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今日の記事は、このブログの開設5年目にして一番長い記事。僕なりに、「太陽がいっぱい」で登場するフラ・アンジェリコ(Fra Angelico)の画集から、対極する画家フィリッポ・リッピ(Fra Filippo Lippi)との比較とこの映画の解説を試みた。

いわば個人の趣味に基づく感覚的なもの。


日本では監督のクレマンがアラン・ドロンを強く推して、主役のはずのモーリス・ロネと交代した経緯があるという話があるが、海外ではクレマンはアラン・ドロンのトム役に不満だった。配役の人選が思うようにならない時代だと記されていたけど。また、アラン・ドロンがトムを演じたいとクレマンに交渉したという説も。

とにかく配役が一転した。フィリップ役のアラン・ドロンがトム・リプリーを演じることになった。

森鴎外の娘でもある森茉莉は、「ドロンの恋人は、ジャン・クロード・ブリアリと、マネージャーのジョルジュと、監督のルキノ・ヴィスコンテの三人」と暴露していたけど、アラン・ドロンのバイ・セクシャルな魅力がこの映画のエニグマをいろいろと楽しめる。

映画「太陽がいっぱい」の監督ルネ・クレマン(René Clément)もホモセクシャルだったらしいが、ホント?

子供のころ、「太陽がいっぱい」をみて驚いた。ストーリーはよくわからないが、彼が望むものが手に入ったところで、破滅する。


こんなカッコイイ男の人が・・・と悲しくなった。子供心にはカッコイイ男が幸せでなければならないという定義があった。そんな幼稚な時代があったのさ。

それから、ずっと「太陽がいっぱい」は観る機会はなかったし、時代も変わった。ニーノ・ロータ(Nino Rota)のオリジナルの曲を聴くまで、忘れていた。

PLEIN SOLEIL ALAIN DELON / IMAGES & MUSIC
Original Soundtrack / Nino Rota Plein Soleil (Suite) La Plage (Final)

で、とりあえず、ロシア語版の「太陽がいっぱい」を鑑賞してみて。



架空の街モンジベロのマルジェを訪ねる二人、手にフラ・アンジェリコの画集


動画 「PLEIN SOLEIL(太陽がいっぱい)」

 Plein Soleil, 1960 1/11 カフェのシーン
 Plein Soleil, 1960 2/11 マルジェを訪ねる二人
 Plein Soleil, 1960 3/11 トム・リプリーが殺意を抱く孤独なボート
 Plein Soleil, 1960 4/11 リプリーがフィリップを殺害
 Plein Soleil, 1960 5/11 
 Plein Soleil, 1960 6/11 後半に市場の場面 →市場の場面
 Plein Soleil, 1960 7/11 前半に魚の頭の場面、第二の殺人
 Plein Soleil, 1960 8/11 
 Plein Soleil, 1960 9/11 
 Plein Soleil, 1960 10/11 隠蔽工作をするトム
 Plein Soleil, 1960 11/11 ラストです



二人が渡し舟を降りるシーン 淀川氏はこの場面を同性愛表現としているが・・・


原作の「才人ミスター・リプリー」はトムの同性愛が潜在的に描かれているが、トムはゲイだと思われるのを嫌がっているのだ。この「太陽がいっぱい」ではその同性愛の部分を削除したことになっている。

削除したことになっているが。

昭和50年。淀川氏が小説家吉行淳之介氏との対談で、この映画のホモセクシャルを説いた。吉行淳之介と同席した和田誠さんは正しいのか正しくないのかは別として、一応ゲストのホストとしてわきまえた答弁。あとで吉行淳之介はやっぱり腑に落ちず、酒を飲みに行ったそうだ。

僕は冒頭でのシーンを改めて鑑賞。古典的な主従関係のようなトムとフィリップだと僕は思う。



カフェの場面 フィリップの使い走りをするトム


それを、たとえば古くはローマ、ギリシャ時代から続くホモセクシャルな関係は、イタリアならではの歴史と仮定して。プラトンの「饗宴」からして、同性愛を語っている。またスパルタの花嫁は男装もした。古代ローマでは暴君ネロと少年奴隷の関係は歴史に残る。こうした知識があって、その少年奴隷のようなトムに置き換えれば、個人の解釈しだいで同性愛が成立するという感覚的なものだ。

淀川さんは、リプリーの原作を読んでいたのだろうか。それとも「太陽がいっぱい」だけを鑑賞して謎解きをしたのだろうか。

「渡し舟を降りる場面」、「サインの真似」、「ロープの場面」、「フィリップの遺体の左手とグラスを持つトムの右手」、「帆船」だという。

「渡し舟を降りる場面」は、同時に降り立った二人の平等な立場から恋愛感情を表し(実際に降りるのはフィリップが先、トムはあとだったけど)、「サインの真似」はトムのフィリップへの愛撫、、「フィリップの遺体の左手とグラスを持つトムの右手」は、手を取り合うかのように離れられない二人だそうだ。

無理に同性愛を探す必要はない映画だと思う。



マルジェを尋ねる二人が寄ったバレエのレッスン場の風景


貧しいトム・リプリーを演じるアラン・ドロン。幼馴染で金持ちのフィリップを演じるのがモーリス・ロネ。9年後の映画「太陽が知っている」で、アラン・ドロンに二度殺されるモーリス・ロネ。

マルジェはルネサンス期の画家フラ・アンジェリコ(Fra Angelico)を好む。サンドロ・ボッティチェッリでもレオナルド・ダ・ヴィンチでもない。詳しく述べるのは後半にして、マルジェという女性を映像でみる限り、躾や教育が行き届いた女性には見えない。

つまり、それは裏返しを象徴している。金持ちのフィリップ=自堕落のフィリップ、美貌のトム=社会的劣等感をもつトム、フラ=アンジェリコを好むマルジェ=似非インテリ、あるいはインテリかぶれのマルジェ。それぞれが象徴する影には三人三様の「育ちの悪さ」がみえてくる。

