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器楽の奏では、雷鳴ににておどろおどろしく
肉声の調べは、堂をつんざき
戦の庭の兵士の叫びを思わせる by ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ

「音楽のなかで生きかつ死んだ」といわれるルイ14世。

彼らをお共に任務に励み、散歩も、賭博や晩餐会もいっしょ。それがルイ14世の楽団員たちだ。

国王部屋つきの楽士(30名)、大ヴァイオリン(24名)・小ヴァイオリン(16名)奏者、そして礼拝堂合唱隊(90名)。こんな大人数が、ぞろぞろと?

オペラやバレエに大聖歌。



ルイ14世のアポロン(ディティール)


幼い頃からバレエと音楽は続いたらしい。

1643年、ルイ14世が5歳で即位した際には豪華絢爛な舞台でルイ14世も出演している。15歳で「夜のバレエ」で本格デビュー。これがあの「太陽王 アポロン」を演じたものだ。あのバカっぽい衣装のルイ14世は嫌だね。だから寓意画のアポロンに扮するルイ14世を画像アップした。

1661年にピエール・ボーシャンに委ね、王立舞踏アカデミーを創立した。当時の貴族にかかせない教養は、このアカデミーで踊る技術のほか、マナーや果ては観劇の仕方なども示し、高い芸術を意識させる方向となる。

王は古楽器ならリュート、クラヴサン、ギターを嗜み、晩年にはギタリスト ロベール・ド・ヴィズを招いている。

歌曲ではリュリとドラランド。とくにジャン=バティスト・リュリは、宮廷楽長および寵臣として権勢を握る。ところが男色家だったため、晩年はルイ14世の不評を買い、果てに自分の指揮棒で命を落とす。



古楽器を弾くルイ14世の音楽家たち by ピエール・ピュジェ


「王は王自身を称える歌曲の一節を特定の集いで歌ったため、彼の晩餐会では陪食の貴賓が一様に同じ賛歌を口ずさんだ」 

「宮廷も都市も王の気に入りのリュリの歌劇で持ちきりだった。パリの街角もポン・ヌフ橋上でも彼の歌曲が聞こえた。」

by サン=シモン
リュリの歌劇、モリエールの舞踏劇はヴェルサイユの庭園で演じられた。

モリエールは1663年頃から来往していたという。「亭主学校」、「うるさがた」、「痴話喧嘩」などが上演され、「ヴェルサイユの即興劇」は、ルイ14世を喜ばせる。

とくに王の楽団員は多才であり、1713年の2月に音楽家だけで上演した「ジョルジュ・ダンダン」(モリエール)は大好評で、天職を忘れぬしるしに幕間にあはオーケストラを奏でたりもした。



神格化したルイ14世 1677年
シャルル・ル・ブラン


大運河が完成した1672年に、大型船の模型を浮かべ、ゴンドラに乗り、水上でも音楽とコーラスを楽しんだ。

陛下、ヴェルサイユに臨幸し給う
ヴェルサイユ、いとも麗しく、閑静で安らけき城館の地
狩猟と乗馬の腕がためされ
演奏会、美味あふれる客席、
トランプ遊び、劇に興じる宮輩や殿輩たち
ものみな過ぎし世の申しおくりに似て
心して受け継がれていく
by ロレ

特にラ・ヴァリエール嬢のために開かれた1664年5月5日からの1週間は格別だ。夜会のパレードは仮装。

Comédie-Française

ルイ14世が設立したモリエールの家(La maison de Molière)の劇団員?
 ド・トロワ画(Jean-Francois de Troy)


なかでも1668年は1万5千名が参列した。

モリエールの劇、宮殿前の花火、趣向と華麗さをラ・フォンティーヌは「宮殿は庭園となり、庭園は宮殿となる」と歌った。

1674年はあのモンテスパン侯爵夫人のために、ラシーヌ演出「イフィジェニー」に、キノーの「アルセスト」を舞台に乗せた。

モリエールは1677年に亡くなった。ルイ14世が39歳のときだ。

ルイ14世は、パリ・オペラ座の前進となる劇場「アカデミー・ロワイヤル・ド・ミュジーク」を創設し、モリエールが亡くなったあとに、モリエールののゲネゴー劇団(Hôtel de Guénégaud)とブルゴーニュ劇団(Hôtel de Bourgogne)との統合し、王立劇団「コメディ・フランセーズ」を設立した。「モリエールの家」とも呼ばれるらしい。

