは、「汚穢」だということ。
「当たり前の悪臭」と、「至福の香り」と、「絶たれた匂い」の物語。


こんな国王に寵愛を受けたいか。
こんな国王に侍る廷臣がいたのか。

若いルイはスタイルがよく、身のこなしもファッションも優雅で皆がうっとりしたというが、いつごろからなのだろう。

王妃は非常にルイを愛していたというが、この国王が賞賛されるべき芸術品とはならんだろうよ、普通。

公開晩餐会ではどうだったんだろう。その匂いは。



ルイ14世のビュッフェ


パリ市庁舎での宴に出席するルイ14世だ。

宮廷での大膳式では、夜はあまり重い料理を食べなかったらしいが・・・。

ディネ(午餐)の様子は先に書いた。
「4皿のサラダに4皿のスープ、そしてステーキ、ハム2枚、ラム肉が出され、ゆで卵、つづいて菓子と果物がだされたらしい。」とね。軽く感じるかもしれなから、ちょっと詳しく。

ディネはスープからはじまる。香りの高いヴイヨンに山うずらのささ身の王室風ポタージュ。

スープ
年老いた去勢肥鳥のブイヨン、山鶉とキャベツのスープ、鶏冠とベアティーユのスープ、去勢肥育鶏の挽肉とレタス、山鶉を使った二種のスープ

アントレ(前菜と肉料理の中間)
羊の股肉、雛鳥12羽のパイ包み焼き、若鶏6羽のフリカッセ、山鶉2羽の刻み料理、ハムとラム肉はアントレでだされる品。ハムにシュガーをかけるのが好きなルイ14世。

前菜
肉汁漬けの山鶉3羽、炭火で焼いた仔牛のパイ包み焼き6皿、七面鳥の網焼き、肥育若鶏3羽のトリュフ添え

焼き物
去勢肥育鶏2羽、若鶏9羽、鳩9羽、雛鳥2羽、山鶉6羽、パイ包み、山鶉の雛を詰め込んだ鹿のヒレ、丁子のつぼみを添えた若鶏など。

デザート
ピラミッドに盛られたフルーツ、干した砂糖漬け、フルーツコンポート。

こんな感じだよ。

だから、夜はこの半分くらいで、ほろほろ鳥をとろとろに煮たものとかではなかっただろうか。


国王の就寝の儀

夜食ののち執務の間に立ち寄りお休みの声をかける。そして「寝御の間」にむかう。

王に従うのは明朝の「引見の儀」に立ち会う面々。煌々と蝋燭の火が灯るなかで、晩禱を口誦する。司祭は王の祈祷書を照らすために燭台を持つ。

廷臣たちは名誉ある寵薄き役(燭台もち)を選び、国王の就寝まで燭台を持ち続ける。

筆頭侍官の手をかり衣装を脱ぐ国王。シャツと短い上着と部屋着をかさね、近衛兵連隊長に訓令をあたえる。

高官の顕官が退場。

ベッドにはいるときには部屋着を脱ぐ。とどまる侍官は宿直の寝台に横たわる。

一日の宮廷絵巻が閉じられた。



Louis XIV âgé, musée du Louvre, Paris

ルイ14世
青豌豆(グリーンピース)とサラダが大好物だったルイ14世。


なんだかな・・・。

実際の廷臣たちはどう動いていたんだろ。

彼らの避けられぬ宿命は・・・。
・宮廷生活の元手→対面と面目を保つ
 居城、使用人、馬車、馬、流行の身なりと礼服など
・莫大な富の蓄積と莫大な借金
 売官官僚職と新官職の斡旋の賄賂、賭博、富くじ