金があっても、金がなくとも、普通の教育を受けられたとしても、受けられなくとも、「生得的地位」が欠けている三人。それなのに金持ちに特権があると思うフィリップ。美しく賢い自分だと思うマルジェ。たった一人トムだけが何もない。厄介な疎外感と孤独だけがある。



フラ・アンジェリコの画集を見つめる殺害される二人


映画の冒頭のカフェのシーン。アラン・ドロン演じるトムは右側で背を向けている。トムに買いに行かせたフラ・アンジェリコの画集を手にするフィリップとそれを目にするフレディ(原作の小説には登場しない)。

ここではこれから殺害される二人が紹介されていたわけだ。フレディの遺体を見て、「ダンス、ダンス。踊り続けても虚しいだけ。最期はあっけないもの」と、バレエのレッスンでピアノを弾くマダムの言葉。



ウフィッツィ所蔵のフラ・アンジェリコ「聖母戴冠」部分


ここではフィリップはフラ・アンジェリコ(Fra Angelico)を好むマルジェへ渡す画集だが、原作の小説では絵画かぶれの御曹司だ。

原作との共通は、主人公が友人を殺して、殺した御曹司になりかわる筋書きだけだ。登場人物も異なり、人物の名前なども変更されているが、随所に原作がチラチラと見え隠れしている。

たとえば、フィリップ(原作ではディッキー)が、トムに何ができるのかを質問するところは、原作に登場しないフレディが「トムはなんの役に立つのか?」と訪ね、フィリップは「経理もできるし、料理もつくれるし・・・」と答えている。



原作のトム・リプリーの表紙に描かれたトム


原作では、トムはこう云う。

ボーイだって、子守だって、経理だってできる。
サインだって真似ることができるし、ヘリの操縦もできる。
ダイスも扱えるし、他人そっくりになりすますことだって、料理だってできる。

監督クレマンはアラン・ドロンの主役抜擢に不満だったと述べた。でもアラン・ドロンだって何でもできる。

デリカテッセン、海兵隊員、囚人、市場の運び屋、ボーイ、そしてトムやフィリップのように、職業をもたずブラブラすることも。



盲人から杖を買い取るフィリップは、非常識にも盲人の真似ごとをはじめる。


この当時のドロンは24歳。トム・リプリーは25歳だ。この役はアラン・ドロンの職業遍歴と大衆と下層の暮らしを知る彼ならではの演技が、トム・リプリーの卑屈さ、大衆や下層民の品性と生活ぶり、上流階級の劣等感を演技できるわけだ。

ひとつにフラ・アンジェリコの画集は、宗教、そして上流社会と大衆夜会の教養の違いを指し示してしるのかもしれない。

監督クレマンは、いつの間にかアラン・ドロンのために「太陽がいっぱい」を制作したかのような結果になったと感じている。



「太陽がいっぱい」にカメオ出演のロミー・シュナイダー


スタンダールの「赤と黒」のジュリアン・ソレルと、トム・リプリーの違いは「野心」だ。ジュリアン・ソレルは、はじめから野心に満ちた美貌の青年だ。

トム・リプリーをはじめ、この三人は、似非上流の象徴。いまの大衆社会に蔓延してる人々だよね、なんてたまに辛口で、許して。そしてトムに野心はあったんだろうか。僕はトムは変身願望だと思っている。

だが、ニーチェの「道徳の系譜」的に考えると、彼が言う「道徳上の奴隷一揆」の解釈もあり得る。ただし、ニーチェの考える貴族的立場と卑賤立場的にはなり得ない。

なぜなら、フィリップは価値の高いものとみなす立場ではないからだ。



トム(アラン・ドロン)の鑑の前の独言の場面


フィリップの贅沢な服(たぶんブルックスブラザーズ)を着るトム(アラン・ドロン)。いまになって鏡に映るトムの姿はフィリップの投影だと感じた。この映像画像の左側にフィリップの足元が映っている。その様子を黙って見ているフィリップがいる。

だが、フィリップの足元が鏡に映っていることを気づかないトム。

「マルジュ、愛しているよ」と、フィリップになりきって囁き、鏡の自分にキスをする。そこで鞭を持ったフィリップに気がつく。古代の少年奴隷と皇帝か。それともSかMか。心理学的な同一視(同一化)なのか。

自分にとってのキーパーソンと同じ振る舞いをすることによって、対象を内在化している気がする。もうひとつの考えは同化願望。


トム(アラン・ドロン)がフィリップの服を脱いで彼と向き合うシーンでは、フィリップはクローゼットの鑑に映る。ここは子供心に見ていられなかった。きまり悪そうなトムの表情。さっきまでの伊達男とはまるっきり違う。

社会的な階級の違いが象徴されているようだ。

同化願望とは、たとえば支配される側に支配されたいと思う願望で、感化されて、あるいは感化して同一になることとは違う。フィリップは支配側。


クルージングの三人。マルジェにとってトムは厄介者だ。

三人の食事の場面では、フィリップはナイフとフォークを使うトムに、「金持ちの食べ方はこうだ。」などといって蔑む。そう、フィリップの言うとおりに、魚はナイフの持ち方が違う。「金持ちの食べ方」じゃないけどね。

追い討ちをかけるように、フィリップはトムのヨットの操作のミスに罰を与えた。トムは拒んだが、フィリップは落ちた救命ボートへ彼を乗せ、マルジェとセックス。トムは必死のロープを頼りに船に戻ろうとするが、ロープは切れてしまう。フィリップとの決別を意味しているのか。

