「ジャコメッティはわたしにとって友人以上、兄弟同然。」と語る
バルテュス。この二人を引き合わせたのが、アンドレ・プルトン、
ポール・エリュアールだという。
ダリなんかが、浮世離れしているジャコメッティをシュルレアリスムに誘うが、結局離れていく。
そのシュルレアリスムに引き合いにだされるバルテュスだが、二人が出会ったのは、1930年代。このときバルテュス40過ぎ。相似た芸術家というよりも、それぞれの哲学が同質で、引き合ったのだろう。
何に美を感じるかとか、何に欠くべからずであるとか、そういった主義の一致があったに違いない。こだわりとか愛好とかというよりも、社会風潮や画壇の風評だったり、環境だったり、「ちょっと違うよね」ということが、一致していたのではないか。
僕は、なぜか先に進めない。「冬休みにでも追記予定。」などど文末にくっつけたが、僕はどうしても、ジャコメッティとなると、もう一人のジャコメッティが気にかかる。ジャコメッティは二人いる。その影だったジャコメッティが気になって進まない。そうして、本題のアルベルトとなると、僕は、バルテュスよりも矢内原伊作が気になるのである。
ダンディなバルテュスに、シュールな風貌のジャコメッティ。ジャコメッティの細くたなびくように、消え去っていくような彫刻は、このあとのことになる。
「私たちの間には、常に暗黙の了解というものがあって、心から、触れ合うことができた。」
バルテュスは、「Le Pont neuf ポン・ヌフ」(1928年作)を彼に贈り、
グラン・シャレの居間には、ジャコメッティの肖像画を飾り続けた。
僕は、二人の意気投合に、あまり魅力を感じていないのだろうか。知れば知るほどしらけてくる。彼らは、なんだかあまりに仰々しい。
コスタンツォ・コスタンティーニ編の
「バルテュスとの対話」で、バルテュスとジャコメッティが、同じ美への価値観を持っていたことが伺える。
「ジャコメッティと私(バルテュス)とは、ル・コルビュジェにも同じような反感を持っていました。ル・コルビュジェは家というものを破壊した。家の中でもっとも魅力的な要素、屋根を排除しました。」
僕もそのとおりだと思う。変身抄にバルテュスが描いた節子夫人の作品があるが、あれは、古の日本である。あの絵のなかの鏡、漆器など、昭和になっては骨董品だ。手入れの方法もわかるまい。家屋も文化住宅という箱、お墓も箱になり、何もかも変わってしまった。ビルや美術館の設計では、才能を発揮する建築の巨匠達。だが、家というものには、僕をがっかりさせる。
インタヴュー嫌いだといわれていたバルテュスだが、ジャコメッティのことに及ぶと、夜が更けても、話続けたという。
「なぜ
少女を描くのですか」という愚問が何度も何度もインタヴューされるから、嫌いになったんじゃない?
「私は千年生きたい。せめて五百年でもいい。五百年生きられたら、相当の進歩ができるだろう。」というジャコメッティは、1966年、急逝。
「
ジャコメッティはわたしにとって友人以上、兄弟同然。もう会えないと思うと、とても淋しい。優しくて仕事のことを真剣に語り合える相手だった。彼の死はまさに悲劇だ。唯一の話し相手がいなくなってしまったのだから・・・・」
1966年、ニューヨークでジャコメッティとの二人展。その年のうちに逝った。
「恐ろしく、耐え難い悲しみが、24時間前からわたしを打ちのめしていた。恐怖に陥れられるような不安がひろがる。・・・しばらく後、アルベルトの死を告げられた・・・」
(ジャコメッティ素描画展図録,1975 より)
参考文献:Cristina Carrillo de Albomoz,Baluthus,Editions Assouline,2000
引用,画像引用:バルテュスの優雅な生活 新潮社 66p アルベルト・ジャコメッティの肖像冬休みにでも追記予定。