彼らの宿命に王の策とは・・・。
・税の免除
・借金による邸宅の差し押さえ禁止令

現代史家モングレティアン式の解釈は・・・。
ヴェルサイユの宮仕えは紹介や手蔓、斡旋、縁故で「資本」が動く。

つまり、余得や役得にありつく常習的手段は官職の売り出し(1604年のポーレット法)。平民で、富裕なブルジョワジーらは、官職保有層(オフィシエ)を高値で買う。

官職の中でも頂点は高等法院。ブルジョワジーは高位の司法・財政・行政官職を買う。これが法服貴族だ。

廷臣は新官職の創設を嗅ぎ付け、帯剣貴族(宮廷貴族)らや貴婦人たちが勤める仲介役(ブローカー)に知らせる。当事者のブルジョワ市民は賄賂を貴族や通告者に賜る。

あとはね、国務卿に国家や宮廷の弊風、悪風、濫費の密告で報酬を受け取る。なんてね、あるあるって感じだな。

こういう風潮のなかで、廷臣たちは、匂いの国王ルイ14世の「権力へのカメレオンか、風見の鴉か、提灯持ち」になったのであるぞよ。

僕はさ、ヴェルサイユのトイレの数だとか窓の数だとか、そんなアホな数値や裏話、噂話でこのルイ14世の治世を記事にしたんじゃないよ。

ドゥニ・ディドロの官能的諷刺小説「お喋りな宝石」(新庄嘉章訳)から引用する。
この時代の歴史をセリム(ルイ15世時代のリシュリュー)がもっとも詳しく知っていた。

「カノグルー陛下(ルイ14世)の御治世は数多くの成功と勝利で有名で、人々はこの時代を黄金時代と呼んでいます。大勢の夫人を持ち、貴族たちも競って陛下の真似をいたしました。また一般国民も知らず知らずのあいだに、同じ風に染まっておりました。」

以下は要約

「服飾の贅沢、食卓の贅沢、大金が賭けられる賭博に人々は多額の借金を重ねましたが誰も支払うことをしません。そのために人と金は失われ、さらに海外を征服し、多くの宮殿が建てられ、国民は飢えのために死んでいきました。国庫はからっぽです。そしてからくり人形の由来を申し上げたいと思います。」
18世紀の啓蒙思想家ディドロが書いた小説で諷刺しているのがこのルイ14世とルイ15世の時代。ちなみにからくり人形はマントノン夫人だと思う。

どう、服飾・食卓・賭博の浪費に国民のと飢え。これは廷臣たちの宿命が宮廷や国民に負担をかけていたわけ。

アーサー・ヤングのフランス紀行を引用した楓の記事に、たしか窓のない農民の家に驚いたとあったが、まさにヴェルサイユの窓の多さに驚くことではなく、恥じるべきことだ。窓のない家に住む国民の王たるものを。そしてヴェルサイユを恥じるべきなのさ。


ルイ14世 唯一の信仰 唯一の法 唯一の王


ルイ太陽王(ルイ14世) 王権神授説の宮廷絵巻


ルイ14世 芸術への愉楽


ルイ14世 コルベールの重商主義 芸術政策


スペイン継承戦争 フェリペ5世への箴言
| ルイ14世 | 20:03 | trackbacks(2)
器楽の奏では、雷鳴ににておどろおどろしく
肉声の調べは、堂をつんざき
戦の庭の兵士の叫びを思わせる by ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ

「音楽のなかで生きかつ死んだ」といわれるルイ14世。

彼らをお共に任務に励み、散歩も、賭博や晩餐会もいっしょ。それがルイ14世の楽団員たちだ。

国王部屋つきの楽士(30名)、大ヴァイオリン(24名)・小ヴァイオリン(16名)奏者、そして礼拝堂合唱隊(90名)。こんな大人数が、ぞろぞろと?

オペラやバレエに大聖歌。



ルイ14世のアポロン(ディティール)


幼い頃からバレエと音楽は続いたらしい。

1643年、ルイ14世が5歳で即位した際には豪華絢爛な舞台でルイ14世も出演している。15歳で「夜のバレエ」で本格デビュー。これがあの「太陽王 アポロン」を演じたものだ。あのバカっぽい衣装のルイ14世は嫌だね。だから寓意画のアポロンに扮するルイ14世を画像アップした。

1661年にピエール・ボーシャンに委ね、王立舞踏アカデミーを創立した。当時の貴族にかかせない教養は、このアカデミーで踊る技術のほか、マナーや果ては観劇の仕方なども示し、高い芸術を意識させる方向となる。

