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このセレスタン・ギタールの日記は、ほとんど毎日のように綴られている日記から、僕がトピックし、引用・要約(かなり短く)しているので、フランス革命下の一市民の日記 セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵藍訳 中央公論社 を実際に読んでみてください。
この記事で注釈をしていないところなんか、インターネットで自由に検索すれば答えがでてきます。
感想のほか、この日記や注釈で、あれっ?って気がついたところは、僕なりにコメントしてます。で、気がつかないところもあります。以上。
フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月
1月17日 気温0度。北の風、水がはる。一日中曇。
ルイ16世にきょう判決がくだされた。
国民公会定員数745名。死亡者1名をひき、744名。病気による欠席6名。無断欠席2名。委任状提出による欠席11名。棄権した者4名。投票総数721。
死刑賛成23票、執行猶予付き死刑賛成8票、自然死2票、鉄鎖につなぐ拘禁2票、拘禁319票、無条件死刑に投票したも366票。
結局無条件死刑が5票上回ったに過ぎなかった。(注釈あり!)
ロベスピエールとガデは、国王の控訴に異議申し立て。満場一致で国王の控訴を棄却すると宣言。国王を死刑にするか執行猶予かは明日決まる。
1月21日 気温3度。一日中曇った天気
前国王、ルイ16世処刑される。
今日午前10時20分、国王はルイ15世広場で処刑され、遺体はただちにマドレーヌ墓地に運ばれ、深さ4メートル、長さ2メートルの墓地に埋葬された。
国王は1792年12月20日から遺言状をしたためていた。(全文)
1月24日 気温3度。晴、夕刻雨。
去る20日、パレ・ロワイヤルで暗殺されたルぺルチエ・ド・サン・ファルジョーの葬儀が、きょう国民公会の指令で、とりおこなわれた。
国王の死刑に賛成投票したという理由で、パリスとかいう男が左わき腹にサーベルを突き刺した。
ルぺルチエ氏は33歳の若さで一人娘との暮らし。年金30万リーヴルの上流だった。痛ましい光景に市民の涙を誘った。私も涙を抑えることができなかった。
司祭なしで行う新しい葬儀はローマ風で、荘厳な葬列は長く続き、彼が息を引き取ったヴァンドーム広場から、ヴォルテール、ミラボー、スフロと同じパンテオンまで4時間続いた。745名の議員、市役所職員、全ジャコバン・クラブ会員、多数の軍隊、三つの楽隊が参列した。
1月31日
イギリス国王は、1月21日、国王を死刑に処した事実を知り、ただちに駐英フランス大使に帰国を命じた。イギリス国王は全国民を喪に服させ、すべての劇場を休館させた。
この駐英フランス大使の強制帰国は戦争が起こるかもしれない。フランス国内の全港は、停泊中のイギリス、オランダの全船舶に出港禁止を命ずる緊急指令がだされた。
本書の注釈 僕の注釈
17日、21日の本書の注釈を紹介する。
本書の注釈を要約すると、17日、著者は計算違いをしている。歴史家によると、いずれにせよ死刑賛成361票ですでに必要過半数に達している。しかしながらフィリップ平等公の1票が逆転する可能性を含めていた。多くの議員がフィリップ平等公と同じように「ルイ16世の運命は、とりもなおさず王も裁く我々の運命である。」と知って投票した。ロベスピエールは「一人の人間に判決を下すのではない。国家の救済策を講じているのだ。」と言った。
21日の本書の注釈を要約すると、囚われの最後の数日に国王が示した高貴な態度、処刑が近づいても動じない勇気に感動的な証言がある。
侍従のクレリー、コミューヌの検事代理エベール、死刑執行人サンソンだ。
ル・テルモメートル紙によせたサンソンの手紙
「法務大臣ガラと外務大臣ルブランの前で読み上げられた死刑判決文、王と家族の悲痛な別れ、聴罪司祭エッジウォルス・ド・フィルモンが与えた最後の救いの言葉は氷のごとき冷たい心の持ち主さえも感動させた。」
フィルモン神父の有名な「行け、聖ルイの子よ。天はそなたを待つ」は実際言われなかとしても。
僕の注釈
ルイ16世の侍従クレリーは、タンプル塔での様子を日記にしている。
記事 クレリーの日記 1 ルイ16世の遺書
記事 クレリーの日記 2 タンプル塔の無能な王
マリー・テレーズがタンプル塔での生活の回想記録はこちら。
記事 マリー・アントワネットの娘 マリー・テレーズ王女の回想記録 1
ルイ16世の首が切り落とされると、民衆はハンカチ、紙、そのほかなんであろうと王の血を浸した。ここまでは史実だ。
本当かどうかはわからないが、ルイ16世の血しぶきが群集にふりかかると、王の血で染まった髪を買い求めるものもいたという。
作家のエリック・ル・ナブールは、「血しぶきのなか、一人の男が断頭台にあがり、滴った王の血をさらに民衆に降り注いだ。」という表現をしている。
死刑執行の一族サンソン家の回顧録には、市民の一人が処刑台によじ登って、むき出しの腕を血に浸し、「同士よ、われわれは、ルイ・カぺーの血がわれわれの頭に降りかかるであろうと脅かされた。ならば、降らば降れ。カペーこそ嫌というほどわれわれの血でその手を洗ってきた。共和派よ、王の血はわれわれに祝福をもたらすであろう。」とある。
ルイ16世の血痕のハンカチの話題がでたのが今年の10月だ。その容器は、あるイタリアの家族が、1800年代後半から所有しているものらいく、フランス革命の関連人物と、「1月21日、王の処刑後、Maximilien Bourdaloueがハンカチをその血に浸した」という意味の文章も刻まれているという。
