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このセレスタン・ギタールの日記は、僕がトピックし、引用・要約しているので、フランス革命下の一市民の日記 セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵藍訳 中央公論社 を実際に読んでみてください。

この記事で注釈をしていないところなんか、インターネットで自由に検索すれば答えがでてきます。

感想のほか、この日記や注釈で、あれっ?って気がついたところは、僕なりにコメントしてます。で、気がつかないところもあります。以上。


フランス革命下の一市民の日記 1791年 7月

7月7日 木
ヴォルテールの遺骸がパリに到着。

ヴォルテールの遺骸がパリに運ばれ、バスチーユ広場に安置。その準備の模様を見に行く。マレ通りでヴォルテールの遺骸をのせた四輪馬車を見物した。

7月9日 土
亡命貴族は二ヶ月以内に帰国しなければならない。違反すれば税金の増額、祖国への反逆すと亡命貴族として財産の没収。


7月10日 日
ヴォルテールの遺骸がセリエール大修道院に埋葬

Sai 記事 「ヴォルテールの遺骸」→モーツァルトが父にヴォルテールの死を報告した手紙の内容、フェルゼン(王妃アントワネットの愛人)がヴォルテールと会ったときの印象も記事文中にあり。

セリエ夫人と昼食。

ヴォルテールの遺骸はトロア・アン・シャンパーニュのセリエール大修道院に埋葬されていたが、すこし前に掘り出されて、ロミイュに移され、パリに運ばれるまで、ここに保管された。

ヴォルテールは生前二回、バスチーユに投獄されたので、バスチーユの地に方形の人造岩窟をつくり、周りに西洋はこやなぎを植えて遺骸を迎える準備をととのえた。

市吏員団がシャトランの城門まで遺骸を向かえにでて、到着したのは晩の9時半だった。棺は二つの石の上に安置され、油布でおおわれた。明朝8時に、壮厳な儀式のうちに馬車で、聖ジュヌヴィーエーヴ寺院(パンテオン)に運ばれる。

ローマの桂冠詩人ペトラルカはあの時代を代表する天才で、1374年に没。彼に永遠の女性と歌われたプロヴァンス地方のラウラは1347年に没。

ペトラルカの死に際しておこなわれた盛大な葬儀の模様は次に述べるが、これを上回る盛儀がヴォルテールに対しておこなわれた。

(ペトラルカの葬儀は略)

7月15日 金
国王並びに未来の国王に対する重大法令がだされた。

7月17日 日
きょう、パリに赤旗がかかげられた。祖国の祭壇で国民議会が昨日金曜日に発表した国王に対する法令の撤回を要求する請願書の署名。たいていの人はなぜ署名するのかわからずに、身分や住所はかかず名前だけを書く。民衆はこぞって署名した。そこに7軍隊が本気で群集に発砲する。多くの死傷者がでた。多くの人から同じことを聞いた。

7月28日 木
きょう1791年7月28日、木曜日、フランス王国の国民衛兵が編成された。

7月30日 土
マルタ修道会の廃止。フランスに修道会はなくなった。宗教騎士団はすべて廃止。例外はサン・ルイ宗教騎士団だけである。かくして勲章もなし。なんびとたりとも勲章をつけたり、称号を名乗ることができない。それを破るものは体刑を受ける。


本書の注釈 僕の注釈

7月7日の亡命貴族のことだが、1971年の6月の日記で、注釈にリヴァロールの引用をした。Sai が、フェルセン伯爵の記事で、アントアンヌ・リヴァロールの妹フランソワーズに触れているが、この7日の注釈にこの二人を引用する。

この亡命貴族に関して、11月9日に財産は没収、国境周辺に集結は死刑という法令を決議された。しかも翌年、「1789年7月1日以降に出国したものをを亡命貴族と見なす」となった。

アントアンヌ・リヴァロールは、その財産没収になるわけだが、妹のフランソワーズは内務大臣ロランに手紙を書く。

ところが浅はかにも「リヴァロールは人民主権に理解を示していた」と書いてしまう。ロランはリヴァロールが反人民主義だって知っている。

だから結局、この法令にしたがってリヴァロルの家屋没収決定となるんだ。

ちなみにサド侯爵、あのマルキ・ド・サドも逃亡しいた期間がこの「二ヶ月以内」を超えているとして、ひと悶着あったらしい。

ときどき不思議な思いを感じる。ヴォルテールの実際の葬儀は7月11日だ。セレスタン・ギタールは、7月10日の日記で、ペトラルカの素晴らしい葬儀を書いている。「略」して申し訳ないが、7月11日のセレスタン・ギタールの日記は以下。

7月11日 月

「きょう11日 月曜日に、バステーユ広場から聖ジュヌヴィーエーヴ寺院へヴォルテールの遺骸を移す儀式がおこなわれた。ローマ以外ではどこの国でもおこなわれたことがない葬儀である。」

