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このセレスタン・ギタールの日記は、ほとんど毎日のように綴られている日記から、僕がトピックし、引用・要約(かなり短く)しているので、フランス革命下の一市民の日記 セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵藍訳 中央公論社 を実際に読んでみてください。

この記事で注釈をしていないところなんか、インターネットで自由に検索すれば答えがでてきます。

感想のほか、この日記や注釈で、あれっ?って気がついたところは、僕なりにコメントしてます。で、気がつかないところもあります。以上。


フランス革命下の一市民の日記 1792年 12月



12月3日 月
ロベスピエールは、ルイ16世の死刑、王妃を裁判にかけること、王太子や他の王族は混乱があるまでタンプル塔に監禁することを要求した。ルイ16世の裁判は国民公会がおこなうと宣言。

(また後書きだ)
これは12月4日付「クーリエ・フランセ」紙339号と「ガゼット・ナシオナル・エ・エトランジェール」紙の要約である。こうしてすぐにでも王は告訴されるだろう。

12月7日 金
昨日、ジャコバン・クラブはミラボーの胸像を打ち砕いた。ミラボーが裏切り者だとわかったからだ。パンテオンから遺体を放り出せという者もいる。

ものごとはすべてこんなものだ。大衆はとつぜんひとりの男に熱狂し、天まで持ち上げる。そして最後に見捨てる。

12月11日 火
パリの新市長シャンボン氏が国王を迎えに行った。国王はいつものように威風堂々と議場に入った。訊問が終わったのが5時近かった。若鶏と葡萄酒が運ばれたが、ほとんど料理に手をつけなかったという。明日も国王の訊問がある。王の運命を決する最終判決はそのあとにでるだろう。国王に弁護人がついた。

12月19日 水
ブルボン一族をのこらず3日以内にパリから、10日以内にフランス国外へ追放するという法令は賛同がえられず、ルイ16世の裁判が終わるまで棚上げになった。


 僕の注釈



僕は1792年の11月の日記はパスした。1792年11月20日、内務大臣ロラン・ド・ラ・プラティエールを立会いに、鉄の隠し戸棚を開いたルイ16世の錠前作りの師でもある、指物師のフランソワ・ガマンについて何も書かれていないからだ。

テュイルリー宮殿の壁の内側に鉄製の隠し戸棚は内密の作業だった。それでガマンは告発せずにいられなかったのだ。ロランに報告をしたのはガマンから知らされた建築の監査官ウールティエ。

ルイ16世の王弟二人、諸外国の君主(オーストリア、プロセインなど)、反革命者たちとそれぞれの書簡があらわれた。

敵国通謀、賄賂、憲法の表面的な承認など。すべて国王名だっため、王妃はこの証拠から逃れられた。王妃の証拠は他から露見されるが、裁判までには間に合わなかった。

そこにはフェルセンに手紙を送ったブルトゥイエ男爵の手紙。すでに処刑されている侍従ラ・ポルト(三銃士にもでてくる)、そしてミラボーの書簡。

運わるく、ロベスピエールの右腕、ルイ・アントワーヌ・レオン・ドゥ・サン=ジュスト(革命の大天使、美貌のテロリスト)の演説のあとだ。

国王裁判での「処女演説」。「国王は国民、法を弄んだ。裁くというのは正義の法で国王を裁くに及びません。フランスは共和国になった。にもかかわらずルイはまだ生きているのです。」(妙訳だから)

で、ギタールの日記には、いっさい触れられていない。のちの1795年の10月の回想の日記にも。

それで11月を飛び越えて、12月のトピックの注釈を加える。

3日はそのまま、ありのまま。

7日のミラボー。僕はミラボーをギタールの4月の日記で、登場させた。ミラボーの葬儀の日記だ。

記事 フランス革命下の一市民の日記 1791年の4月

ミラボーは死後、ルイ16世と交わした書簡が暴露。つまり宮廷に買収され王権拡張と革命の進行を止めるための活動をしていた。例のフランソワ・ガマンの鉄製の隠し戸棚でその書簡が見つかった。

立憲君主主義の立場をとり、国民議会の中心として活躍していたからこそ偉人と認められた墓所に埋葬する第1号としてパンテオンに埋葬された。

王妃マリー・アントワネットはミラボーを信用せず利用。ルイ16世は信頼を置いていた。

ミラボー最後の言葉は「私の死はフランス王政の崩壊だ」。ミラボー伯爵オノレ・ガブリエル・リケティ、やっぱり先見性はあるな。

11日の弁護について。国王の弁護士は71歳のマルゼルブ。国王の弁護についたとして翌年処刑。

19日のブルボン家は、復古王政まで国外に。そのとき、マリー・アントワネットの娘マリー・テレーズはアルトワ伯の息子アングレーム公ルイ・アントワーヌと結婚し、フランス・ブルボン朝最後の王太子妃となった。結局フランス・ブルボンは、1830年の7月革命をもって嫡流はフランス王位を失う結果となった。




フランス革命下一市民の日記 過去記事一覧

テルール(恐怖)のあと (1794年8月〜12月)
ジャコバン派独裁 恐怖政治編 (1794年1月〜7月)

ロベスピエール編
ロベスピエール編 その1 (1792年12月〜1793年7月)
ロベスピエール編  その2 (1793年8月〜1793年12月)

1793年
フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 4月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 7月
フランス革命家の一市民の日記 1793年10月

1792年
フランス革命下の一市民の日記 1792年の3月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の9月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 10月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 12月

1791年
フランス革命下の一市民の日記 1791年の2月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の9月

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