王は古楽器ならリュート、クラヴサン、ギターを嗜み、晩年にはギタリスト ロベール・ド・ヴィズを招いている。

歌曲ではリュリとドラランド。とくにジャン=バティスト・リュリは、宮廷楽長および寵臣として権勢を握る。ところが男色家だったため、晩年はルイ14世の不評を買い、果てに自分の指揮棒で命を落とす。



古楽器を弾くルイ14世の音楽家たち by ピエール・ピュジェ


「王は王自身を称える歌曲の一節を特定の集いで歌ったため、彼の晩餐会では陪食の貴賓が一様に同じ賛歌を口ずさんだ」 

「宮廷も都市も王の気に入りのリュリの歌劇で持ちきりだった。パリの街角もポン・ヌフ橋上でも彼の歌曲が聞こえた。」

by サン=シモン
リュリの歌劇、モリエールの舞踏劇はヴェルサイユの庭園で演じられた。

モリエールは1663年頃から来往していたという。「亭主学校」、「うるさがた」、「痴話喧嘩」などが上演され、「ヴェルサイユの即興劇」は、ルイ14世を喜ばせる。

とくに王の楽団員は多才であり、1713年の2月に音楽家だけで上演した「ジョルジュ・ダンダン」(モリエール)は大好評で、天職を忘れぬしるしに幕間にあはオーケストラを奏でたりもした。



神格化したルイ14世 1677年
シャルル・ル・ブラン


大運河が完成した1672年に、大型船の模型を浮かべ、ゴンドラに乗り、水上でも音楽とコーラスを楽しんだ。

陛下、ヴェルサイユに臨幸し給う
ヴェルサイユ、いとも麗しく、閑静で安らけき城館の地
狩猟と乗馬の腕がためされ
演奏会、美味あふれる客席、
トランプ遊び、劇に興じる宮輩や殿輩たち
ものみな過ぎし世の申しおくりに似て
心して受け継がれていく
by ロレ

特にラ・ヴァリエール嬢のために開かれた1664年5月5日からの1週間は格別だ。夜会のパレードは仮装。

Comédie-Française

ルイ14世が設立したモリエールの家(La maison de Molière)の劇団員?
 ド・トロワ画(Jean-Francois de Troy)


なかでも1668年は1万5千名が参列した。

モリエールの劇、宮殿前の花火、趣向と華麗さをラ・フォンティーヌは「宮殿は庭園となり、庭園は宮殿となる」と歌った。

1674年はあのモンテスパン侯爵夫人のために、ラシーヌ演出「イフィジェニー」に、キノーの「アルセスト」を舞台に乗せた。

モリエールは1677年に亡くなった。ルイ14世が39歳のときだ。

ルイ14世は、パリ・オペラ座の前進となる劇場「アカデミー・ロワイヤル・ド・ミュジーク」を創設し、モリエールが亡くなったあとに、モリエールののゲネゴー劇団(Hôtel de Guénégaud)とブルゴーニュ劇団(Hôtel de Bourgogne)との統合し、王立劇団「コメディ・フランセーズ」を設立した。「モリエールの家」とも呼ばれるらしい。

いまの移転先とは違うが、当時はコメディー・フランセーズに隣接して、1686年にカフェ プロコップが開店した。2年後にはカフェ・プラス・ド・パレ・ロワイヤル(のちのレジャンス)で、どちらもルイ15世時代に共通の知識層が客として集まってきた。

Comédie-Française

コメディー・フランセーズ (18世紀の作品)


プロコップは、百科全書派の集会に使われたため、いまでも現存しているここに、ヴォルテールが使用していた書棚なんかもあったwa。

プロコップは18世紀の知識人が有名だったが、ルイ14世時代の知識層は客としていかなかったのかい?

