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このセレスタン・ギタールの日記は、ほとんど毎日のように綴られている日記から、僕がトピックし、引用・要約(かなり短く)しているので、フランス革命下の一市民の日記 セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵藍訳 中央公論社 を実際に読んでみてください。

この記事で注釈をしていないところなんか、インターネットで自由に検索すれば答えがでてきます。

感想のほか、この日記や注釈で、あれっ?って気がついたところは、僕なりにコメントしてます。で、気がつかないところもあります。以上。


フランス革命下の一市民の日記 1793年 7月



7月8日 月
1793年7月3日午後9時、タンプル塔に幽閉中のプチ・カペー(王太子)は母のマリー・アントワネットの手許から引き離されて、父の住んでいた部屋に移された。

シモンという名の一市民が今後、彼の世話を焼くことになった。マリー・アントワネットは娘と義妹と一緒に別室に住んでいるので、母と子はもう二度と再び会うことはないだろう。

7月13日 土
「人民の友」紙の発行で広く名を知られる傑物、国民公会議員のマラーが午後6時、コルデー嬢といい、貴族の女性に入浴中、左胸を短刀で一突きされ、即死した。カン出身の若い女性だった。

何がなんだかわからないまま死んでいくのは遺憾千万なことだ。

7月16日 火
マラーの遺体は14、15日と防腐処置が施された。15日の午後、コルドリエ教会に運ばれ、一般に公開された。午後6時から長い葬列をつくってパリを一巡した。

暗殺者のシャルロット・コルデーは大修道院監獄に移された。

マラーは48か49歳だった。遺体はコルドリエ教会の庭園の木立の中に埋葬され、棺は三つの石の上におかれ、棺の上にはもう一つ置かれた。棺の脇にはマラーの臓腑を収めたバター壺がおかれ、反対側に肺を納めたた小さな樽が置かれた。

7月17日 水
今日の夕方6時ごろ、マラーを殺害したシャルロット・コルデーが斬首された。彼女は罪状をすべて否認した。

7月28日 日
コルドリエ・クラブは盛大な儀式のうちに、マラーの心臓と全著作物をのせて、威風堂々と行進した。弔辞の合間に美しい演奏。葬儀は松明の明かりのなかで夜10時半に終了した。マラーの心臓はドーフィーヌ通りのコルドリエ・クラブに運ばれた。私は祭壇のそばにいたので、マラーそっくりの力強い演説を聞くことができた。


 本書注釈 僕の注釈



ギタールの日記で、この年の5月28日、31日、6月1日が興味深い。

1793年 5月28日
パリは混乱状態にある。各区委員会、国民公会、市庁も動揺している。議員のなかには十二人委員会のことで国民公会に揺さぶりをかけようとしている。ジャコバン派、山岳党も十二人委員会に反対だ。

1793年 5月30日
パリは不穏な空気に包まれている。
全市民は武装した。集合太鼓にパリ中に警鐘がなり恐怖にとらわれた。明日になれば詳しい事情がわかるだろう。

本の注釈
十二委員会は検事代理でエベール、ヴァレルを逮捕。27の区の請願者たちが十二委員会の解散を強要。ジロンド派はすぐに復活させたが31日に廃止された。

1793年 6月1日
午後6時にふたたび全員武装せよ、という命令がでた。チュイルリーに3000から4000人の民衆が夜明かしにでかけたが、何故そんなことをするのかがわからない。おそらく、何者かにおびえているのだろう。

本の注釈
ジロンド派幹部の逮捕で、ロラン、クラヴィエール、ルブランに逮捕状がでた。さらにアンリオの指揮する国民衛兵に国民公会を包囲させた。ジロンド派の29名が逮捕となる。P・ガクソットは、ここにマラーの暗殺を見ている。

4月の日記で僕はマラーの裁判の部分をトピックした。4月18日の日記だ。

記事 フランス革命下の一市民の日記 1793年 4月

コルドリエ・クラブ、山岳派に所属していたマラーは、wikiから引用すると「議会を主導するジロンド派を攻撃し、一時、逮捕されたがすぐに釈放されパリ民衆を蜂起させて最終的に国民公会から追放した。」というのがこの一連だ。

ジャン=ポール・マラー(Jean-Paul Marat、1743年5月24日 - 1793年7月13日)はロンドンで開業医となるとwiki にあったが、たしか医師免許は持っていなかった記憶がある(間違いだったらゴメン)。もしそうなら偽医者だったのか?同時代にはイタリアヴェネツィアでも偽医者は流行している。→記事 ピエトロ・ロンギ Pietro Longhi  いかさま よこしま さかしま