そして灼熱の太陽の真下を漂流するボート。フィリップとマルジェが気づいた頃には、トムの背中は火傷を負っていた。

この映画「太陽がいっぱい」でのこの場面は、トムの孤独の象徴。


トムは憎悪と復讐から、フィリップ殺害を計画する。

映画の前半に、盲人からステッキを買い取り、盲人のふりをして、マダムと相乗りをしたときの、そのマダムがイヤリングを片方落としていくのをポケットにしまったトム。そのイヤリングでマルジェとフィリップの不仲にさせ、計画通りにマルジェは船を降りる。

二人きりになった船。カード・ゲームをしながら、トムはフィリップ殺害計画を話し始める。映画の冒頭で、カフェで懐中時計を耳にあてていたトム。その懐中時計を取り出し、次に取り出したのはナイフ。決して野心で彼を殺害したのではない。動機はトムの強欲と疎外した復讐だ。

トムは殺人者だ。原作の「才人 ミスター・リプリー」、マット・ディモンが演じた原作に忠実なリプリー像には、感情移入が少ない。奇妙な才能のほか取り柄のないトムが殺人者だからだろう。映画「太陽がいっぱい」のアラン・ドロンのトムには、なぜか感情移入する人が多い。

なぜならば、アラン・ドロンが美貌の青年であり、かつ貧しい青年であり、社会的な貧富と、腐敗したブルジョワの人間性が描かれているからだろう。だが、殺人者に感情移入する必要があるだろうか。


映画「太陽がいっぱい」で描かれているマルジェは、僕が嫌いなタイプの女性。ヒステリックで無知で品がない。映画のはじめで、画集をもって訪ねたマルジェの部屋はフラ・アンジェリコの絵とフラ・アンジェリコのサインが散らかっている部屋。

記事 フラ・アンジェリコ 6枚の受胎告知(Annunciation)

フィリップとトムが交互に持つフラ・アンジェリコの画集の表紙は「聖母戴冠」だと思った。ウフィッツィ所蔵の構図に似ている。だが、少なくともフラ・アンジェリコの「聖母戴冠」は7枚ある。プラド美術館、クレイバーランド美術館、よく知っているルーヴル美術館。そしてサン・マルコ美術館(以前のサン・マルコ修道院)に三枚ある。



マルジェの部屋に散乱しているフラ・アンジェリコの作品
コルトーナの司教区美術館所蔵の「受胎告知」とその部分の大天使聖ガブリエル
左上は「受胎告知」(司祭区美術館所蔵)のプレデッラに描かれている「神殿奉納」


なぜマルジェはフラ・アンジェリコ(Fra Angelico)なのか。いや、僕はこのフラ・アンジェリコ(Fra Angelico)の裏側に位置するフィリッポ・リッピ(Fra Filippo Lippi)を示唆しているのだと思う。

フラ・アンジェリコ(Fra Angelico)とフィリッポ・リッピ(Fra Filippo Lippi)は同時代のフィレンツェの画家である。そして二人とも修道士だ。

フラ・アンジェリコ(Fra Angelico)は敬虔な修道士。フィリッポ・リッピ(Fra Filippo Lippi)は堕落した修道士で有名である。金持ちの道楽息子フィリップ。原作のディッキーから名を変更したのはここに理由があるのではないか。



トムがマルジェに見せた作品部分 Fra Angelico - The Coronation of the Virgin
たとえばフィリッポ・リッピの場合 Fra Filippo Lippi - Triptych(祭壇画の部分)


サンドロ・ボッティチェッリ、レオナルド・ダ・ヴィンチの師でもあるフィリッポ・リッピ(Fra Filippo Lippi)は、修道女を略奪するくらいの奔放な画家。この自由奔放な部分をフィリップに当て、フィリッポ・リッピ(Fra Filippo Lippi)の生い立ちを、アラン・ドロン(ALAIN DELON)演じるトム・リプリーに当てたとか。

フィリッポ・リッピ(Fra Filippo Lippi)の人格と生い立ちを二人に分割したのではないか。

アラン・ドロン(ALAIN DELON)もフィリッポ・リッピ(Fra Filippo Lippi)も、「肉屋」の息子で貧しかった。ドロンも1947年に、全寮制のローマ カトリック教会の神学校に入れられた。そして退学。



フィリップ殺害後にパスポート偽造、フィリップのサインを真似るトム。


そう考えてみると、監督クレマンは、アラン・ドロンの主役に、次々とインスピレーションが沸いたのではないか。もっともアンリ・ドカエの撮影とニーノ・ロータの音楽が、アラン・ドロンを際立たせたのかもしれない。アンリ・ドカエはヌーヴェルヴァーグの映画作品を支えた一人。

ヌーヴェルヴァーグはセーヌ右岸派(カイエ派)、セーヌ左岸派と分かれているが、共々にロケ撮影中心、同時録音、即興演出などの手法的な作品で、ドキュメンタリー、セミドキュメンタリーなんかの社会派の要素を取り入れ、この時代につくられた。アンリ・ドカエをはじめ、この映画「太陽がいっぱい」には、ヌーヴェルヴァーグのスタッフがいっぱいだったそうだ。

アラン・ドロンも監督クレマンもヌーヴェルヴァーグとは無縁。つまりこの作品と主役でヌーヴェルヴァーグの作品への対抗としていたということだろうか。だが実際にはクレマンは否定している。けれどフィリップ殺害後の「市場」の場面で、トムが市場で働く人たちとのやりとりや試食、そして大きな天秤とあらゆる種類の魚市場は、ある意味ドキュメンタリーな編集で、地に落ちた魚の頭は印象的。



フレデリックの遺体確認のあとでの食事 まるで「最後の晩餐」のユダのようだ。


「太陽がいっぱい」では、「食」の場面も多い。先の「市場」もそうだが、トムは殺人のあとに必ず何かを食する。フィリップの時はフルーツ、フレデリックの時はチキンだ。

「市場」には死んだ魚と家畜の肉、新鮮な野菜や果実が並ぶ。ガンジーが動物の殺生において「人は生きるために食べるもので、 味覚を楽しむために食べてはいけない」と言った。

