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ドゥニ・ディドロの記事
記事「ドゥニ・ディドロ 百科全書の時代
記事 「ブーガンヴィル航海記補遺 その3
記事 「 ブーガンヴィル航海記補遺 by ディドロ
記事 「第3章 司祭とオルーの会話/第4章 司祭とオルーの会話の続き

1756年の後半、百科全書から少しの間解放されたディドロ。

以前の記事で書いたが、放蕩時代は演劇狂いで、俳優になることも考えたという・・・。

そのディドロは休暇を利用して戯曲や散文を書いたらしい。だが戯曲は大失敗。ただ新しい演劇改革の理念を述べた「私生児(ディドロの書いた戯曲)にかんする対談」は意味があるものだと言われている。

要は、演劇と現実の市民社会と適合させること、ということだ。

ォルテールは、物事に関して曰く「物事は真実か虚偽であり、その中間は存在しない。」として、ディドロは人間に関して曰く「人間は、けっして純粋の善玉うあ悪玉はありえない。この中間のニュアンスをとらえねばならない。」としている。



前記事の別ヴァージョン ヴォルテールとディドロたち
手を上げているのがディドロ、ヴォルテールは・・・


このディドロの演劇の融合には、当時の社会の身分制度がある。

ディドロは、おおまかに(あるいは翻訳が割愛したかもしれないが)「文筆家、哲学者、商人、判事、弁護士、政治家、市民、司法者、収税官、大貴族、知事」などをあげた。

うーん、当時の人口の90%以上の農民はないぞ。聖職者はどこに。

結局、ディドロたちは第3身分はブルジョワや知識層を対象にしているわけだ。当時の農民は字もよめないし、極貧で観劇もできないからさ。

さすがに哲学の時代といわれたように、文筆家、哲学者を身分制度にあげている。医者より身分が高かったからね。

さて身分制度のほかに、家族制度もあげている。「一家の父、夫、妹、兄弟」だ。

妻やキレイなお姉さまは?

この家族もそのものと描かなければならないと述べた。

さて、ディドロはさっそく「一家の父」を書き上げた。「私生児」同様な欠点があるという。

おおげさなセリフ、おおげさな身振り、感傷的で不自然だという。



ディドロとエカチェリーナ2世(エカテリーナ2世)


まぁ、エカチェリーナ2世との交流でも、ディドロのおおげさな身振りに、かの女帝は間にテーブルを置いたという。なんせ身振り手振りで膝にあざが出来るほど叩かれるらしい。

この身振りや動作を主張した「動作論」、演劇論の「俳優に関する逆説」で、”俳優は、人物の身振り動作を、論理的、分析的に研究し、それらが機械的に演じられるようの練習しなければならない。けっして自分の感動に頼ってはならない。」

おい、あなた自身の戯曲の上演もそうでしょ!テクストのみの哲学者か?(笑)

さらに”演技は感性ではなく知性”だという。例証として、イギリスの俳優ギャリック、フランスの女優クレロンの名をあげる。

名優ディヴィッド・ギャリック(1717-1779)は、西洋絵画にも多く登場するシェイクスピア劇が中心だった。

ラ・クレロン(La Clairon 1723-1803)は、コメディ・フランセーズ。イギリスの詩人オリヴァー・ゴールドスミスは、「完璧な演技」と最高に称えている。

さて、ディドロよ、ないのか傑作は!
あったらしい。それも「ただひとつ」と念押しされている。

四幕の散文劇「この男、親切なのやら、意地悪なのやら」



Est-il bon? Est-il méchant?
この男、親切なのやら、意地悪なのやら



いいね、この邦題。
いる、いる、こういう奴って。観たいよ。

なんとこの主人公はディドロの性格と投影しているらしい。

この主人公は、この親切が故にまきこまれていく事件を描いているらしい。僕、知らないんだよ。この作品。

本人がまきこまれるらしいが、親切がゆえにまきこまれていく事件は、たいてい・・・、周囲がまきこまれるんじゃないか?