さてシャルロット・コルデーの暗殺。

ジャコバン党員で画家のジャック=ルイ・ダヴィッドが、「マラーの死」(王立美術博物館)を作品として仕上げている。

Death of Marat by David 1793  w:Jacques-Louis David (Musées Royaux des Beaux-Arts)


カーンで、ペティヨンやバルバルーと接触していたジロンド派支持者シャルロット・コルデー。だが、余命いくばくもないマラーをなぜ殺したのか。

wiki によると「マラーは8月10日のテュイルリー王宮襲撃事件や反革命派への9月の虐殺を引き起こしたといわれている」とあるが、このシャルロット・コルデーが接触したペティヨンも、8月10日のテュイルリー王宮襲撃事件や反革命派への9月の虐殺を引き起こした。弁護士マトンの手記にそれが書かれている。

記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の9月

さて、ローラン・バという一人の警官がこの暗殺を目撃している。彼はマラーの家で「人民の友」を折りたたんでいるところだったらしい。

Jean-Paul Marat death mask from the authors private collection

ジャン=ポール・マラー デス・マスク 個人所蔵


7月13日金曜日午後7時半。黒い帽子に扇子を持った女が訪ねてきた。マラーの妹は取り次ぎにいくと、市民マラーは「構わない」といった。彼は浴槽で仕事をしたり、書いたりしていた。小さくて二人しか入れない浴槽室だった。

市民ローラン・バは他の女性3人と部屋にいた。7、8分過ぎて、マラーが妹へ助けを呼んだ。妹がかけつけるとすでにこと切れていた。暗殺者は市民ローラン・バの方に来るのを見て取り押さえた。そこに警備を担当している市民キュイジニエが入ってきて、ローラン・バは助けを求める。

すぐに他のものも続々とやってきて、暗殺者をつかまえた。コミューンの検事長代理のエベール、国民公会の議員だというものもやって来た。

ここにジャック・ルネ・エベールが再登場する。公安委員会と対立していた一人だ。5月30日の日記では逮捕されているが、無罪放免だったようだ。

ジロンド派は、5月18日、十二人委員会を立ち上げて公安委員会と保安委員会の上位に位置する治安の最高機関とし、反ジロンドを鎮圧しようとした。

ジロンド派中傷の記事を書いたエベール。たぶん「ペール・デュシェーヌ(デュシェーヌ親父)」紙にでも書いたのだろう。意外だが、このエベールの肖像画をみたら、ペール・デュシェーヌの発行者とは思えないほど、端整で上品そうな顔でびっくり。

これからこのエベールは革命裁判所検事総長のフーキエ・タンヴィルとともにカペー未亡人(マリー・アントワネット)の有罪づくりに尽力することになる。

1793年7月10日に改選された公安委員会の顔ぶれは、マクシミリアン=ロベスピエール、ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト、車椅子のジョルジュ・オーギュスト・クートンと、恐怖政治の三巨頭が揃った。

このとき、公安委員会のダントンは失脚したのだ。

順序は逆になったが、7月8日のプチ・カペー(ルイ・シャルル)とシモンの記事。シモンは実に優しかった。そしてプチ・カペーは実に懐いていた。

1793年の1月の日記で、ルイ16世の血を書いた僕は、ルイ・シャルルに触れている。

記事 フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月

そしてこの時期に、タンプル塔に出向いているのが、6月1日の日記で、国民公会を包囲したアンリオだった。

マラーに関しては次の記事も参考に。

フランス革命下一市民の日記 ロベスピエール編
ロベスピエール編 その1 (1792年12月〜1793年7月)
ロベスピエール編  その2 (1793年8月〜1793年12月)



フランス革命下一市民の日記 過去記事一覧

テルール(恐怖)のあと (1794年8月〜12月)
ジャコバン派独裁 恐怖政治編 (1794年1月〜7月)

ロベスピエール編
ロベスピエール編 その1 (1792年12月〜1793年7月)
ロベスピエール編  その2 (1793年8月〜1793年12月)

1793年
フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 4月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 7月
フランス革命家の一市民の日記 1793年10月

1792年
フランス革命下の一市民の日記 1792年の3月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の9月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 10月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 12月

1791年
フランス革命下の一市民の日記 1791年の2月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の9月

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