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このセレスタン・ギタールの日記は、ほとんど毎日のように綴られている日記から、僕がトピックし、引用・要約(かなり短く)しているので、フランス革命下の一市民の日記 セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵藍訳 中央公論社 を実際に読んでみてください。

この記事で注釈をしていないところなんか、インターネットで自由に検索すれば答えがでてきます。

感想のほか、この日記や注釈で、あれっ?って気がついたところは、僕なりにコメントしてます。で、気がつかないところもあります。以上。


フランス革命下の一市民の日記 1792年 8月

8月3日 金

マルセイユ連盟兵が国民議会におしかけて、国王の廃位の宣言、マルセイユ軍のパリ常駐、国民衛兵の設置を要求した。パリ市長ペチヨン(ペティヨン)を筆頭に、国王の廃位、ブルボン王朝の廃止を要求。国王は国民が選挙するまで、各大臣が連帯責任で行うことを求める。

これは立派な行動だ!

そのあと、ブランシュヴィック公(フランス攻撃連合軍総司令官)の宣言を公式に発表した。

8月8日 水

ラ・ファイエットの無罪確定。

8月10日 金

フランス王政史上、永遠に記念すべき一日だ。チュイルリーで大虐殺がおこなわれたのだ。国王はその職務ならびに王室費の支給を停止。チュイルリー宮殿は死体で埋まった。国王は、王妃、子供たち、王妹と国民議会に非難し議会の保護を受ける。

(このあとは例によって後になって書かれたもの。とりあえずここでは「略」)

8月11日 土 

サン・シュピルピス教区の非宣誓司祭はカルメラ会僧院に収容された。私は委員に任命されたが健康を理由に辞退。宣誓拒否司祭は2週間以内に退去。しないものはカイエンヌに流刑。パリすべての区で収容された。

8月13日 月 気温24度。南西の風、曇って雷雨。

国王ならびに王妃とその家族は、きょうタンプル塔に連行された。新しい制度ができるまで、一家はここに留まることになろう。国王一家に声をかける者は誰もいない。(全文)

8月25日 土

「ガゼット・ド・パリ」紙の記者デュ・ロワ氏が斬首された。

8月29日 水

パリ中の家は終夜明かりを灯し、11時までに全市民は帰宅すること。どの家もノックなしで自由に出入りできること。捜索がはじまり、身を隠す術はない。密告が相次ぎ、翌日もまだ終わらない。

祖国の敵を一網打尽に捕らえ、武器を没収する唯一の方法だ。


 本書の注釈 僕の注釈

3日はカール・ヴィルヘルム・フェルディナントは1792年7月25日に同盟軍司令官ブラウンシュヴァイク公爵が発した宣言が、8月にはいってパリで公式に発表された。

この裏には王妃マリー・アントワネットが、オーストリアの駐仏大使メルシー=アルジェントー伯爵を介して、ジャコバン派が退くように、プロセイン軍の大尉ブラウンシュヴァイク公爵(フリードリヒ・ヴィルヘルム)に同盟軍の声明を懇願したからだ。

「プロシア・オーストリア両国はフランスの内省に干渉せず。ただし民衆が王室に危害を加えた場合、パリ市の全面破壊も辞さないものとする。」(ブラウンシュヴァイクの宣言)

これは宣言には亡命貴族のコンデ公も絡んでいるらしい。ルイ16世のいとこで、ルイ5世ジョゼフ・ド・ブルボン=コンデこと。彼は、マルキ・ド・サドとの血縁関係もあり、幼少の数年間をサドとコンデの城で暮らしている。

この宣言は7月28日にはパリ市に届いているが、公式な発表は8月になってからだったようだ。

8日は、本の注釈によると、あの6月20日のチュイルリー宮殿侵入事件の指導者を罰する要求を示したところ、軍部の独裁を狙うものとして告訴されていたとある。

10日。みんな知っている「8月10日事件」だ。ギタールの日記のとおりなので、本書の注釈でボナパルトの発言を引用する。

「ボナパルトは、6月20日の暴動を「先頭にいた500人に霞弾をあびせれば、残りは尻尾をまいて逃げただろう。」と語り、そして8月10日のこの事件には、8月10日、友人のブリエンヌの兄の店から始まった侵入事件を直接目撃している。「もっとも卑しい下人どもの襲撃」を目前に、「下層民のもっとも卑劣な面を見た。」と述べた。いっぽう、守備のもろさを指摘。これはペティヨンが防衛側に火薬と爆弾の補給を拒絶したからだ。

Tuileries, prise, 1792

1792年8月10日 テュイルリー宮殿襲撃


この暴動にはロベスピエール、マラー、ダントンは姿を見せなかった。パリ県総代理レドレールは国王に敗北を認め立ち退くよう説得。

まもなく国王は、あの有名な「スイス兵は発砲を中止し、兵舎に引き上げよ。」という命令をしたためる。→だからスイス兵は殺される運命になるんだな。

11日は、日記に何度も登場する「拒否僧侶の追放」だ。ルイ16世はこの法令になかなか承認せず、拒否権を使用した。「拒否僧侶の追放」になるのがご存知の「聖職者民事基本法の非宣誓派」のこと。

記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の5月

13日は王一家のタンプル塔幽閉。

ルイ16世の侍従クレリーは、タンプル塔での様子を日記にしている。

記事 クレリーの日記 1 ルイ16世の遺書
記事 クレリーの日記 2 タンプル塔の無能な王

マリー・テレーズがタンプル塔での生活の回想記録はこちら。

記事 マリー・アントワネットの娘 マリー・テレーズ王女の回想記録 1
記事 エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランス 「マリー・テレーズの回想」から

18世紀のフランスの生活とともに、マリー・アントワネットの子供たち、ルイ・シャルルの独房生活にも触れている。とくにシモンの濡れ衣を晴らし、悪徳のバラス子爵ポール・フランソワ・ジャン・ニコラとそれに雇われたローラン(タンプル塔の管理)についても詳しく書かれている。

記事 マリー・アントワネットの子供たち 18世紀の子供たち

25日は、「ガゼット・ド・パリ」紙の記者ファルニアン・デュ・ロゾワ・バルナベ(1745‐1792)は、反革命者。国王の釈放のため、自ら人質になると申し出た人。この聖ルイの日の夜、斬首となった。引用は本書注釈のルネ・ド・リヴォワ著「フランス新聞史」。

29日は、隠れている宣誓拒否司祭を逮捕するために、すべての国民の家を自由に捜索した一日だが、翌日も続いたとされている。


 
フランス革命下一市民の日記 過去記事一覧

テルール(恐怖)のあと (1794年8月〜12月)
ジャコバン派独裁 恐怖政治編 (1794年1月〜7月)

ロベスピエール編
ロベスピエール編 その1 (1792年12月〜1793年7月)
ロベスピエール編  その2 (1793年8月〜1793年12月)

1793年
フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 4月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 7月
フランス革命家の一市民の日記 1793年10月

1792年
フランス革命下の一市民の日記 1792年の3月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の9月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 10月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 12月

1791年
フランス革命下の一市民の日記 1791年の2月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の9月
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