親切・・・、これは「おせっかい」じゃないだろうか。

「親切なのやら、意地悪なのやら、おせっかいなのやら」ってさ。

これが、いきいきした登場人物、自然な会話、独創的な筋をつくることに成功したとあった。そうだろうよ。どこにでもいる人間で、困った奴で、空気のよめない奴で、ってのといっしょだよな。まさに現実の市民社会にいる人間。

だが、この傑作がずいぶんと無視されてきたらしい。前作がひどかったからか。もしかして、前作はシェークスピアを超えようと、大げさにしたのかもしれないぞ。

あのコメディー・フランセーズで上演されたのは、20世紀になってからである。いっちゃったね。世紀を超えたよ。1955年だから、本日の訪問者のなかに、この年に誕生していらっしゃる方もいるのでは。
| ドゥニ・ディドロ | 00:01 | trackbacks(1)

世界の名著(中央公論者)から



Denis Diderot


富裕な刃物作りの父親ディディエと富裕ななめし革屋のアンンジュリクが母として生まれたのが、ディドロ。職人といえどもどれだけ由緒正しいかというと、15世紀からの古い家系で土地の記録に名を残しているほどだ。

初等教育を終え、イエズス会のコレージュに入学。文法学、古典学、修辞学、哲学などが学べる中・高等教育だ。

ディドロは13歳で僧職につく決心をしたという。だが、数年ほどで神秘主義的発作はおさまったらしい。

まもなくパリコレージュの上級(修辞学)に入学し、代数学や幾何学、物理学を学んだという。

ディドロはパリ大学に論文を提出し、教授資格を得る。一時、ディドロは法律事務所に身をおくが、これが漱石の高等遊民のごとく、古典を読み耽るばかりだったらしい。

とうとう雇い主と父親に咎められる。

「実をいえば何もしたくないのです。勉強をしたい。」と伝えたが、さぁ、家にもどってこいと父。よくあるパターンで、息子はもどらない。

こうしてディドロに浮浪生活がはじまった。

つまり放蕩蒸息子というわけだ。ただ乞食をしたわけではなく、数学の家庭教師、宣教師の原稿がきのほか、うまく善良な人々から金を巻き上げたりしながら、文筆家、音楽家、画家、若い女たちと謳歌していた。

まぁ、金を巻き上げるとはなかなか、弁舌に長けている証拠。

1743年までの10年ほどだ。

ルイ14世の芸術の愉楽でも取り上げたカフェ プロコップでは文学論の機知の応酬を聞き、ラ・レジャンヌでは、チェスの手合わせで、「先の先まで相手の手を読みぬくレガル」の手合わせをみる。そしてフランス座では演劇に夢中になる。

Voltaire and Diderot at the Café Procope in Paris
パリのカフェプロコップのヴォルテールとディドロ
左からコンドルセ侯爵、ラ・ハープ、ヴォルテールにディドロで、手をあげてる人忘れた。こっちの説は間違い?

思い出した。世界の名著にもあったのでこちらを採用する。
手をあげている人ヴォルテール、その左がディドロ、手前左椅子がダランベールで、ラ・ハープ、そして右がコンドルセ侯爵だ。

ディドロは妻アントワネットをトントンと呼んでいたが、この生活の維持のために翻訳を手がけ、出版業者や知識人に名を知られるようになる。そして哲学者として1746年に「哲学断層」を出版する。

これは神の存在の不合理性と無神論者の立場の不合理性を主張し、禁欲主義を批判している。ただちに焚書の対象となった。

この頃、王室公認の出版業者ル・ブルトンにイギリスのイーフレイム・チェンバーズの「百科辞典」をフランスで翻訳させようとミルズ(英)とゼリウス(独)がもちかけた。

さて、特許を取り上げられたりその特許取り上げが無効になったりするが、結局フランス科学アカデミーのグワ・ド・マルヴェースに相談し、これがさらに構想が広がる。つまりフランスの英知を結集した百科全書の青写真が浮かんだんだ、ル・ブルトンだけに。

