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このセレスタン・ギタールの日記は、ほとんど毎日のように綴られている日記から、僕がトピックし、引用・要約(かなり短く)しているので、フランス革命下の一市民の日記 セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵藍訳 中央公論社 を実際に読んでみてください。

この記事で注釈をしていないところなんか、インターネットで自由に検索すれば答えがでてきます。

感想のほか、この日記や注釈で、あれっ?って気がついたところは、僕なりにコメントしてます。で、気がつかないところもあります。以上。


フランス革命下の一市民の日記 1792年 6月


6月3日 日

エタンプの市長ジャック・ギヨーム・シモノーを追悼して、パリで葬儀が行われた。おそらく世界でかつてなかったほどのものであった。シモノー氏は法を守る職務を執行中に殺害された。国民議会の代議士747名が参列し、オペラ座楽団が演奏を行った。

6月13日 水

国王、三大臣を解任。
罷免されたのは陸軍大尉(セルヴァン)、内務大臣(ロラン)、大蔵大臣(クラヴィェール)。
(司祭追放と連盟兵召集に関する王の拒否権行使への副署を拒んだためである。)

6月17日 日

チュイルリーで不穏な動き。多くの群集が集まった。

6月20日 水 気温15度。寒い。雨。

ちょうど一年前の今日、王はひそかにモンメディに向かって出発し、ヴァレンヌで捕らえられたのだ。

今日20日、フォブール・サン・タントワーヌ、フォブール・サン・マルソー(場末の町)の3万〜4万に及ぶ男女、子供達が、槍その他さまざまの恐ろしげな武器で見を固め、大砲を引いて、チュイルリー王宮および庭園に到着した。彼らは武装大集団となって王および王妃の居室に侵入した。

指導者のアクロギーとかいう男?(アクロークという貴族義勇兵は、群集のなだめ役にまわる)が国民徴章である赤い帽子を王に差出し、民衆を喜ばせるためにこれを被ってくださいと言って、笑いながら王の頭に被せた。

別の一人が、国民の健康を祝してくださいといいながら葡萄酒の壜を差し出した。王はグラスもなしに壜からじかに飲んだ。

(略)

王は、最悪の場合に備えて、あらかじめ遺言状を作成していたという。幸運にも天の恵みにより、そのようなことは何ひとつ起こらなかった。奇跡といってもよいだろう。


本の注釈 僕の注釈


僕の注釈

3日は、ちょうど命日から3ヶ月後である。1792年の3月3日のギタールは、何も書いていない。

記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の3月

市民の暴動の犠牲者で、国民会議が葬儀を盛大な祭典にするという決議を出した。ここであのオランプ・ド・グージュが王妃マリー・アントワネットに資金をだすように依頼。

ブルジョワジーに対する民衆の攻撃、小麦騒動だ。その犠牲者がエタンプの市長ジャック・ギヨーム・シモノー。ル・シャプリエ法は物価高騰を引き起こした。10ソル前後の労働者の賃金。1ソル(スー)が¥100だとすると、当時はパンは¥1000くらいだった。

ル・シャブリエ法が書かれたギタールの日記
記事 フランス革命下の一市民の日記 1791年の2月

パン¥100から¥1000(1斤600グラム相当だろうか)になったギタールの日記
記事 フランス革命下の一市民の日記 1791年の9月

2010年8月[VOROBYOVKA(ロシア) 2日 ロイター
ロシアのシベリア地方からルーマニアにかけて広がる黒土地帯では深刻な干ばつに見舞われており、小麦の収穫が壊滅的な被害を受けている。 来年収穫用の作付けも危機的な状況にあるという。

フランスの歴史から、現代のこういう部分に日本人が身近に感じてくれるようになればいいね。

ちなみに1リーヴルなんだけど、当時の換算がスッごく面倒。ルイ金貨・・・というのが曲者らしい。金貨、銀貨・・・。1リーブル=12000円、1リーブル=10000円、1リーブル=1000円と様々な解釈の換算方法。20スー=1リーブル・・・。

なんか、変じゃん。一応それを心得て。

さて、6月8日のギタールの日記は、「パリに連盟兵駐屯地を置くこととする法令」については何も触れていない。

6月11日にその8日の法令にルイは拒否権を発動。さらに5月27日の拒否僧侶の追放も、この日に拒否権を発動している。
13日は、王の拒否権の話。署名をしなかった3大臣。ジロンド派の大臣からフイヤン派内閣が成立。17日もこの拒否権のことではないか。

拒否権発動はこの記事からも。
記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の5月

20日はみんなご存知のテュイルリー宮殿侵入事件。

アクロギー(アクローク)が国民徴章である赤い帽子を王に差出し被せる。

赤い帽子に関しての記事 
記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の3月

国民の健康を祝してくださいといいながら葡萄酒の壜を差し出した。王はグラスもなしに壜からじかに飲んだ。

ギタールの日記にはそう書いてある。

この日はやはりルイ16世の拒否権によるものだ。つまり、国民議会から、立法議会にかわってから、ルイ16世は拒否権の発動を4回行っている。

1791年の「王弟プロヴァンス伯への帰国命令」、「亡命貴族の断罪」、そしてこの「パリに連盟兵駐屯地を置くこととする法令」、「拒否僧侶の追放」になる。

5月28日には、「王弟プロヴァンス伯への帰国命令」、「亡命貴族の断罪」の拒否権の発動などで、王の拒否権を取り上げる同意を求めた。

にもかかわらず、ルイ16世は、この6月にも拒否権を発動した。その拒否権の撤回を求めるものだった。

20日の本書の注釈

この騒動は拒否権を撤回させるもの。この騒動に王は断乎として譲らなかった。王は慎みと威厳に満ちた声明を公表した。

「フランス国民は、数名の叛徒に指嗾された群集が武器 を手にして王宮に侵入したことを知るならば、苦々しい気持ちを抑えかねないだろう。 (略) 王は脅迫と侮辱に対して、ひたすら自らの良心と国民の幸福を願う心でもって応えた。 (略) 王政妥当をめざす者どもは、さらに罪を犯すことが必要だと思えば、あえてその罪を犯すがよい。 (略) 」

多くのフランス人は王への忠誠の表明をもって応え、パリの参事会執行部はペチヨンとマニュエルの罪状を審議しはじめた。



フランス革命下一市民の日記 過去記事一覧

テルール(恐怖)のあと (1794年8月〜12月)
ジャコバン派独裁 恐怖政治編 (1794年1月〜7月)

ロベスピエール編
ロベスピエール編 その1 (1792年12月〜1793年7月)
ロベスピエール編  その2 (1793年8月〜1793年12月)

1793年
フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 4月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 7月
フランス革命家の一市民の日記 1793年10月

1792年
フランス革命下の一市民の日記 1792年の3月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の9月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 10月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 12月

1791年
フランス革命下の一市民の日記 1791年の2月
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