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このセレスタン・ギタールの日記は、僕がトピックし、引用・要約しているので、フランス革命下の一市民の日記 セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵藍訳 中央公論社 を実際に読んでみてください。

この記事で注釈をしていないところなんか、インターネットで自由に検索すれば答えがでてきます。

感想のほか、この日記や注釈で、あれっ?って気がついたところは、僕なりにコメントしてます。で、気がつかないところもあります。以上。


フランス革命下の一市民の日記 1791年 6月

 
6月4日 土

刑法の大法令

王侯、貴族。金持ち、貧乏人もひとしく斬首刑を言い渡されることになる。もう恩赦を期待することはできない。

6月19日 日

司祭に対する二法令

第一の法令 訴追者は非宣誓者が宣誓聖職者に地位を譲った聖職者を調査・追求する義務と任務を負う。違反すれば免職。

第二の法令 宣誓聖職者が宣誓を取り消した場合、免職と年金を没収する。

6月21日 火

きょうは一年中でいちばん日の長い夏至である。

フランスと世界の歴史のなかで永遠に忘れがたい日。きょう午前1時、国王、王妃、王太子、王女、王妹、王弟夫妻が、ひとりの衛兵にも気付かれずに、こっそりチェイルリー宮を脱け出し、外国への逃亡を計った。パリ中が悲しみに包まれた。国王一家は22日水曜日夜中の1時にヴァレンヌで逮捕され、25日土曜日の午後7時にパリに送還された。

6月22日 水

国王はストゥネから28キロのヴァレンヌで逮捕されたことがきょうわかった。

6月25日 土

セリエ夫人の家へ行く。夫人が昼食に来て、国王と王一家の到着の模様を一緒に見物に行く。国王、ヴァレンヌからパリに到着。


本書の注釈、僕の注釈


6月4日の刑法の大法令なんかは、あの球戯場の誓いで有名な憲法制定国民議会(国民議会)が国王政府に代わったということだよね。

ナポレオン時代に地位を得たジャン=ジャック・レジ・ド・カンバセレス(Jean-Jacques Régis de Cambacérès)は、この年の刑法を改正した際に、男色を処罰(火あぶり)する法律を廃止したと思われたらしい。彼自身が同性愛者だから。(わかっているのになぜ、火あぶりにならなかったんだ?)

6月19日の司祭に対する二法令は、議会では議決された聖職者民事基本法をルイ16世は可決していない。

この聖職者民事基本法は、国王逃亡のひとつの理由になる。

6月21日の日記に関しては、ご存知のヴァレンヌの逃亡事件である。

記事 惨殺されたフェルセンの最期

オクターヴ・オブリ
「ルイは国王なきところにフランスは存在せずと信じきっていた。−−−(略)−−− 余はフランスを出るつもりはなかったと繰り返し述べたとき、彼は本気でそう思っているようにみえる。」と注釈。

ルイ16世はブイエ将軍の支配下モンメディまで逃げのび、再び軍隊に守られると考えていた。それは国民に訴え、議会を解散できるという考えだが、ルイ16世はどこまで考えがズレているのか。「革命」は市民で、一部の者の「謀反」、「暴動」ではないということを、まだ考えられない無能王である。

オクターヴ・オブリー(Octave Aubry 1881- 1946)は歴史家でもあり、小説家でもある。4月の日記でも本書は彼の引用を用いている。フランス革命二巻(La Révolution française 1942-1945)からだ。20世紀に書かれたフランス革命の読み物。

リヴァロールの投稿の「使徒行状録」では「ルイ16世は2400万臣民の王であったが、いまや2400万王に仕える家来である。」と注釈にある。

「使徒行状録」とは、「王党派新聞」(Journal Royaliste)、「宮廷と都市新報」(Journal général de la Cour et de la Ville)などと同様に「新聞」だ。ほかに邦訳の仕様がないのだろうか。

注釈のとおり、フランスの文人アントアンヌ・リヴァロール(Antoine de Rivarol  1753 – 1801) の言葉なんだろうか。

リヴァロールの弟は王党派で、やはり文才があった。弟クロード‐フランソワ(Claude François 1762-1848)は1788年には近衛隊参謀将校だった。彼も「使徒行状録」に執筆した。彼のエッセイに「フランス革命の原因」(1827)がある。

リヴァロール1792年の8月10日事件にはすでにブリュッセルに亡命していた。

A・カストロ著「王家の最期」では、「ベルリン馬車での出発点から運命的な名「すべてを失敗させる」という意を持つ「ラタントゥ」を通り、12回も往復した。」と注釈で紹介されていた。

彼はフランスの歴史家。日本では村上光彦 訳 で「マリー・アントワネット」がある。「王家の最期」とどちらが事実に近い「小説な」んだろ。




フランス革命下一市民の日記 過去記事一覧

テルール(恐怖)のあと (1794年8月〜12月)
ジャコバン派独裁 恐怖政治編 (1794年1月〜7月)

ロベスピエール編
ロベスピエール編 その1 (1792年12月〜1793年7月)
ロベスピエール編  その2 (1793年8月〜1793年12月)

1793年
フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 4月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 7月
フランス革命家の一市民の日記 1793年10月

1792年
フランス革命下の一市民の日記 1792年の3月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の5月
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フランス革命下の一市民の日記 1792年 10月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 12月

1791年
フランス革命下の一市民の日記 1791年の2月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の4月
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フランス革命下の一市民の日記 1791年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の9月

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僕はこのフェルセンの記事を書くハメになったことにひどく傷ついている。なぜなら人の志を腐らせる人物だから。 フェルセン 嫌いなタイプハンス・アクセル・フォン・フェルセン(Hans Axel von Fersen)はご承知のとおりフランス王妃マリー・アントワネットの愛人とい
| RE+nessance | 2010/12/07 12:01 AM |
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