マルヴェースは編集助手・執筆者を参加を要請し、無名にちかいディドロも含まれた。

こうした執筆者にル・ブルトンは知名度のない奴らに不満をもったわけ。マルヴェースは彼との口論に疲れ、辞任する。

こうして、ル・ブルトンに編集長として任命されたのが、ディドロ。まだ有名ってほどじゃないじゃん、ル・ブルトンよ。

さて、 ここで二つの説がでてくるんだな。

.泪襯凜А璽垢鮨頼できないと、ル・ブルトンは契約を破棄し、翻訳の修正に雇ったディドロとダランベールの二人に編集長を依頼した。

∪茲暴颪い燭茲Δぅ泪襯凜А璽垢魯襦Ε屮襯肇鵑箸慮論に疲れ辞任。編集長に任命されたディドロは友人の有名な数学者ダランベールに協力を頼んだ。

百科全書(L'Encyclopédie, ou Dictionnaire raisonné des sciences, des arts et des métiers, par une société de gens de lettres)の表紙。

いつから二人は友人だったんだ?

ランベール
憶力(歴史)はこちら 百科全書 人間知識の系統図 記憶力
性(哲学)はこちら   百科全書序論 理性について by ダランベール
                百科全書序論 から 人間知識の系統図 理性編
像力(詩)はこちら    百科全書序論 から 人間知識の系統図 想像力編

さてディドロはそのかたわら匿名でつぎつぎ発表する。「盲人書簡」は1749年だ。

当然人間は敵がかならずいるもので、ディドロを危険人物として密告した司祭がいた。

「国王」ルイの署名の逮捕状が用意された。この国王の署名の逮捕状は、裁判なしに投獄できるわけ。

ディドロは虚偽の言い訳をする。盲人書簡なんか執筆しちゃいないとね。

アレアレ?

哲学でいう「真理」とはどこへやら。でもいきなり死刑になってもヤバイしね。

さて投獄されたディドロ。投獄生活にすっかり参って、容疑を認めた。執筆での宣誓書をかき、軟禁生活に入る。このときにプラトンの「ソクラテスの弁明」を翻訳した。

この3ヶ月の投獄生活でディドロは、身の危険をまねきかねないものは生涯発表しない決心を固めたらしい。

1749年のことだった。

さて、ここでも二説ある。
)佑先に書いたようにディドロの容疑を認めたこと。
▲襦Ε屮襯肇鵑機転をきかせて釈放にいたった。


 L'Encyclopédie Agriculture  百科全書 農業の図版
フランスの農業と当時の農民の様子がわかる記事はこちら、「マリー・アントワネット フランス紀行から」よりどうぞ。かなり長いぞ。

どちらにしても、また百科全書に戻るわけだ。

ディドロは翻訳原稿の回収、不備な原稿の修正、資料・参考書・図書の収集にあけくれる。

1750年には、共同編修のダランベールによって、モンテスキュー、ヴォルテールなどの著名な文筆家の協力も得られ、この頃無名だったルソーに音楽の諸項目を依頼する。
 
この年にはジョクールが「1日13時間から14時間」を投入して、片腕となったらしい。

1751年、ダランベールの「序論」を巻頭に「百科全書第1巻」が出版された。そして52年には第2巻だ。

だがイエスズ会らは「王権を破壊し、自立と反抗の精神をうえつけ、晦渋で曖昧な言葉を用いて、誤諺と退廃と無宗教と不信仰の基礎をすえる」と2巻の発行を国王の名で禁止する。

国王の公妾ポンパドゥール夫人、政府当局のマルゼルブの好意で形勢は好転する。

だがまた弾圧がやってくる。

第7巻発行後のことだ。国王の顧問会議で出版特許取り消しと出版禁止となるわけだ。

ここでダランベールは編修から手をひき、数学の項目だけに専心することになうr。ディドロ一人が編修責任を負うことになった。1759年のことだ。

ところが図版集は・・・。なぜか出版特許が与えられている。

L'Encyclopédie IMPRIMERIE  百科全書 印刷の図版
 このページの右側の図案になっているものを印刷すると左のとおりって感じで。

ディドロたちはこの時期、本文すべての原稿を印刷にまわしている。ところがル・ブルトンがキリスト教の批判を巧妙にしのびこませたページをぬいた。1764年に発見。

ディドロはル・ブルトンに手紙を書く。
「あなたは私の心臓に短刀をつきたてました。」と。

だが図版の出版も1772年に完結し、最終第11巻となった。

本文17巻、図版11巻。そして歳月26年。ディドロ59歳だった。

ドゥニ・ディドロの記事
記事 「ブーガンヴィル航海記補遺 その3
記事 「 ブーガンヴィル航海記補遺 by ディドロ
記事 「第3章 司祭とオルーの会話/第4章 司祭とオルーの会話の続き