貧しいトムは、もともと「生きるために食べている」側で、金持ちのフィリップやフレデリックは「味覚をたのしむために食べている」側だ。その二人が「死体化」された。つまりトム・リプリーは「生きるために食べることであり、食べることは殺すこと」だと知っている。

ニーチェは「ツァラトゥストラ」で、弱い側の立場の人間は、困難に出会った場合に突如として攻撃性を表すと述べている。つまりトム・リプリーのような立場の人間だ。



殺害したフィリップの屋敷に忍び込み隠蔽工作をするトム


トム(アラン・ドロン)の鑑の前の独言の場面と同じ、フィリップのブルックス・ブラザーズのジャケットを着て、裏工作に忍び込む。

フィリップの仕草や行動をトムはよく知っている。ベッドを彼が使っていたように、シーツに皺をつけ、枕にくぼみをつけ、タイプライターで遺書をつくる。「遺産をマルジェに」と残す。トムはマルジェにフィリップの自殺を告げ、自分はアメリカに帰国することを告げると、マルジェは彼に全てを託す。

こうしてトムは次々と自分を守るために、「嘘」と「隠蔽工作」を続ける。


トムは死刑台への道に進む。刑事が待っているとは知らずに。左端のクルーザーが見えるだろうか。おれは死の船で、トムを迎えに来たという説もある。

Meilleur!(最高の気分だ!)

マルジェはいわば戦利品。マルジェも浚われた姫のように表情は硬い。トムは「なりすます」ことによって、変身願望を手にいれた。

「太陽がいっぱいだ」
卑しい育ちのリプリーは、富裕で傲慢な友人フィリップを殺し、彼の「なりすまし」になる。卑しい身分では手に入れることができないような全てのもの。それが「太陽」だ。

「太陽がいっぱいだ」
リプリーが、輝く太陽の真下で口にする言葉。

「太陽がいっぱいだ」
そのとき、フィリップの死体が浜辺にあがる。そして刑事たちが待ち受ける場所へ、彼は歩いていく。何も知らずに。左端に映るのが彼を迎えに来た死の船だという。

これは男だけはなく、人間の欲望の話。

原作は完全犯罪である。たぶん、モーリス・ロネがトム・リプリー役であったら、もしかすると結末は原作通りだったのかもしれない。

だが、原作のリプリー像とはかけ離れた美貌のアラン・ドロンだったからこそ、クレマンは「最後の審判」を下した。神の「復讐するは我にあり」という言葉が聞こえてきそうだ。


才人というのは、トムに対する揶揄である。原作ではリプリーは詐欺師(コン・マン)だ。この1955年に出版された「才人 ミスター・リプリー」だけど、表紙のイラストがマット・ディモンが演じたリプリーと似ている感じ。

長篇(トム・リプリーシリーズ)
The Talented Mr. Ripley (1955年). 邦訳「太陽がいっぱい」(角川)「リプリー」(河出書房)
Ripley Under Ground (1970年). 邦訳「贋作」(角川)
Ripley's Game (1974年). 邦訳「アメリカの友人」(河出書房)
The Boy Who Followed Ripley (1980年). 邦訳「リプリーをまねた少年」(河出書房)
Ripley Under Water (1991年). 邦訳「死者と踊るリプリー」(河出書房)

「太陽がいっぱい」(1960年)ルネ・クレマン監督、The Talented Mr. Ripley
「アメリカの友人」(1977年)ヴィム・ヴェンダース監督、Ripley's Game
「リプリー」(1999年)アンソニー・ミンゲラ監督、The Talented Mr. Ripleyの再映画化
「リプリーズ・ゲーム」(2002年)リリアーナ・カヴァーニ監督、Ripley's Gameの再映画化
「リプリー 暴かれた贋作」(2005年)ロジャー・スポティスウッド監督、Ripley Under Ground

YOU TUBE 「才人 ミスター・リプリー」(1999)
The Talented Mr Ripley
The Talented Mr. Ripley - Train Scene - 'That Thing With Your Neck'


僕は、こちらのリプリーも嫌いじゃない。現代的な卑屈さも顕れているし。さらに殺される方がカッコ良すぎ。


眠っているディッキーに寄り添い、胸に顔を埋めるトム・リプリー。同性愛まっしぐらのトム。コンパートメントの窓ガラスに映る二人がアップになると、ディッキーは目を覚ます。それから・・・。


トムに好意を持つピーター。トムはピアノを弾いている。いや、まったく才人だね。
The Dark Room of Past

ピーター演じるのはジャック・ダヴェンポート (Jack Davenport)。ピーター・スミス=キングスレーは、トムと愛し合う。トムとディッキーの二重生活を巧みにこなす生活。ピーターとの船旅で、思いがけずにこの二重生活が壊れそうになる。愛するピーターさえ殺してしまうトム。

僕はジャック・ダヴェンポート好き。リプリーのピーターの動画は、僕の好きな「Truly Madly Deeply」の音楽。下記リンクから。
Jack Davenport as Peter Smith-Kingsley



トム・リプリーの20年後 「アメリカの友人」(1977年)


「アメリカの友人」(1977年) Mr. Ripley as Dennis Lee Hopper(デニス・ホッパー)
The American friend 1977
DER AMERIKANISCHE FREUND - HQ Trailer ( 1977 )



トム・リプリーの20年後 「リプリーズ・ゲーム」(2002年)


「リプリーズ・ゲーム」(2002年) Mr. Ripley as John Malkovich(ジョン・マルコヴィッチ)
Ripley's Game trailer
Ripley's Game - Train scene
Getting Away With Murder " Ripley's Game"



