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このセレスタン・ギタールの日記は、僕がトピックし、引用・要約(かなり短く)しているので、フランス革命下の一市民の日記 セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵藍訳 中央公論社 を実際に読んでみてください。

この記事で注釈をしていないところなんか、インターネットで自由に検索すれば答えがでてきます。

感想のほか、この日記や注釈で、あれっ?って気がついたところは、僕なりにコメントしてます。で、気がつかないところもあります。以上。


フランス革命下の一市民の日記 1792年 4月


今回は一日分だけを紹介。

4月20日 金
1792年4月20日、国王は国民議会に臨席し、感動的な演説を行った。国王はオーストリア皇帝に宣戦を布告しようとしていること、それが彼の考えていることを述べ、この件についての検討を議会に委ねた。

宣戦布告

夕方、国民会議はハンガリー・ボヘミアン王国に対して宣戦を布告した。フランス国王はウィーン駐在オーストリア大使ノワイユ侯爵のもとに即刻帰国せよと急使を派遣。

パリ駐在のすべての国の大使たちは、同夜、それぞれの王国にあてて、敵対するなら武装せよ、と伝えた。

フランスは宣戦布告の理由をヨーロッパの君主、国民に告知するため、宣言書を起草中だ。

しかし議会は和解策に応ずるつもりはないと宣言。あとは勝つか死ぬかのどちらかだ。


僕の注釈

3月(1792年)の日記でトピックしたオーストリア皇帝レオポルドの急死。

王妃マリー・アントワネットのオーストリアとの内通に関して紛糾してきたのが、美貌の持ち主、思慮が浅いが一応は才女オランプ・ド・グージュ。

フランス革命下の一市民の日記 1792年の3月

フランス革命がはじまってからオーストリア皇帝は二人死んだ。アントワネットの長兄のヨーゼフ2世だ。

Pompeo Batoni 1769 Emperor Joseph II (right) and his younger brother Grand Duke Leopold of Tuscany (left), who would later become Holy Roman Emperor as Leopold II

ヨーゼフ2世とレオポルド 1769年
ウィーン美術史美術館


wiki から引用
「ヨーゼフ2世はプロイセン王フリードリヒ2世に「第一歩より先に第二歩を踏み出す」と揶揄され、またヨーゼフ自ら選んだ墓碑銘は「よき意志を持ちながら、何事も果たさざる人ここに眠る」という皮肉なものである。しかし、ヨーゼフの提示した改革理念は、いわゆる「ヨーゼフ主義思想」として、その後のオーストリアにおける改革運動に影響を与えた。また、文化の発展にも意を用い、特にイタリア人が占めていた音楽の分野では、ドイツ音楽を意識してサリエリ、モーツァルトを宮廷音楽家として配下においた。」

絶対主義の君主であろうともした啓蒙専制君主の代表的人物だとあるから、貴族との軋轢が多かったのでは。今度、ウィーン史でも読むか!

彼は1790年2月20日に亡くなっている。

ヨーゼフ2世の在位中の1789年7月14日、妹アントワネットが王妃となっているフランスで、バスティーユ襲撃が起こった。フランス革命のはじまり。

このとき王妃マリー・アントワネットら保守派は武力行使も辞さないとされているが、オーストリアはこの頃オスマン帝国との戦争で、妹の嫁ぎ先フランスに関しては、不干渉の方針を立てた。

「私の訪問を望んでいるようだが、あなたが巻き込まれている現況を自覚するなら、私を招くことなどできるわけがない。甘言にのせられ、人事に介入する愚行。陰謀に利用されているだけではないか。政治の知識もなく、熟慮することなどあり得ない。取り巻きはあなたに愚行を重ねさせ、陛下や国民の尊敬を失わせようとしているのだ。」

これは訪問する前の手紙らしい。彼女の取り巻きはランバル公妃ポリニャック一族、スイスのベズヴァル、スウェーデンのフェルセン、ハンガリーのエステルハージー、アルトワ伯らだ。

ヨーゼフ2世は、さすが皇帝であるだけあるぞ!評価は分かれるというが、僕はこのヨーゼフ2世はよい皇帝だったと思う。

ヴェルサイユ訪問がいつだったかはっきり書かれていないのが不思議なところだ。1776-77年頃だろうか?

「国王の愛に対して冷淡にも嫌悪感をあらわし、その持て余した時間を舞踏会や乗馬、賭博で紛らわせる。このまま年をとるあなたは、もっとも不幸な女、王女となるだけではないだろうか。」

ヴェルサイユを訪問したヨーゼフ2世がアントワネットに渡した手紙の一文。パリに来たヨーゼフ2世は、先天的性不能のルイ16世に対するアントワネットの仕打ちに警告。ヨーゼフ2世はルイ16世に手術をすすめ帰国。

母親マリア・テレジア、このヨーゼフ2世からも叱咤の手紙を受け取っていたアントワネット。バスティーユ襲撃以前の話であるが、思慮の浅い人になにを言っても無駄なのだ。

ちなみにヨーゼフ2世の妻の記事はこちら
ブルボン家 パルマ公女イザベラ 神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世妃 マリア・イザベラ

レオポルト2世(1747 - 1792)は前年の1791年にピルニッツ宣言を行って革命への介入を宣言。

このころオランプ・ド・グージュが紛糾した王妃の内通がはじまる。

フランス革命の憂慮はしていたレオポルド2世だが、フランスがオーストリアに宣戦布告する事態になった時に急死の一ヵ月と半分。

息子フランツ2世が皇位と戦争を引き継いだ。結局は敗戦するが、在位も40年と長い。国民に愛された皇帝。

ちなみにレオポルド2世の妻でフランツ2世の母はこんなひと
スペイン・ブルボン朝 王女 マリア・ルドヴィカ

フランツ2世の統治は、信頼の厚いクレメンス・メッテルニヒの登用があったからかもしれないが、ルイ16世をはじめ、ヨーゼフ2世、レオポルト2世には、メッテルニヒのように名が残る腹心がいなかった。

ルイ16世はミラボーの急死がなかったら、どうだったのだろう。




フランス革命下一市民の日記 過去記事一覧

テルール(恐怖)のあと (1794年8月〜12月)
ジャコバン派独裁 恐怖政治編 (1794年1月〜7月)

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ロベスピエール編 その1 (1792年12月〜1793年7月)
ロベスピエール編  その2 (1793年8月〜1793年12月)

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フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月
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1792年
フランス革命下の一市民の日記 1792年の3月
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フランス革命下の一市民の日記 1791年の2月
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「祖国の子らよ!私の死に対して復讐せよ!」1793年11月3日の午後4時。2週間前にアントワネット。5日後にはマノン・ロラン。美貌と才能に恵まれたオランプ・ド・グージュ(Olympe de Gouges)の最後の気丈さと気高さ。嘘をついて数ヶ月の命乞いをしたわりには・・・。誰
| Life Style Concierge | 2010/12/10 8:07 PM |
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