| ドゥニ・ディドロ | 21:11 | trackbacks(3)
記事 「 ブーガンヴィル航海記補遺 by ディドロ
記事 「第3章 司祭とオルーの会話/第4章 司祭とオルーの会話の続き

上の2つの記事は面白おかしく書いたつもりなので、そのあとだとちょっと真面目な記事になるかも。前期時同様に参考本「世界の名著 ブーガンヴィル航海記補遺」より要約をしている。(90%カット)そして文法も少々変えたのをご承知のうえでどうぞ。

第2章 老人の別れの言葉



Supplement Au Voyage De Bougainville
by Denis Diderot


語っているのはタイトルどおり老人だ。ブーガンヴィルがやってきた時に、侮蔑のまなざしを投げかけた老人。

タヒチ人へ
「野心に取り付かれたこの者たちの正体がいまにはっきりするだろう。彼らはまたここに戻るだろう。片手には十字架の形をした木切れをもち、もう一方の手に剣を握り、我らの喉笛を切り、従わせ、不幸になるだけだ。」

ブーガンヴィルに
「さっさと船を遠ざけてくれ。
われわれは自然がくれた純粋な本能に従って生きている。
この島では、なんでも共有だ。

おまえは女たちに新しい感情を燃え上がらせた。
嫉妬のにこの島に、残忍と憎しみを生み出した。
われわれは自由に生きている。
それを奴隷にするという印を埋め込んだ。」



Faa Iheihe タヒチの牧歌 1898年
ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin)


オルーに、ブーガンヴィルらに、タヒチ人に

「言葉がわかるオルーよ。この島に奴らが書き込んだ言葉をみなに聞かせてくれ。・・・"この土地はわが国(フランス)の領土なり"。

いったいどういうわけだ。われわれは同じ人間と尊重して迎えた。

われわれの風習をそのままそっとしておいてくれ。ブーガンヴィルらの風習よりずっと懸命でまともなのだから。ブーガンヴィルらがタヒチ人を無知と呼んでいるものと、彼らの役にたたない知識とを交換しようとは思わない。

結局手に入れるのは幻の利益だけだ。

この島に禍あれ、われわれはただひとつの病しか知らぬ。それを新しい病を持ち込んだ。愛撫されておこる病毒。この島に禍あれ。」



Woher kommen wir Wer sind wir Wohin gehen wir
われわれはどこから来たのか
われわれは何者か われわれはどこへ行くのか(1897-1898年)
ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin)


絶対王政での植民地政策(イ14世記事をどうぞ。)からルイ15世、ルイ16世、ナポレオンと続くフランスの植民地化。ヨーロッパは大航海時代との侵略で、原住民の絶滅も多かった。スペインがアメリカ大陸を植民地化では、原住民すべてを殺戮。あるいは奴隷として船に乗り込ませ、帰港のときには死に絶えていたという話がある。

人間の悪しき業を植え付け、そして病毒。

原住民がもたなかった病毒は、侵略のヨーロッパ人が持ち込んだ。

進化論とは違う弱肉強食。自然淘汰ではない意図的な人間の野心と病毒をもつ人間たちの侵略のための絶滅。

フランスの歴史では、西インド諸島のマルティニーク島の原住民を1658年(ルイ14世の時代)に殲滅し、純潔の島民は絶滅。

ルイ15世の時代に生きたドゥニ・ディドロはこうした史実を、この老人の口を借りて、ブーガンヴィルを批判しているのだよ。
| ドゥニ・ディドロ | 07:41 | trackbacks(0)
記事 「ブーガンヴィル航海記補遺 by ディドロ」の続き