「リプリー 暴かれた贋作」(2005年)


「リプリー 暴かれた贋作」 Mr. Ripley as Barry Pepper(バリー・ペッパー)
Ripley Under Ground (2005) german Trailer
Ripley Under Ground (2005) german Trailer
Douglas Henshall in 'Ripley Under Ground' [in Hungarian]

アラン・ドロン「太陽シリーズ」
太陽が知っている La Piscine (1968)
フェミニズムな映画 「太陽はひとりぼっち」   L'eclisse − The Eclipse(日蝕)



フラ・アンジェリコ 「最後の審判」


さて、リプリーに最後の審判は下ったのか。

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アラン・ドロンの黒いチューリップ


アラン・ドロンの「黒いチューリップ(La Tulipe noire)」も、僕が幼少の頃、TVの「洋画劇場」でみた作品。音楽はジェラール・カルヴィ(Gerard Calvi)が担当した。

Alain Delon & The Second Waltz

なんだけど、なんとショスタコーヴィチ(Dmitrii Dmitrievich Shostakovich)のジャズ組曲第2番第2ワルツと組み合わせた動画。

sai 記事
ショスタコーヴィチ ジャズ組曲から アンドレ・リュウの第2番第2ワルツ The Second Waltz

うーん、「黒いチューリップ」との時代とは違うが・・・、スターリンからフルシチョフ時代への過渡期のこのワルツ。でもアラン・ドロンには似合うかも。


「三銃士」でお馴染みの小説家アレクサンドル・デュマ・ペール(大デュマ)の作品に「黒いチューリップ」がある。史実を忠実に調べ、その中にフィクションを織り込むデュマの小説。

そういえばsai のコメントに「〇〇さんの小説の登場人物は実在ですか?」ってあって、sai はだいぶキレまくっていたが(大笑い)、ちゃんとした本も読んでいないで、それってないだろうってね。

実在しているから、その小説のネタはノンフィクションかっていうとそうじゃないし。この映画は、デュマの作品を原作として、さらに別な物語になっている。

史実とデュマの小説「黒いチューリップ」と映画「黒いチューリップ」の共通の実在した人物は、デ・ウィット兄弟。



コルネリス・デ・ウィット(Cornelis de Witt )の寓意画
コルネーリス・ビスホップ(Cornelis Bisschop)


この映画は、デュマの作品を原作として、さらに別な物語になっている。史実とデュマの小説「黒いチューリップ」と映画「黒いチューリップ」の共通の実在した人物は、デ・ウィット兄弟。兄のコルネリス・デ・ウィット、弟のヨハン(ヤン)・デ・ウィットは、無総督時代のネーデルラント連邦共和国の最高の地位にあった。

ヨハン(ヤン)は、政権の最高指導者。デュマ(大デュマ)は、この兄弟が名付け親になったという設定の主人公コルネリウス。

オランダの「貪欲なフローラ(花の女神フローラ)に貢ぐ愚か者たち」といわれた、チューリップ・バブルの暴落と混乱を織り交ぜながらの筋書きだから、主人公は黒いチューリップの品種開発をする園芸家。

虐殺されたデ・ウィット兄弟に加担したという罪で死刑宣告されるが、終身刑におさまり、牢獄の獄吏の娘に黒いチューリップの球根を手渡し、最後はハッピーエンド。


デ・ウィット兄弟の時代は17世紀。フランスがルイ14世、オーストリアはマリー・アントワネットの母、マリア・テレジアの父皇帝カール6世、英国はチャールズ2世、プロイセンはフリードリヒ2世、スペインはフェリペ4世、カルロス2世で、スペイン・ハプスブルグ家の断絶への過渡期。

イングランド王ウィリアム3世(ウィレム3世)は、オラニエ公・ナッサウ伯で、デ・ウィット兄弟の虐殺後にネーデルラント連邦共和国統領になる。

オランジュ(オラニエ)公の家系であるオラニエ=ナッサウ家。ウィレム3世の父フレデリック・ヘンドリックの時代には、ルーベンス、レンブラントピーテル・デ・ホーホヘラルト・テル・ボルフ(ヘラルト・テルボルフ)サミュエル・ファン・ホーホストラーテンらの作品には、オラニエ公やデ・ウィット兄弟にゆかりのある作品や、学問の発展、当時の風潮、政策の作品などがある。

オランダの繁栄と衰退は、フェルメールと同時代の画家たちが活躍した「オランダ黄金時代の絵画」にそっくり凝縮されている。

この画家たちのなかにも、「貪欲なフローラに貢いだ愚か者たち」がいる。



デ・ウィット兄弟虐殺後の1647年、ホーホストラーテンの作品


この時代のヨーロッパの絵画芸術では、フランスはジャン・ノクレやピエール・ミニャール、ル=ブランとか?、オーストリアはマルティン・ファン・マイテンス、アンドレアス・メラー。

英国はトマス・ゲインズバラジョシュア・レノルズ、プロイセン(ドイツ)ではアントン・グラーフとか?、スペインではディエゴ・ベラスケス、フランドルのヤン・ブリューゲル、そして各国をめぐったスペイン領ネーデルラントのルーベンス

音楽はモーツァルトバッハヴィヴァルディなんか。文豪にはドイツのゲーテ、英国にミルトンや作家はフランスのモリエールが一世風靡。啓蒙思想をひろめた思想家たちには、ヴォルテールルソー百科全書派のダランベールドゥニ・ディドロ

あー、だから映画の怪盗「黒いチューリップ」の愛馬がヴォルテール。ベタ・・・。



頬に傷のある兄ギョーム、右がジュリアン


映画「黒いチューリップ」は革命を控えた18世紀のフランスになっているから、もう少しあとの時代なんだけど、民衆の力で指導者を殺すところは、フランス革命も、このデ・ウィット兄弟も同じ運命。