記事 「ルイ16世の血を納めた容器」をDNA鑑定
結局、ルイ16世の血かどうかははっきりしていないんじゃないかい?ルイ16世の遺髪もあるはず。そういえば、なぜルイ17世あるいはタンプル塔の少年とDNA鑑定をしないのだろうか。ルイの直系ではないと、よくフランスでは言われている。
記事 マリー・アントワネットと子供たち 18世紀の子供たち
日記を読んでいて、不思議なのはルイ16世がすぐ埋葬されたという点だ。当時は防腐処理をして、臓腑と肺、心臓を壺にいれる。
ルイ17世の心臓は公開されているが。
ではルイ17世の心臓とマリー・アントワネットの遺髪はどうだったのか。一致はしなかった。
だが、マリア・テレジアの娘、アントワネットの姉マリア・カロリーナの子孫のル−マニア王妃アンナと一致しているそうだ。アンドレ・ブルボン-パルマとはほぼ一致。
そうしてアンナを基準にすると、アンドレ・ブルボン-パルマ、ヨハンナ・ガブリエラ、タンプル塔の少年が、アンナのDNAと一致するということで、タンプル塔=ルイ17世という判定となったらしい。
参考サイト ルイ17世DNA鑑定
つまりマリー・アントワネットの遺髪と一致したわけではなかった。マリー・アントワネット側の家系とDNAが一致したということだ。ハプスブルグ家の血を証明したのか、フランス・ブルボン朝の王子なのに。
それが誰であれ、追悼の念を感じさせるものである。たとえば身代わりだとすれば、一層哀れである。犠牲にされたのだから。
ただしもっとも酷い子供の死に方ではない。
彼は、ローランの扱いからゴマンに変わって、清潔な身繕いと部屋を整えてもらったあとだ。
この件の記事で、ルイ17世と判明して、憤りと憤怒を感じるとあるが、そこまでの思いがあるのなら、極論かもしれないけれど、それを形にすればいいのにと思う。ルイ17世のパンテオンをつくるとかさ。ねっ!
あまり過剰で粉飾するような感情の記事やコメントは御免こうむる。
さて、忘れていた。ルぺルチエ・ド・サン・ファルジョーだ。いやー、本の注釈にもあったが、僕もルイ16世の処刑よりも、このルぺルチエ・ド・サン・ファルジョーの死に皆、涙を流す。そりゃ、未成熟な娘が一人になるしね。そして彼は最初の殉教者でもある。
ジャコバン党員で画家のジャック=ルイ・ダヴィッドが、ルぺルチエの死を「大革命の最初の殉教者」という作品にした。それはサン・ファルジョーの城の壁の中に埋め込まれているという。
フランスを旅行した方なら知っていると思うけど、サン・ファルジョーって村がある。そこにサン・ファルジョーの城もある。コンテの血を引いているルぺルチエ・ド・サン・ファルジョー。
彼は1790年に国民議会の議長となった。義務教育と死刑廃止を提唱していた。
王の護衛官パリスは問う。「貴公はどちらに投票されたか。」
ルペルチエは答える。「良心の名のもとに、賛成とした。」
そしてパリスの名のもとに、ルペルチエに審判を下した。
死刑廃止を提唱しつつ死刑賛成に1票を入れたルぺルチエ・ド・サン・ファルジョー。皮肉な死。
以前から僕は、このギタールの日記には不思議だと感じていると書いたが、王室が衰退してく度に、ギタールも王室に関しての記事は記録係のような書き方だ。ところがルぺルチエ・ド・サン・ファルジョーに関しては、感情を日記の中にあらわしている。
さて、英国がルイ16世の処刑に喪に服した。この頃はジョージ3世の時代である。wikiから引用するが、「ジョージ3世は王室費を節約し、浮いた資金で数多くの議員を買収し、「王の友」 (King's Friends) と呼ばれたそれらの議員を使って政策を実行していった。」という王である。
ジョージ3世はルイ16世を国王としてどう見ていたのだろうか。
この頃、シュヴァリエ・デオン(シャルル・ジュヌヴィエーヴ=ルイ・オーギュスト=アンドレ=ティモテ・デオン・ド・ボーモン)がロンドンにいたはずだ。
ルイ15世、ルイ16世のもとでフランスのスパイとして活躍していたシュヴァリエ・デオンは、亡命貴族として扱われ、財産没収。生涯の前半は男性として、後半を女性として生きた剣士でもある。
ルイの処刑で、帰るに帰れず、細々と、ロンドンで余生をおくるはめになった。
この同時代の英国に、マリー・アントワネットとも交友を持ったとされているデヴォンシャー公爵夫人ジョージアナ・キャヴェンディッシュがいた。
英国もロココの時代だった。
フランス革命下一市民の日記 過去記事一覧
テルール(恐怖)のあと (1794年8月〜12月)
ジャコバン派独裁 恐怖政治編 (1794年1月〜7月)
ロベスピエール編
ロベスピエール編 その1 (1792年12月〜1793年7月)
ロベスピエール編 その2 (1793年8月〜1793年12月)
1793年
フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 4月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 7月
フランス革命家の一市民の日記 1793年10月
1792年
フランス革命下の一市民の日記 1792年の3月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の9月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 10月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 12月
1791年
フランス革命下の一市民の日記 1791年の2月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の9月