三人のタヒチ人 1897年
ール・ゴーギャン (Paul Gauguin)


このブーガンヴィル航海記補遺がなんぞやという方は一度うえの記事を読んでからにして。じゃないと勘違いをされる場合があるので。またおもしろおかしいところだけをトピックにしているので、「あらすじ」でもないことをご了解願いたい。

第3章 司祭とオルーの会話

35、6歳のタヒチ人オルーは、同い年くらいの探検隊付き司祭の面倒を引き受けることになる。ホームシティというところだね。

オルーの家族は妻に娘三人(アスト、パリ、ティア)だ。

司祭は床に就くが、主人のオルーがやってきた。

オルー
「男には、夜の相手が必要だ。妻、娘三人から好きな女を選んでくれ」

いやぁ、ルイ15世の時代だろうが現代であろうがびっくり仰天の話ではないか。これがタヒチがうまれた赤ん坊の時代で、司祭や僕らは耄碌した老人の時代で、その距離が大きいゆえに生まれる「びっくり仰天」の感覚なのだ。

司祭
「わたしの宗教、身分、正しい風習、慎みがこの贈り物をうけとるわけにはいきません」

こうして、オルーと司祭の「宗教」というやりとりが延々つづく。



I Raro te Oviri (Under the Pandanus) パンダナヌの下で 1891年 
ポール・ゴーギャン (Paul Gauguin)

オルー
「あんたの言う宗教という名前のものがちっともわからない。しかしよくないものだとしか考えられない。このオルーはおまえを招いた主人として、友として、このタヒチの風習に従ってくれと頼んでいるのだ。」

しかも末娘のティアまでが、「どうか私に名誉を与えてください。わたしに子供を生ませてください。」と懇願する。

オルー
「おれがしゃべって、おまえの気を悪くするようじゃいやだな。もしよければおれの意見も聞いてほしい」

などというあたり、なかなかオルーは好人物。

こうしてお互いに職人、三親方などの例え話を持ち出して、論じていく次第である。

司祭は、女性の名誉、不貞が蔑まれることを話すが、オルーは「そりゃまたどうして」を繰り返す。

そうして最初の晩、ティアは一糸まとわぬ姿で司祭の前にあらわれた。

第4章 「司祭とオルーの会話の続き」

女の黒いヴェール、灰色のヴェールの話が終わってから



Nevermore (横たわるタヒチの女) 1897年
ポール・ゴーギャン (Paul Gauguin)

司祭
「父親が娘と寝る、母親が息子と寝る、兄が妹と寝る、夫が人妻と寝る。そんなことをしてかまわないんですか。」

オルー
「なぜいけないんだね。」

司祭
「近親相姦じゃありませんか。不貞行為ではありませんか。」

オルー
「"きんしんそうかん"、"ふていこうい"とはどういう意味だね。」

司祭
「犯罪です。途方もない犯罪です。わたしたちの国では火あぶりですよ!」

オルー
「知ったこっちゃない。
タヒチの風習を持ち出して、ヨーロッパを非難することはできない。それと同じでおまえの国の風習をもとにしてタヒチの風習を非難することもできないわけさ。」

司祭
「じゃ、父親と娘が関係をもつことはどうでしょう」



Manao tupapau (The Spirit of the Dead Keep Watch) 1892年
ポール・ゴーギャン (Paul Gauguin)

オルー
「娘が不器量で、男からほとんど相手にされないという場合でなければ、あまりないことだ。」

司祭
「兄弟と姉妹の結婚はありふれているのでしょうね」

オルー
「そうだ。それにたいへんすすめられている。」

ここまでの会話は90%省略しているし、記事の会話も90%ぐらいの勢いで要約している。

さて最初の夜はティアが突然司祭の部屋に飛び込んで、次の夜はパリ、第3夜はアスト、そして第4夜は客としての礼節から自分を招いてくれた男の妻に一夜を捧げた。

要約の参考図書
世界の名著 中央公論社(昭和45年発行)