デ・ウィット兄弟の私刑の絵画作品(画:ヤン・デ・バエン Jan de Baen)

ここでは、貴族ギョームとジュリアンの兄弟。同じ貴族や金持ちから、財宝を奪う怪盗「黒いチューリップ」が兄のギョーム。貴族っていうよりも義賊。デ・ウィット兄弟の「兄弟」という設定のみ共通で、あとは脚色。

この兄弟をアラン・ドロンが二役を演じる。

これは、「娯楽映画」であって、「名画」ではない。そこがまたいいかも。アラン・ドロンの「ゾロ」もそうだし。社会主義的なもの、芸術的な映画、感動ものなんてのと違う、根っからの「娯楽映画」で、面白い。



ギョームの処刑に集まる宿敵


だが、セリフやライフスタイル、その歴史の背景なんか、結構気楽に楽しめて、かつアラン・ドロンの美的男子に、男ながら魅入ってしまう。剣をふるうところなんぞ、「三銃士」を想像。

黒いチューリップ
La Tulipe Noire (1964) シーンカット版



La tulipe noire - Alain Delon


こういう感じの映画アラン・ドロンの「黒いチューリップ」は、時代も歴史もデュマの原作も関係なく、アラン・ドロンがかっこよく、そして鑑賞側が「面白かった」で終わっちゃう。

この怪盗「黒いチューリップ」のペンダントと剣が欲しかったwa。子供の頃ね。

で、僕はギョームの方が好き。さて、そろそろ「ゾロ」へ。「黒いチューリップ」も「ゾロ」もそうだけど、アラン・ドロンは誰かのなりかわりになる筋書きがいっしょだ。



新総督ミゲルになりすますドン・ディエゴ


Zorro part 1  Zorro part 2  Zorro part 3
Zorro 4 Zorro 5 Zorro 6 Zorro 7 Zorro 8
Zorro 9 Zorro 10 Zorro 11 Zorro 12 Zorro 13

ジョンストン・マッカレーの、1919年の小説「カピストラノの疫病神(The Curse of Capistrano)」の第4作目は「The Sign of Zorro」と改題。



賢い犬リリエンタールではなく、賢い犬フィガロ?だっけ?


小説では、大富豪の息子で怠け者のドン・ディエゴが、実は「怪傑ゾロ」の正体。

ゾロはは狐の意味。

黒いマントとマスクに帽子は、1920年にダグラス・フェアバンクス主演で製作され大ヒットした無声映画「奇傑ゾロ」の定番。



正義を説く修道僧フランシスコを裁く、ウエルタと結託した悪徳判事の裁判


ニュー・アラゴンの新総督ミゲルは剣の達人ドン・ディエゴの親友。ところがミゲルは暗殺され、ディエゴは復讐のため、総督ミゲルになりすます。

ニュー・アラゴンでは、護衛兵隊長ウエルタ大佐は軍隊を率いて圧政、横暴三昧。

黒馬、黒装束、黒覆面の騎士が現われた。剣できざむZの文字。



映画「アメリ」でのゾロ


「ルパン三世カリオストロの城」(1979日)のクライマックスシーンは、アラン・ドロンの「ゾロ」へのオマージュとして捧げられている。

映画「アメリ」では、八百屋の店主コリニョンを悪戯で成敗するシーンで使われている。

Zorro Is Back (Oliver Onions) 「アラン・ドロンのゾロ」 から 《ゾロのテーマ》



護衛兵隊長ウエルタ大佐


「ルパン三世カリオストロの城」のラサール・ド・カリオストロ伯爵は、このスタンリー・ベイカー演ずるウエルタ大佐がモデルではないかと。

カリオストロ伯爵の方がスマートで長身で洗練されている気はするけどね。


映画「黒いチューリップ」も、この「ゾロ」でも、登場する動物たちは賢い。隠し扉を開く賢い犬。そして脇役の魅力は、「黒いチューリップ」よりも「ゾロ」だ。

妖艶な?前総督夫人と絵画コレクション、銀器をつめさせる場面など、キャラクターがはっきりしてわかりやすい。



ドン・ディエゴに尽くす言葉が不自由な従僕ベルナルド


ベルナルドは、言葉がうまく話せない障害があるが、頼もしい青年。この映画に欠かせない人物。ゾロが愛馬に乗って逃げ切るシーンがあるが、あれ、馬から落ちたよってところが、実はベルナルドだったわけ。

誠実で、賢い黒犬(フィガロ)と同様に、とても機転がきく。

フィガロって犬、もしかしたら、別の「ゾロ」にでてきた名かも。とにかくどちらも「娯楽映画」で、このゾロはアラン・ドロンの企画によるものだったのだ。

| 映画 | 21:21 | trackbacks(1)
フランスの普仏戦争時にパリ・コミューンに属していたと考えられるバベットが、パリの晩餐を理解できない片田舎で、その芸術性を披露する。

料理は重要ではない。

小説「バベットの晩餐会」では、バベットが過去を語る中で歴史上の人物たちが登場するが、パリの住民が組織した抗戦団体パリ・コミューンで、彼女の芸術を保護してくれた宮廷や貴族、文化人たちを敵にまわした。

それは、「労働者として戦うべき」という決意からであり、彼女が「カフェ・アングレ」のシェフを務めていた時代の「顧客」のひとりで、彼女の芸術性を理解していたガリフェ将軍に、追われる立場になる。

カフェ・アングレ(Café Anglais)は、バルザックの「ゴリオ爺さん」( Le Père Goriot)、「幻滅」(Illusions perdues)、そしてフローベルの「感情教育」(l'Éducation sentimentale)にも、この「カフェ・アングレ」が使われている。