たとえば国王の寵愛を受けていたジャン・バティスト・ラシーヌやラ・フォンテーヌとか、「長靴をはいた猫」のシャルル・ペローとかさ。

シャルル・ペローは「オウィディウス、ウェルギリウスなどの古典文学よりも現代文学の方がすぐれている」と述べた「ルイ14世の世紀」(1687年)は、ボアローとの間で新旧論争を巻き起こした。

この「ルイ14世の世紀」は、ルイ14世の病気快癒を祝う称詩「ルイ大王の御代」としてのほうが、ご存知の方が多いかもしれない。

ルイ14世の治世は、古代ローマのアウグストゥスの時代をしのいで優れていると述べたらしいが、 絵画の作品では、ルイ14世はギリシャ時代のモチーフで描かれていることが多い。寓意画とかね。

louvre-1699

1699年のルーヴル


さて、ルイ14世だが、どんな画風がお好みだったのか。当然シャルル・ル・ブランの名があがってもよいだろう。だってルイ14世の首席王室付画家だし、王立絵画・彫刻アカデミー(後の芸術アカデミー)、ゴブラン製作所の責任者だったわけ。

ルイ14世 コルベールの重商主義芸術政策
ルイ14世は、シャルル・ル・ブランにキリストの連作やアレクサンドロス大王の歴史画を注文したりもしている。

アレクサンドロスの人物像にはアポロン神と同様の地位が与えられ、ルイ14世の宮廷において特別な位置を占めていた。野心家であるルイ14世は、自らをアレクサンドロスにたとえ、自分の野心にまさにふさわしい手本を見出したのである。それゆえ、ル・ブランの連作は、古代の有名な挿話を思い起こさせるだけではなく、王政の栄光と君臨する王者を讚えるプロパガンダの一翼を完全に担っていると言える。

引用 ルーヴル美術館

アレクサンドロス大王のバビロニア入城

ルイ14世が依頼したアレクサンドロスの生涯を描いた4つの場面のひとつ
「アレクサンドロス大王のバビロニア入城」 1665年
シャルル・ル・ブラン(Charles Le Brun)


ルイ14世は彼を「古今の最も偉大なフランスの芸術家である」と称えた。

いつのまにやら重商主義のコルベールが後ろ盾になったのが、国王の首席画家の地位を狙う画家ピエール・ミニャール。

国王は、ミニャールが描いた「十字架を担うキリスト」に対抗する絵画を制作するようル・ブランに依頼。

それが「キリストの生涯」になる。ミニャール派の口を閉じさせるのに「今までで最高の絵画」であると称賛された。国王は殊の外お喜びになったそうな。

そのキリストの生涯の1枚が、次の作品。

The Adoration of the Shepherds 1689

ルイ14世が依頼した「キリストの生涯」のひとつ 「羊飼いの礼拝」 1689年
シャルル・ル・ブラン


記事 参考及び引用:ヴェルサイユの春秋 ジャック・ルブラン
ルーヴル美術館、wiki


ルイ14世 唯一の信仰   唯一の法   唯一の王
ルイ14世 王権神授説の宮廷絵巻
ルイ14世  コルベールの重商主義芸術政策
ルイ14世 スペイン継承戦争 フェリペ5世への箴言
| ルイ14世 | 22:13 | trackbacks(1)
ルイ14世時代に活躍したコルベール。フランスではコルベルティズム(コルベル主義)といわれるほど、ジャン=バティスト・コルベールは20年以上にもわたり権力を手にする。

中央集権化の牙「絶対主義」の特徴である重商主義。お金を稼ぐための海外政策。コルベールの重商主義政策は海外発展で大成功を収める。

「富とは金であり、国力の増大とはそれらの蓄積である」

重金主義のコルベールは、なんと君主を讃美するための芸術政策を打ち出した。

Manufacture des Gobelins


壁掛け連作「王の歴史」より「ローマ教皇使節の謁見」
図案:シャルル・ル・ブラン(Charles le Brun)

フォンテーヌブロー宮殿の寝室でルイ14世は肘掛け椅子に坐り、枢機卿が伯父の教皇アレクサンドル7世の謝罪文を読みあげるのを聞いている。ふたりとも寝室内の私的領域として設えられた手摺内に位置し、この謁見の証人達は手摺外の公的な場所にいる。

