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このセレスタン・ギタールの日記は、僕がトピックし、引用・要約しているので、フランス革命下の一市民の日記 セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵藍訳 中央公論社 を実際に読んでみてください。

この記事で注釈をしていないところなんか、インターネットで自由に検索すれば答えがでてきます。

この日記や注釈で、あれっ?って気がついたところは、僕なりにコメントしてます。で、気がつかないところもあります。以上。



フランス革命下の一市民の日記

1791年5月1日 日

1791年某日、パリを出発したルイ15世の肉親王たちは4月16日、ついにローマに到着。あの年齢でローマへ行っていったい何をしようというのか。

4月14日、カリオストロに判決を申し渡した。絞首刑にし、死体を焼却する刑を宣告した。

しかし法王はカリオストロを減刑した。終身刑にして宗教上の諺見を誓絶させた。

カリオストロが書き散らした書類や数学の演算に用いた器具はすべて押収される。しかし、カリオストロのような一風かわった奇人は生かしておくべきだろう。

1791年 5月27日 金

王室費として年額2500万リーヴルが支出される。王妃には、未亡人になった場合の寡婦資産を考慮し、年400万リーヴルが支出される。

王家家具管理室は国王に直属し、王室の経費一切をまかなう。

王冠のダイヤは6000リーヴルと見積もられ、さらに真珠、宝石、絵画、彫刻、建造物が加えられる。王の財産目録を作成し、写しを国立古文書館に保管する。

ルーヴル宮とチェイルリー宮が国王の住居にあてられる。同時に、芸術、科学の不屈の作品はことごとく両宮殿に集められ、さらに国王の蔵書が収められる。

ふさわしい施設にするために国王と競技する。おそらくヨーロッパでもっとも立派な美術館になるだろう。

この二つの宮殿は国有財産とし国王の住居に供せられる。

国王の私有地として残される城館、建物、土地、牧場、農園、森林のリストである。

ヴェルサイユ (大庭園、小庭園を含む)
マルリの城 (所属する領地を含む)
ムードンの城とその付属家屋。
サン・クルーの城とその付属家屋。
ランブイエの城とその付属家屋、森。
サン・ジェルマン・アン・レーの城、その森と付属家屋。
フォンテーヌブローの城、その森と付属家屋。
コンピエーニュの城、その森と付属家屋。
アンリ4世が生まれたベアルンのポーの城とヴェジネの森。
セーヴルの陶器工場と付属建物。
ゴブランの織物工場と付属建物。

国王の領地全体の収入は110万リーヴルと見積もられている。しかし修理、猟場番人に給料を払い、毎年の植樹がある。

以下のものが国家に移管された。

シャン・ゼリゼ
王妃の散歩道
ブーローニュの森と猟小屋
陸軍学校
ジョアジ・ル・ロアの城
ヴァンセンヌの狩猟場

これを売却するのも保持するのも国家の自由である。



本書の注釈、僕の注釈

5月1日の日記だが、自称「ド・カリオストロ伯爵」ことアレッサンドロ・ディ・カリオストロ(Alessandro di Cagliostro、ジュゼッペ・バルサモ Giuseppe Balsamo, 1743- 1795)は、ギタール著「学識ある錬金術師」で賛美されているらしいが、専門の歴史家が賛同しているものではないとあった。あのマリー・アントワネットの首飾り事件で失脚した。エジプト・フリーメイスンをつくっている。1795年獄死。

こういう人この時代は多かったのか?ヴェネチアの画家ピエトロ・ロンギ(1701-1785)の模写なんかを記事にしたことあったけど、Sai の記事ではペテン師なんかの作品をピックアップしている。

あの作品に描かれた人は、たんなるホラ吹きの話を講じているんじゃなくって、カリオストロのようないかさま師(山師)をさすのだろうか。

記事 ピエトロ・ロンギ Pietro Longhi  いかさま よこしま さかしま

この日記のギダールは、見通しが甘い叔父さんなんだが、結構事実は正確だ。国家や新聞の事実の裏を読み取ることはできないが、事実を書いている。

そのあとに自分の感想や意見だからわかりやすい。小説なんかを読んで、美談をくっつけているわけじゃないしね。日本人って小説なんかでそのくっつけられた美談を真実だとするとことがあるでししょうが。

上にトピックしなかったが、5月22日(日)の記事から「きょう、コルドリエ・クラブ」がドーフィーヌ通りの博物館に移転した」とある。そこに注釈があった。

その注釈にはG・ルノートルは「革命下のパリ」で、大百科全書に書いたオラール氏、パリの歴史でのルフーヴ氏が書いた「1791年の5月にコルドリエ・クラブがパリ博物館に越した」という説説を否定したが、オラール氏、ルフーブ両氏の説が正しかったことを、このギダールの日記が証明したとあった。

この注釈はギタールの日記の信憑性を高めるね。


さて、注釈にあるルノートル(G. Lenotre 1855−1935)の「革命下のパリ(Paris révolutionnaire)」は、邦訳はされていないと思う。フランスの月刊誌「両世界評論(La Revue des Deux Mondes)」、「フィガロ(Figaro)」などに執筆したジャーナリスト。

アルフォンス・オラール (Alphonse Aulard 1849−1928)は歴史家で著作は非常に多いが、この大百科全書とは19世紀のフランスの百科事典での一部だろうと思うのだが。

さて注釈にあるルフーブって誰?・・ルノートルやオラールの時代にいた革命研究で有名な歴史家にジョルジュ・ルフェーブル(Lefebvre, Georges 1874-1959).がいる。フランスの歴史家にルフーブって聞いたことないんだよなぁ。・・・


5月27日は「国王、王妃の財産、王室費」の記事だ。

楓はいくつかマリー・アントワネットの記事で、何がどれだけ使用され、実際の平民から領主が受け取る金額も記事にしている。

当時の税金の話
マリー・アントワネット フランス紀行から (実際の平民の生活)

王妃の衣装代 お手元金
マリー・アンワネットのドレス ローズ・ベルタン


 
フランス革命下一市民の日記 過去記事一覧

テルール(恐怖)のあと (1794年8月〜12月)
ジャコバン派独裁 恐怖政治編 (1794年1月〜7月)

ロベスピエール編
ロベスピエール編 その1 (1792年12月〜1793年7月)
ロベスピエール編  その2 (1793年8月〜1793年12月)

1793年
フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 4月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 7月
フランス革命家の一市民の日記 1793年10月

1792年
フランス革命下の一市民の日記 1792年の3月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の4月
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1791年
フランス革命下の一市民の日記 1791年の2月
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