実際の19世紀にはスタンダール(Stendhal)、ミュッセ(Alfred de Musset)、アレクサンドル・デュマ(子: Alexandre Dumas)、ユージェーヌ・シュー(Eugene Sue)などのフランスの作家も常連だった。

現在は「トゥール・ダルジャン」(Tour D`Argent)として引き継がれている。



晩餐会の提案をするバベット


晩餐のあと、バベットは姉妹に言う。「あの方々は(←ガリフェ将軍や宮廷の人々)、おふたりに理解することも信じることもできないほどの費用をかけて、育てられ躾けられてきたのです。わたしがどれほど優れた芸術家であるかを知るために。」

あるとき、バベットが留守中に姉妹はいつも食事を施している人々にスープを届ける。それこそ貧しい彼らたちのほうが、その味の違いをその目で判断できた。

たとえ貧しい食材でも、14年間もバベットの作った料理を口にしていた姉妹。姉妹はその味わいよりも、貧しい人々に施している、バベットのスープの不思議な活力と治癒力に驚いていた。

芸術とは何か。

この物語の前半に登場するオペラ歌手アシーユ・パパンが、その答えを彼女に渡したとも言える。



マーチーネ(Vibeke Hastrup ヴィーベケ・ハストルプ)
フィリパ(Hanne Stensgaard ハンネ・ステンガード)


バベットを演じたステファーヌ・オードラン(Stéphane Audran)は、ヌーヴェルヴァーグ(Nouvelle Vague)といわれるフランスの映画運動に馴染みがある一人。

時代は19世紀。プロテスタントの監督牧師の娘のマーチーネ(ヴィーベケ・ハストルプ Vibeke Hastrup/ビルギッテ・フェダースピール Birgitte Federspiel)とフィリパ(ハンネ・ステンガード Hanne Stensgaard/ボディル・キュアBodil Kjer) は美しい姉妹。一人は士官、一人はオペラ歌手と恋をするが、ノルウェーの山麓にある片田舎の清廉な人々の日常は、彼らをこの地に留まらせることができなかった。



姉妹の父 監督牧師


映画の前半は、その村と牧師の父、そして若い姉妹と恋人たちの出会いなどを描いているが、後半のバベットが登場する。1871年に、彼女たちの家に住むことになったバベットの本当の理由が、この前半にある。

1871年、フランスはナポレオン3世と后妃ウジェニーが、英国へ亡命したときでもある。普仏戦争のあと廃位となったからだ。つまりバベットは皇后陛下同様に亡命しなければならなかった。

フランス軍はプロイセンの支援を得て、パリ・コミューンを粛清したからだ。フランス人によるフランス人への鎮圧。フランス革命と一緒。



17年前に監督牧師の家にいた15歳の家政婦


17年前の監督牧師の家には美しい姉妹のほか、15歳の家政婦が一人いた。そしてレーヴェンイェルム夫人のもとに、享楽三昧の将校ロレンスが預けられる。物語では姉マーチーネ(小説ではマチーヌ)に恋をし、告白することができずに軍人として晴れがましい人生を歩む決意をする。



ロレンスが去ったあとの姉妹


そしてロレンスはベアレヴォーを去り、昇進と果たし、スウェーデンのソフィア王妃の侍女と結婚する。史実にあわせればスウェーデン王グスタフ3世の王妃ソフィア・マグダレーナの侍女ということだろうか。

さて、その一年後にパリの有名なオペラ歌手アシーユ・パパン(カトリック教徒)がベアレヴォーにやってきた。監督牧師はプロテスタントであるから、このカトリック教徒を受け入れるには恐れ慄くことだが、フィリッパは彼のレッスンを受け始めた。



ドン・ジョヴァンニとツェルリーナのレッスンで額にキスされたフィリッパの硬い表情


ムッシュ・パパンはフィリッパとパリ・オペラ座でのデュエットを夢見ていた。彼はオペラ界の著名人であり、大きな世界を知っているムッシュ・パパンは、この小さな敬虔なベアレヴォーの村では、その偉大な芸術性が、認められなかった。

ベアレヴォーの村では才能よりも、「良き人々」であることが何よりもすばらしいことだから。



マーチーネ(ビルギッテ・フェダースピール Birgitte Federspiel)
フィリパ(ボディル・キュアBodil Kjer)


このマーチーネ(マチーヌ)とフィリッパの姉妹は、パリの洗練されたファッションもディナーも知らない。知ろうともしない。それが美徳なのか?僕は、ただ自分たち以外の者を排除している気がしてならない。

彼女たちは、贅沢三昧の食事、パリでの蛙を食することに嫌悪している。

ところが父の生誕100年を記念した晩餐会に、本物のフランス料理をつくりたいとバベットは言う。

映画「バベットの晩餐会」  A Festa de Babete/Babettes Gaestebud(film)

はじめの物語
Babette's Feast 01
Babette's Feast 02
Babette's Feast 03

バベットの登場
Babette's Feast 04
Babette's Feast 05


バベットが選んだ食材の到着
Babette's Feast 06


デリカテッセンのようなシーン (牛の頭とか)、料理の仕込み、テーブルセッティングの場面
Babette's Feast 07

晩餐会のはじまり、はじまり〜
Babette's Feast 08
Babette's Feast 09


晩餐会のあと
Babette's Feast 10

さて、バベットは心のこもった料理をつくっただろうか?