王弟殿下は手摺の手前右側に、馬寮長官アルクール公爵は外国の公子としてこのタピスリーでは帽子を被った姿で表わされている。枢機卿のお付きの聖職者たちと宮廷の貴族たちがこの謁見に立ち会っている。

この中に表わされている調度品は掛かっている絵画を除いてほとんどのものが王家の財産目録の記述と合致しており、王室コレクションの重要な調度品をかなり忠実な描写で伝えてくれる。その中には大型キャビネット、フランス式寝台、アルコーヴの壁掛け、手摺、大きな円卓、銀製調度の大型燭台板2点などが含まれる。

(引用:ルーブル美術館)



ゴブラン製作所を訪問するルイ14世


ルイ14世は、コルベールによる重商主義と国内産業育成策などを理由に、王立ゴブラン製作所を設立した。1662年にマンシーにあった工場から機材などを運び、翌年にシャルル・ル・ブランが監督として任命された。

ここが、1667 年には王立家具製作所の設立王令として発布され、画家や織匠、彫刻家、金銀細工師、家具職人が集められるわけで、職人養成も兼ねていたらしい。

またフィレンツェにモザイクで対抗するかのように、モザイク工房もゴブラン製作所内に設立している。

シャルル・ル・ブランは1661年には、王立絵画・彫刻アカデミーの保護副会長に選任されていた。コルベールは、ギルドに属さない宮廷美術家たちの擁護とギルド解体の伏線をはったか。

この時代はルイ14世の寓意画も多く神話のモチーフで描いている。また神格化された寓意画は、ルイ14世の威光を示し、なおかつコルベールの芸術政策による王権神授説なのかもしれないね。

Colbert Presenting the Members of the Royal Academy of Sciences to Louis XIV

ルイ14世にフランス王立科学アカデミーのメンバーを披露するコルベール
アンリ・テストラン Henri Testelin


なぜか最後の画像が消えたまま記事が公開されていた・・・。

さて、アカデミーの正会員になるには何が認められないといけないのか。
「王太子殿下のご結婚を寓意的に表現せよ」
こういった課題がだされるわけだ。

課題をだしたアカデミー側を絶賛させる寓意とは何か。

結婚の寓意は、キューピッドや楽器、月や太陽なんかで結びつきや祝福が描かれる。寓意画だから擬人像で描かれるわけだよね。神話の女神だったり神だったりさ。

それが繁栄と平和、名声と高貴さ、そして主役の二人とその国が誇るものを象徴しなければならない。

さらに現在の国王までも。

Francesco Solimena An Allegory of Louis XIV 1700

ルイ14世の寓意画 1700年
フランチェスコ・ソリメーナ(Francesco Solimena)


イタリアの画家フランチェスコ・ソリメーナが描いたルイ14世。知恵の神ミネルヴァが左で横臥するライオンの頭を抑え上にすわる。

そして彼女が指し示しているのはメダリオン。

中央と右がよくわかんないさ。老人とよんでもよさそうな男の背中の上にひろげられた書物。天使の羽をもつ女神が何かを書き込もうとしている。

1700年の頃の作品だというから、スペイン継承の意味か継承戦争の暗示か。
ルイ14世 スペイン継承戦争 フェリペ5世への箴言
この頃のミネルヴァってわかりやすい描きかただよね。僕みたいにあんまり詳しくなくともさ。

このナポリで活躍したフランチェスコ・ソメリーナは、フランスに旅をしたわけだ。政治的か芸術的かの目的かは知らないが。

絵画やタペストリーをはじめ、彫刻や建築などの芸術の育成は、「世界史的な位置を確定するもの」の育成もであり、その優れた技術は国の栄えも象徴できるわけだ。


ルイ14世 唯一の信仰 唯一の法 唯一の王


ルイ太陽王(ルイ14世) 王権神授説の宮廷絵巻


ルイ14世 芸術への愉楽


ルイ14世 コルベールの重商主義 芸術政策


スペイン継承戦争 フェリペ5世への箴言
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1700年、スペインのハプスブルグ家が断絶した。

落日の寓意画 アントニオ・デ・ペレーダ(ハプスブルグ家の寓意画)

