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このセレスタン・ギタールの日記は、僕がトピックし、引用・要約しているので、フランス革命下の一市民の日記 セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵藍訳 中央公論社 を実際に読んでみてください。

この記事で注釈をしていないところなんか、インターネットで自由に検索すれば答えがでてきます。

感想のほか、この日記や注釈で、あれっ?って気がついたところは、僕なりにコメントしてます。で、気がつかないところもあります。以上。


フランス革命下の一市民の日記 1791年 8月


8月17日 水

きょうサン・シュピルスの大勢の子供達が、宣誓司祭からはじめて初聖体拝領を受けた。

今週、「赤い橋」が取り壊され、代わりにルイ16世橋が完成する。

8月19日 金

パリ・ロワイヤルのカフェに、自由の帽子を先端につけた五月柱が立てられた。帽子はこのカフェから貴族を棒で打って追いだした勝利のしるしである。

8月20日 水

きょう王家についての法令がだされた。

国王は1200人の歩兵と600人の騎兵、あわせて1800人の兵をもつ。これらの兵は国民衛兵と国境部隊のなかから選ばれるが、親衛隊からは採用されない。

本隊は常にヴェルサイユ、王の側近に駐在する。給与は国王から支払われ、昇進はこの隊のなかに限られる。

フランス衛兵とスイス衛兵は今後どうなるのかわからないが、とにかくこの隊は儀侠兵に過ぎない。

8月28日 日

26日金曜日に次の法令がだされた。王家の親王たちは全て洗礼名のみを名乗り、洗礼名に「フランス王子」だけの名称だけを付すものとする。

能動的市民になる
被選挙資格をもたない
必要があれば、摂政になりうる
大臣になることはできない
大使、陸軍大臣にはなりうる

昨夜、議員被選挙資格を得るための1マルク銀貨直接税が廃止された。


僕の注釈

本記事の冒頭に「僕がトピックし、引用・要約しているので」とお断りをしているが、あらためてお伝えすると、歴史に興味がある方なら、「この年のこの月にあの一件があるのに書いていない」という、読み手からの疑問を回避するためである。

けれど、この月に関しては、もう一言添える。

歴史に詳しくなくとも、この8月に「ピルニッツ宣言」についての日記をトピックしていないなぁ、と思う方がいると思うので。

僕の素直な感情は、8月の「セレスタン・ギタールの日記」に、なぜピルニッツ宣言があったこと、その反応が書かれていないのか!と驚いた。しかも本書に注釈もない。

ピルニッツ宣言のあった8月27日にはセレスタン・ギタールは何も書いていない。

もしかして、僕の記憶の間違いか読み落としかい?と思って30分ほど無駄にした。

wiki の言葉を借りると、ピルニッツ宣言( Déclaration de Pillnitz)は、1791年8月27日に神聖ローマ皇帝レオポルト2世とプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の共同宣言だ。

グスタフ3世、レオポルト2世の死の日記はこちら
記事  フランス革命下の一市民の日記 1792年の3月

レオポルト2世の死の翌月オーストリア皇帝に宣戦を布告の日記
記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の4月

つまりフランス王家をを支援し、彼らの地位を剥奪するなら、フランスに対して宣戦するということだ。

この宣言は宣戦以前にフランス国民への威嚇である。これはフランス市民を逆に立ち上がらせた。

しかし王妃であるマリー・アントワネットは、フランスが祖国オーストリアに宣戦布告したということを知ると敵国であるオーストリアにフランスの内情を密通したのだ。

これこそ、王妃マリー・アントワネットが死罪になる決定的理由でもある。

敵国が内情に通じていれば、フランス軍は敗北し続け、フランスの国王一家は連合軍によって開放されることは、頭のからっぽな王妃にしても明らかな希望である。

つまり王妃は、王妃の都合で、フランス国民を犠牲にして、死の生贄として捧げることを心に決めたのだ。

よく、ルイ16世、アントワネット以前の「国庫の赤字のツケが」彼らの時代にまわってきたという文章を読むことがある。

フランス革命のはじまりと、国王一家が断頭台で処刑されることになるのは、違う。

国王一家が断頭台で処刑されることになるのは、ルイ16世、王妃の逃亡、この敵国内通で、フランスの国民を危機に陥れたからだ。つまり犯罪。

この敵国内通に関しての証拠は、ルイ16世のテュイルリー宮(チュイルリー宮)の鉄戸棚に隠されていたものだが、これに関わる前作りの師、フランソワ・ガマンは別の日に。

8月17日の赤い橋についてだが。これほど名前が変わった橋はあるのだろうか。

この年は「ルイ16世橋」だった。
翌年に王政廃止とともに「革命橋」とになった。
1795年にコンコルド橋。
王政復古では「ルイ16世橋」にもどった。
そして1830年から今日まで、コンコルド橋。

8月19日のカフェは「カフェ・ド・フォア(Café de Foy)」のことだろうか。ただ貴族を追い出したというエピソードがわからない。帽子にまるわるエピソードはある。カフェ・ド・ラ・レジャンス(Café de la Régence)ではないと思う僕でした。

ジャコバン・クラブに赤い帽子はこちら
記事  フランス革命下の一市民の日記 1792年の3月

ルイ16世の赤い帽子と葡萄酒の日記はこちら
記事  フランス革命下の一市民の日記 1792年の6月



フランス革命下一市民の日記 過去記事一覧

テルール(恐怖)のあと (1794年8月〜12月)
ジャコバン派独裁 恐怖政治編 (1794年1月〜7月)

ロベスピエール編
ロベスピエール編 その1 (1792年12月〜1793年7月)
ロベスピエール編  その2 (1793年8月〜1793年12月)

1793年
フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 4月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 7月
フランス革命家の一市民の日記 1793年10月

1792年
フランス革命下の一市民の日記 1792年の3月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の9月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 10月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 12月

1791年
フランス革命下の一市民の日記 1791年の2月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の9月

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