僕はこの映画から、そして原作から、それはないと感じている。ただただ、彼女の芸術作品を堪能できるものだけが、その素晴らしさを味わったのだ。それで何か世界観が変わっていく。

たった一人、マーチーネ(マチーヌ)の世界観は変わらない。亀を見たからかもしれないけど。



海がめのスープになる海亀くん


この巨大な亀をみてしまったマーチーネ(マチーヌ)。晩餐が始まる前に年老いた信者たちに何を食べさせられ、何を飲ませられるかわからない不安を話し、彼らは料理のなまえを一切口にしないことを約束する。

マーチーネ(マチーヌ)は届いた瓶の中身を尋ねる。

バベットは「ワインですって?とんでもない。クロ・ヴージョの1846年ものですよ。モン・オルジェイ街の店フィリップの品なのです。」

聞いたこともない名前に黙るマーチーネ(マチーヌ)。プロテスタントの世界観とパリの美である文化芸術との対立でもある。


カレン・ブリクン(イサク・ディーネセンもしくはアイザック・ディネーセン)の「バベットの晩餐会」では、「一万フラン」がすべて父の生誕100年を記念した晩餐会に使われたことに、父の友人の話を思い出す。

それは、黒人の王の治癒をした伝道師に、敬意をあらわすために、王の幼い孫を料理した晩餐会の話である。社会的カニバリズムの話だが、わざわざ黒人としているところが憎らしいが。

その王とバベットが重なり、身震いするマーチーネ(マチーヌ)。彼女は決して変わらない。頑迷な心。


バベットは言う。「みなさんのため、ですって?」

「わたしのためです。わたしはすぐれた芸術家なのです。」

「すぐれた芸術家が貧しくなることはないのです。みなさんにはどうしてもお分かりいただけないものを持っているのです。」

「ムッシュ・パパンもそうでした。」

「あの方がご自分から、この話をしてくれたのです。次善のものに甘んじて満足せよなどといわれるのは、芸術家にとって恐ろしいこと。耐えられぬこと。次善のことで喝采を受けるのは恐ろしいこと。芸術家の心には、自分に最善を尽くさせてほしい、機会を与えてほしい。世界中に向けて出される長い悲願の叫びがあるのだと。」

彼女がここに来たのは、そういうことだったのだ。彼女が料理をつくっているのは、誰かのためにではなく、自分のために、相手が満足する芸術品を創るためなのだ。


それが理解できるのが、フィリッパ。モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」(Il dissoluto punito, ossia il Don Giovanni)のレッスンでのムッシュ・パパンの額のキスの意味もわかったのではないだろうか。

パリのオペラ座を選択しなかったのはフィリッパ自身。決して神の意思ではない。

この作品「バベットの晩餐会」での賛美歌の詩と、ドン・ジョバンニの放蕩者ドン・ファンの詩が対照的に描かれている。

対立であり、共存であるキーワードが、この作品にはめいっぱい盛り込まれている。

そして「カフェ・アングレ」には、「料理界のモーツァルト」(mozart de la cuisine)と呼ばれたシェフのアドルフ・デュグレレ(Adolphe Dugléré 1805-1884 )がいた。ロシア皇帝アレクサンドル2世、アレクサンドル3世、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世、宰相ビスマルクらは、料理の芸術家の作品を口にしたわけだ。

最後にバベットを心からすぐれた芸術家と賞賛し、抱きしめるのは、妹のフィリッパだけだ。

ムッシュ・パパンとのレッスンに、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」をあてたのは、賛美歌だけではなく、シェフのアドルフ・デュグレレを指し示していたのかもしれないな。



キャビアをのせたブリニのデミドフ風


僕はこの映画も、原作も読んでいる。なぜか、この映画を扱っている記事に多いのが、「心のこもった料理で人を幸せにする」という解釈だが・・・。

それは違うだろう。

「我に最善を尽くす機会を与えよ」

それを求めてきたバベット。これが主題ではなかろうか?



 アモンティヤードのシェリー(Amontillado)


この映画にでてくる、食前酒、ワイン、コニャックは、 アモンティヤードのシェリー(Amontillado)、ヴーヴ・クリコ 1860(Veuve-Clicquot 1860)、ルイ・ラトゥール クロ・ヴージョ 1845(Louis Latour Clos Vougeot 1845)、ハイン コニャック(Cognac Hine)だ。

この晩餐会には、貴族、ブルジョワジー、プロレタリアート(労働者)が揃う。唯一の貴族階級が、ロレンスと大叔母レーヴェンイェルム夫人。

当然、ロレンスは最高の料理も、お酒も、そしてガリフェ将軍も、カフェ・アングレも、女性シェフの評判までも知っている。

バベットの晩餐会では、メニューを一人で語っている。

「不思議だ。アモンティラードではないか?」
「正真正銘の海亀のスープだ。」
「これはまさしくブリニのデミドフ風ではないか!」
「これは1860年もののクリコですな。」

そしてガリフェ将軍が教えてくれた「カーユ・アン・サルコファージュ」が登場する。うずらの石棺風パイ詰めのことだ。そして葡萄に桃に無花果。

ここにポム・ド・テール・アンナ(Pommes Anna)がデザートだったら面白いのにな。ベタなつっこみになるかも。カフェ・アングレのシェフだったアドルフ・デュグレレが、当時の女優アンナ・デリヨン(Anna Deslions)に捧げたもの。

この映画では、季節のサラダ、チーズの盛り合わせ、スポンジケーキにコーヒー、ハイン コニャックまででてくる。




季節のサラダ?




アビランドの食器にカーユ・アン・サルコファージュ、1860年もののクリコ



厨房で試飲、試食をしながらお手伝い


この「バベットの晩餐会」が真作だとすると、芸術品だから贋作もつくられた?いろんなレストランでバベットのメニューを宣伝してた。アホらし。

さて、この作家名も複雑なんだけど、先にこの「バベットの晩餐会」は、英語版とデンマーク語版には、かなりの違いがある。

僕が読んだものは、デンマーク語版で、ギュルンデール社出版の「運命諺」にある「バベットの晩餐会」の邦訳。

英語版にはない描写があると「あとがき」にあった。

だから邦訳やデンマーク語じゃなくて、英語版でスラスラ読んだ人には、?という場面もあったかも。

| 映画 | 01:23 | trackbacks(3)
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