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レイモン・オベール編の「フランス革命下の一市民の日記」は、ニコラ・セレスタン・ギタール・ド・フロリバンの日記だ。

1769年にパリに定住したギタールの日記は、レイモン・オベールでは1791年1月26日から1796年5月15日までを読むことができる。

実際にはどれだけ日記と向き合ってきたのか。ブログをロクに更新できない僕は、日記はそれ以下の更新になるだろう。

さて、本書の最後に彼の手稿があるが、絵心がある人だということもわかった。

日記や手記なんかは全訳されていないものが多い。この日記はほぼ全訳らしい。366pのわりと厚い本だから、読むのは一日かかる。

興味深いところをトピックする。



1791年 2月4日 金

セリエ夫人、朝食 (← 結構いい年の寡なのにこの夫人がしょっちゅうでてくるので、最初だけ紹介)

(略)

時代、−−−−−国王が議会で演説をし、国民との和合を約束してから一年になる。この日を記念して、ノートル・ダムで演説がおこなわれ、感謝の聖歌がうたわれた。これがすべて本物になることを期待したい。

1791年 2月8日 火

国家高等裁判所の設立が決定した。陪審制度に関する全条項案文も完成。非制約の主任司祭の年金が500リーヴルに決定。

1791年 2月16日 水

王国内の宣誓ギルドならびに親方制度の廃止。わずかな金額を納めるだけで、誰でも自分の好きな職業を営むことができる。

1791年 2月19日 土

きょう国民議会はパリの入市税を廃止する布告をした。民衆の圧迫者にとっては打撃。神がついにもろもろの税から解放してくれる。

1791年 2月22日 火

中央市場の女達がチュイルリー宮からリュクサンブール宮に行く。弟殿下の外国へ亡命しようとしているからだ。その婦人の一人が殿下にむかって演説した。殿下は紳士として、弟王としての名誉と誠意にかけて決して逃亡はしないと約束し、その婦人と握手した。婦人たちはみな殿下に接吻した。

殿下にとってフランスほどいい国があろうか。女たちは頭がどうかしている。

1791年 2月24日 木

今日、民衆はチュイルリー宮に押しかけた。女達200人ほどが国王に、シャロン=シュール=ソーヌの近くで逮捕された王の叔母たちをパリに送還せよと要求。

民衆を制止に軍隊が向かう。パリの全市民が武器を取る。

中央市場の人足は訴訟に負け、国民議会に押しかけ追い返され、チュイルリー宮でかみさんたちと合流。

結局全員解散。

結局毎日不穏な事件。民衆はいったん怒り出すと冷静に行動できない。私はこうなることをいつも恐れていた。

1791年 2月28日 月

きょう、サン・ルイの騎士キュルツ氏が身分証明書を提示するときに短剣がみつかり逮捕された。王一族の暗殺の噂がたつ。国民議会の議員が釈放を要求。

4000人の労働者がヴァンセンヌ牢獄に押しかけた。パリ全市が興奮に沸き立っている。今度はサン・タントワーヌの住民が蜂起したという噂。

ところが国民軍をわざとヴァセンヌに引き付ける貴族たちの計画だったらしい。

チュイルリー宮が手薄になるのを見計らい、貴族総勢600人が武装。推測だが国民軍を壊滅させ国王奪取することではないか。



1791年の2月はいろいろあったんだな。このギタールはこうした間に、ちゃかりセリエ夫人とコメディ・フランセーズなんかで観劇してるし。 

1789年、5月ルイ16世 三部会召集、憲法制定国民議会が第三身分中心に形成。6月球戯場の誓いで抗戦。7月バスティーユ襲撃。8月フランス人権宣言。

1790年7月12日、議会は「聖職者基本法」を制定したが、ルイ16世は可決しなかった。→記事「クレリーの日記 1 ルイ16世の遺書」 8月十分の一税の無償廃止→記事「マリー・アントワネット フランス紀行から(実際の平民の生活)」 9月高等法院の廃止 10月フランスの国旗三色旗に制定

このギタールの日記は1790年2月4日の国民議会でのルイ16世の革命受け入れの演説をさす。2月16日はいわゆる「ル・シャプリエ法」の準備での廃止。

これってギタールは素直に喜んでいるようだが、「すべての市民は権利において平等であるが、能力や資力においてはけっして平等ではない」と宣言であって、労働者の団結を禁じたものだ。

イザーク・ルネ・ギー・ル・シャプリエ(Isaac René Guy Le Chapelier 1754−1794)は、団結を禁じたが、私的な談合と独占は禁じていない。

どういうことかというと、組合を禁止し自由競争を解放させただけだから、物価は高騰してもいいわけだ。

2月24日の叔母達の亡命だが、あのヴィクトワール王女とアデライド王女のこと。ミラボーが「いかなる法でも禁じられていない」とするが、実は記事「クレリーの日記 1 ルイ16世の遺書」にある聖職者民事基本法にからんでくる。

2月28日は、ヴァセンヌに国王の避難所がつくられるという噂をオレルアン公の手下が噂をまいた。ここヴァンセンヌ牢獄にはマルキ・ド・サドも投獄されていた。1777年から1783年。

1777年からヴァセンヌの牢獄にいたミラボー。サドとひと悶着があったらしい。

そしてサドはそのあとバスティーユへ。

この1791年、マルキ・ド・サドの初出版となった「ジュスティーヌあるいは美徳の不幸」を匿名で出版。それがバスティーユ監獄で書かれたもの。あのバスティーユ襲撃の10日前には、精神病院へ移送された。

このとき、残されたのは原稿ほか、優雅なバスティーユ監獄生活を彩っていた絵画作品、美術品など。襲撃時に破壊されたらしい。

記事 サド侯爵 マルキ・ド・サド

この前年の1790年、献身的に尽くしていたとされているサド侯爵夫人が、サドに離婚を言い渡す。

記事 サド侯爵夫人ルネ・ペラジー

今日はここまで。


 
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