えぇー!前日の日記には、ギタールにとって400年前のペトラルカの葬儀を、まるでその目で見たように書いているのにさ、びっくりだwa。比べるとこれだけってかんじ。

ということは、パンテオンの埋葬は見学できなかったということか。

本書の注釈にO・オブリーの「フランス革命」から引用がある。バスチーユ広場の安置のときのことだ。

「7月10日、日曜日、国王はヴォルテールの葬送凱旋式の行列が、宮殿のまえの鉄柵の前を通るのを眺めた。これはクラブ員の嫌がらせだった。

古いフランスを破壊した中心人物の遺骸が、セリエールの大修道院から掘り出されて、王妃の16頭の白馬に曳かれてパンテオンに移されたのである。

行列は果てしなく続いた。手にサーベルや槍をもった中央市場の女たち、柏の葉の冠を被った女優たち、猪槍、鎌、斧をもった労働者、昔の衣装をきた娘たち、半裸の子供達、ヴォルテール一家と称する文学者代表の先頭に立ったボーマルシュ、ヴィレット侯爵夫人、ヴォルテールの全作品を収めた黄金の棺、兵士、楽隊、おびただしい団旗。この賢覧豪華な行列も豪雨にあって異様なものに一変した。すくなくとも大雨は、貴族的趣味に対する恨みを晴らしてくれたといえる。行列は花の亭の前で止った。ルイ16世が天窓からこれを眺めていた。」

なるほど。

7月15日から17日にかけての法令について、注釈にはジャコバン・クラブの請願を受け継いだもので、国王の退位を要求したものとある。

La Fayette firing on the cordeliers club 1807 Ary Scheffer

コルドリエ・クラブで国民衛兵隊に発砲を命じるラファイエット 1807
アリ・シェフェール(アリ・シェーフェル)


さて、これがいわゆるシャン・ド・マルスの虐殺になる。ちょっとさ、虐殺数がはっきりしなくって、この記事upの時は以下はまだ書いていない。追記です。

シャン・ド・マルスの連盟祭。17日にシャン・ド・マルスの虐殺事件が発生する。

wiki より引用する。「パリの練兵場に平和的示威行動のために集った5万人の大群衆に対して、解散を命じた国民衛兵隊が発砲した事件。それまでフランス革命を指導する立場だった司令官ラファイエットの人気凋落を決定づけた。またパリ市長バイイの処刑理由ともなった。」

「ヴァレンヌ事件におけるルイ16世一家の逃亡という事態は、立憲王政を窮地に陥れた。バルナーヴは国王は誘拐の被害者であったという虚構をつくって取り繕ったが、国王を裁くべきではないかという批判はなかなか消えず、共和政樹立の要求は高まるばかりだった。この革命運動は7月14日の二回目の連盟祭にむけて次第に熱を帯びていった。」

「7月15日、ジャコバン・クラブでルイ16世廃位の請願運動が決定され、これに怒った君主主義者たち多数派がジャコバン派から脱退して、翌日、フイヤン派として分離した。」

17日は、政府の不信任に対する署名を集めて請願運動だった。コルドリエ・クラブを中心とする王制廃止の呼びかけ。シャン・ド・マルス(練兵場)で開かれたこの集会に集まった男女約4000名以上6000名前後。wiki には5万人の大群衆とある。

軍隊の平和的示威行動に投石した民衆に、威嚇の発砲。パニックになった民衆は逃げ出すが、押し合いへし合いによる転倒死などもあったのではないか。

これが誇張されて「シャン・ド・マルスの虐殺事件」となった。wikiでは実際の死者は13~15名とされている。ほかでは50名としている史家もいる。噂は3000名の死者だった。

本書の注釈には、「マラーは日記で死者400人としているが、これは誇張で軍隊で2人死亡、コルドリエ・クラブでは約50人が死亡」とあった。

1リーヴルが¥10000か¥1000かの換算と同じくらい違う。

コルドリエ・クラブは閉鎖を命じられ、ダントン、マラーらは亡命。これを機にブルジョワ層が強くなる。

wiki
ちなみに、「7月17日、パリは朝から異様な緊張状態であった。「祖国の祭壇」の下に二人の男が隠れていたのが見つかり、民衆の手で、王党派として近くの窓にぶらさげられ縛り首になった。」とあるが。

本の注釈に詳しく書かれているが、この1791年に「祖国の祭壇」の下に二人の男が隠れていたのが見つかり、民衆の手でリンチされている。そしてグロ・カイユーの委員会に連行され絞首刑とあり、彼らがここで爆破しようとしていたという理由だったらしいが、実はスカートの覗き見ではなかったのかというようなことが書いてあった。

翌年(1792年)の連盟祭は、「ペティヨン礼賛」となり、国王夫妻の面目が立たなかった。

記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の7月



 
フランス革命下一市民の日記 過去記事一覧

ロベスピエール編
ロベスピエール編 その1 (1792年12月〜1793年7月)
ロベスピエール編  その2 (1793年8月〜1793年12月)

1793年
フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 4月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 7月
フランス革命家の一市民の日記 1793年10月

1792年
フランス革命下の一市民の日記 1792年の3月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の9月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 10月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 12月

1791年
フランス革命下の一市民の日記 1791年の2月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の4月
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フランス革命下の一市民の日記 1791年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の9月

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フランスの哲学者で作家のヴォルテール(Voltaire, 1694 - 1778)の本名は、フランソワ=マリー・アルエ (Fran&ccedil;ois-Marie Arouet)。Arouet を AROVETLI と置き換えたあとに、さらにアナグラム(入れ替え)で Voltaire としたとも言われているけど、なんかわ
| RE+nessance | 2010/12/07 10:43 PM |
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