話は前後するが第2章「老人の別れの言葉」はタヒチだけには限らない、植民地や未開の地の発見によって禍を招くものに対しての話。これは明日にする。
| ドゥニ・ディドロ | 09:27 | trackbacks(0)
ブーガンヴィル航海記補遺 エピローグ

航海家ルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィル(Louis Antoine de Bougainville)は、博物学者、デッサン画家、天文学者を伴い、世界一周の航海に出発したのが1766年のことだ。フランス人として初の世界周航を達成し帰港したのが1769年になる。



ルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィル
by ean-Pierre Franquel


1771年に「世界周航記」を出版したなかに、「ポリネシアの天国(パラディ=ポリネシエン)」についての話がある。

実際にポリネシアの有名な島タヒチには、ブーガンヴィルは1786年に訪れているらしい。

その「ブーガンヴィルの実録」を報告するタヒチ人の原始生活を、ドゥニ・ディドロ(Denis Diderot)は「ディドロの架空旅行記」として朽し堕落したヨーロッパの習俗が対置する対話形式で、「ブーガンヴィル航海記補遺」を1772年に出版する。

「世界周航記(ブーガンヴィル著),ブーガンヴィル航海記補遺(ディドロ)」は岩波から両方を読むことができるが、僕が読んだものは、中央公論のものでディドロのほうだけ。

さて当時の僕は高校生か大学生だったわけで、「ブーガンヴィル航海記補遺」(Supplement Au Voyage De Bougainville)の記憶は司祭とオルーのやりとりが延々続くなかの「近親相姦」だけだった。

近親相姦は悪いという司祭に、タヒチの男オルーは「"きんしんそうかん"とはなんぞや」という。

司祭はオルーーに、「あなたたちが娘と交わっていることだ」ということをいろいろ説明するのだが理解できない対話が続く。




百科全書で有名なドゥニ・ディドロ(1713−1784)
百科全書のパトロンはルイ15世公妾ポンパドゥール夫人
by ルイ=ミシェル・ヴァン・ロー(Louis-Michel VAN LOO)


A氏とB氏の対話は、会話の基本といわれている天候の話題から、本を読みましょうとB氏が促すところが最初の部分。

A氏 「あいかわらず例のブーガンヴィル航海記ですか」

A氏はかなりうんざり気味のようだ。そしてB氏はお構いなくブーガンヴィル航海記の話をはじめ、A氏の質問に如才なく答える。

これがさ。シェークスピアの喜劇みたいで、複雑なやりとりが面白いんだ。そういった長い話はのぞいて。

B氏 「・・・タヒチ人とヨーロッパ人との間隔は生まれたての赤ん坊と耄碌した老人との距離よりもおおきい。・・・タヒチ人はわれわれの習慣や法律を聞かされても、さっぱりわけがわからない。・・・」

A氏 「君は夢物語をつくりあげるつもりですか?」
B氏 「もし君がブーガンヴィル航海記補遺をご存知なら疑う余地はないはず」
A氏 「どこにあるのです。」
B氏 「テーブルのうえに」

貸してくれというA氏に、貸したくないというB氏。それで二人はそこでいっしょに目をとおすことになり、本題へと導かれる。

ここまでが1章の「ブーガンヴィル航海記の批判」で、第2章が「老人の別れの言葉」、第3章が「司祭とオルーーの会話」、第4章が「司祭とオルーーの会話の続き、第5章が「AとBとの対話の続き」となっいる。

さて、実は侵略されているタヒチ。この話は明日、あさってに。

ディドロの肖像画について 引用:ルーヴル美術館
ディドロは、真実を犠牲にしてまでモデルを美化しようとした、当時の肖像画家たちの傾向を激しく非難したにもかかわらず、友人であるヴァン・ローが彼の肖像画を描いた際、ディドロを「物欲しげな視線で微笑み、気取って、未だ愛想を振り撒く年増のあだっぽい女のように描き出した。姿勢は国家の秘書官のそれであり、哲学者のものではない」と咎めたのである。
| ドゥニ・ディドロ | 19:22 | trackbacks(0)
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