「スペインが動けば世界が震える」といわしめたスペインのハプスブルグ家。ディエゴ・ベラスケスによって描かれた一族だ。


Velázquez, Diego

Las Meninas ラス・メニーナス(女官たち)
ディエゴ・ベラスケス


ルーベンスの「パラスとアラクネ」、この作品のホアン・デル・マーゾによるヤーコブ・ヨルダーンスの模写もある。左から画家ベラスケス、女官ドーニャ・イザベラ・ベラスコ、中央マルガリータ王女、矮人マリア・バルボラ、犬に足をのせる矮人ニコラシート・ペルトゥサート。後ろには王妃侍女であるドーニャ・マルセーラ・ウリョーアとドン・ディエゴ・ルイス・デアスコーナ、後部右側には、ドン・ホセ・ニエト・ベラスケス。

wiki 引用
前景の中央には、マルガリータ王女が立っている。 この時点では王女は5歳で、フェリペ4世とマリアナの間に生まれた中では唯一の生き残りであり、のちに神聖ローマ皇帝レオポルト1世と結婚する。 王女は2人の女官にかしずかれている。 お辞儀をしようとしているのがイサベル・デ・ヴェラスコ、ひざまずいて金のトレイの赤いカップ(bucaro)を王女に勧めているのがマリア・アグスティナ・サルミエント・デ・ソトマイヨールである。 王女の右側には、2人の小人がいる。 軟骨無形成症のドイツ人マリア・バルボラ、通称マリバルボラと、イタリア人のニコラ・ペルトサートである。 ニコラはふざけて、足元のマスティフ犬を起こそうとしている。 彼らの後ろに立った王女のシャペロン、マルセラ・デ・ウリョーアは喪服を着ており、名前不詳の目付役( guardadamas )に話しかけている。



マリー・テレーズ
ディエゴ・ベラスケス


マルガリータ王女の異母姉マリー・テレーズがルイ14世の妃である。この作品の鏡にスペイン王フェリペ4世とマリアナ王妃が映っているが、カルロス2世は、この国王夫妻の息子。

ルイ14世とマリー・テレーズの結婚式で、マリー・テレーズに持参金をつけるかわりに、スペインの継承権を放棄したわけだ。

ところが持参金が払えなかったらしい。死にそうなカルロス2世。ルイ14世の孫にあたるアンジュー公フィリップを指名した。



ルブラン作 タペストリーフェザン島でのフェリペ4世とルイ14世の会見


このカルロス2世に嫁いでいるのがブルボン家。ルイ14世の弟オルレアン公フィリップの娘マリア・ルイサだが、早々に亡くなった。

このカルロス2世は、マリア・アナと結婚した後に、マリア・ルイサの遺骨を掘り出し手元に置いたらしい。こういう奇行があったという。

かくしてアンジュー公フィリップがフィリッペ5世としてスペインを継承したが、イギリスとオランダは二つの国が結合しないように戦争をしかけたわけで、1701年にスペイン継承戦争がはじまった。1713年にユレヒト条約で終結した。



フェリペ5世 1723年
Jean Ranc

このフェリペ5世をスペインに送り出すルイ14世。
「よきスペイン人であれ、されどフランス人であることを忘れるな」

そしてもっともなところで

「わが愛しき孫よ。其方は其方の快楽や逸楽にかまけて、義務を怠ってはならぬ。が本朝には格別のはからににより、其方らが心のゆとりと寛ぎの機会を持つのを許す。慰戯の原則が存在する。そのためには狩猟ほど罪のないものもない。・・・・」

だとさ。


ルイ14世 唯一の信仰 唯一の法 唯一の王


ルイ太陽王(ルイ14世) 王権神授説の宮廷絵巻


ルイ14世 芸術への愉楽


ルイ14世 コルベールの重商主義 芸術政策


スペイン継承戦争 フェリペ5世への箴言


ちなみにマリー・テレーズのドレスにまつわるモード史はこちら
記事「シャネル以前 宮廷のクチュリエ ウォルト
| ルイ14世 | 21:18 | trackbacks(1)
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