いまの移転先とは違うが、当時はコメディー・フランセーズに隣接して、1686年にカフェ プロコップが開店した。2年後にはカフェ・プラス・ド・パレ・ロワイヤル(のちのレジャンス)で、どちらもルイ15世時代に共通の知識層が客として集まってきた。

Comédie-Française

コメディー・フランセーズ (18世紀の作品)


プロコップは、百科全書派の集会に使われたため、いまでも現存しているここに、ヴォルテールが使用していた書棚なんかもあったwa。

プロコップは18世紀の知識人が有名だったが、ルイ14世時代の知識層は客としていかなかったのかい?

たとえば国王の寵愛を受けていたジャン・バティスト・ラシーヌやラ・フォンテーヌとか、「長靴をはいた猫」のシャルル・ペローとかさ。

シャルル・ペローは「オウィディウス、ウェルギリウスなどの古典文学よりも現代文学の方がすぐれている」と述べた「ルイ14世の世紀」(1687年)は、ボアローとの間で新旧論争を巻き起こした。

この「ルイ14世の世紀」は、ルイ14世の病気快癒を祝う称詩「ルイ大王の御代」としてのほうが、ご存知の方が多いかもしれない。

ルイ14世の治世は、古代ローマのアウグストゥスの時代をしのいで優れていると述べたらしいが、 絵画の作品では、ルイ14世はギリシャ時代のモチーフで描かれていることが多い。寓意画とかね。

louvre-1699

1699年のルーヴル


さて、ルイ14世だが、どんな画風がお好みだったのか。当然シャルル・ル・ブランの名があがってもよいだろう。だってルイ14世の首席王室付画家だし、王立絵画・彫刻アカデミー(後の芸術アカデミー)、ゴブラン製作所の責任者だったわけ。

ルイ14世 コルベールの重商主義芸術政策
ルイ14世は、シャルル・ル・ブランにキリストの連作やアレクサンドロス大王の歴史画を注文したりもしている。

アレクサンドロスの人物像にはアポロン神と同様の地位が与えられ、ルイ14世の宮廷において特別な位置を占めていた。野心家であるルイ14世は、自らをアレクサンドロスにたとえ、自分の野心にまさにふさわしい手本を見出したのである。それゆえ、ル・ブランの連作は、古代の有名な挿話を思い起こさせるだけではなく、王政の栄光と君臨する王者を讚えるプロパガンダの一翼を完全に担っていると言える。

引用 ルーヴル美術館

アレクサンドロス大王のバビロニア入城

ルイ14世が依頼したアレクサンドロスの生涯を描いた4つの場面のひとつ
「アレクサンドロス大王のバビロニア入城」 1665年
シャルル・ル・ブラン(Charles Le Brun)


ルイ14世は彼を「古今の最も偉大なフランスの芸術家である」と称えた。

いつのまにやら重商主義のコルベールが後ろ盾になったのが、国王の首席画家の地位を狙う画家ピエール・ミニャール。

国王は、ミニャールが描いた「十字架を担うキリスト」に対抗する絵画を制作するようル・ブランに依頼。

それが「キリストの生涯」になる。ミニャール派の口を閉じさせるのに「今までで最高の絵画」であると称賛された。国王は殊の外お喜びになったそうな。

そのキリストの生涯の1枚が、次の作品。

The Adoration of the Shepherds 1689

ルイ14世が依頼した「キリストの生涯」のひとつ 「羊飼いの礼拝」 1689年
シャルル・ル・ブラン


記事 参考及び引用:ヴェルサイユの春秋 ジャック・ルブラン
ルーヴル美術館、wiki


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ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール(Louise de la Valli&egrave;re, 1644年 - 1710年)は、フランス王ルイ14世の弟オルレアン公フィリップと結婚するヘンリエッタ・アン・ステュアートに付き添って宮廷にきました。オルレアン公フィ
| Life Style Concierge | 2009/11/19 2:19 PM |
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