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このセレスタン・ギタールの日記は、ほとんど毎日のように綴られている日記から、僕がトピックし、引用・要約(かなり短く)しているので、フランス革命下の一市民の日記 セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵藍訳 中央公論社 を実際に読んでみてください。

この記事で注釈をしていないところなんか、インターネットで自由に検索すれば答えがでてきます。

感想のほか、この日記や注釈で、あれっ?って気がついたところは、僕なりにコメントしてます。で、気がつかないところもあります。以上。

(フランス革命下一市民の日記 過去記事一覧は記事最後です。)


フランス革命下の一市民の日記 1793年 10月



10月3日 木
公会で大論争があり、その結果、65名の議員が逮捕された。

10月7日 月
サント・ド・ミンゴでは不幸な事件が相次いで起こった。白人は黒人に対して武器をとり、黒人は白人に対して武器をとる。サント・ド・ミンゴの惨事についてすでに新聞が報じている。

10月13日 日
公定価格 パリ中で全商品の公定価格の制定が鳴り物入りで通達された。そして早くも商品がかなり値下がりしている。全商品に価格統制の妙手をうった。この適用を免除される商人はいない。

10月14日 月
マリー・アントワネットが革命裁判に出廷し、第一回の訊問を受ける。15日午前4時、死刑の宣告。16日正午、革命広場で処刑。特別な囚人として、二厘馬車に一人乗せられ、刑場へ運ばれた。監獄をでるときから、髪を切られ、両手を後ろ手に縛られていた。王妃は白い部屋着姿であった。

10月31日 木
法令 誰でも自分の好きな服装をすることができる。何人もこれを妨げることはできない。

革命協会の婦人たちはパリ中の女性に赤い帽子を被らせ、ウールの洋服を強制したがっていた。パリ中央市場の主婦たちはこの提案に反対。すべての婦人クラブの廃止を要請した。民衆的団体の公開会議への出席は、廃止された婦人クラブに所属していた女性たちも、ほかの女性同様参加を許可された。

革命裁判所は代議士22名に死刑の宣告を下した。正午、全員が処刑された。ブリソー、ヴェルニョー、シャンソネ、デュプラ、ヴァラゼ、ル・アルディ、デュコー、ポワイエ、フォンフレード、ボワロー、ガルディヤン、デュシャステル、シュリー、司教フォーシェ、デュペレ、ラフルス、カラ、ボーヴォー、マンヴィエル、アンチブール、ヴィジュ、ラ・カーズ。

彼らの罪状は、共和国の単一・不可分性に対する、かつフランス人民の自由と安全に対する陰謀加担である。


 本書注釈 僕の注釈



13日の本の注釈にすでに1793年9月23日に公定価格制定法令は布告されていた。市民はインフレと物価高騰による生活苦への特効薬であるかのように熱狂的に歓迎する。残念ながら、経済統制は不可避的に破綻の道を辿る。「悪貨が良貨を駆逐する」ように価格統制は商品を駆逐。」

ロベスピエールはのちに、この法令で罵声を浴びる。死への道の途中で。

14日、王妃の処刑だった。ギタールは詳しく書いていない。

ギタールの日記で、この前々月8月の日記にコンシェルジュリーに移されたアントワネットの記録が8月2日(金)に一行で書かれていた。

ロザリー・ラモリエール記(部屋付女中)
9月虐殺の少しあと、私が勤めていたボーリュー夫人が亡くなり、牢獄の管理人リシャール夫人に勤めることになりました。

8月1日、王妃がこのコンシエルジュリーに移されてきました。4日目、5日目頃のことです。婚礼のときに持参した王妃の金時計を取り上げることになりました。

9月半ば、ド・ルージュヴィルという男がミショニという衛兵によって王妃の部屋へ連れてこられました。王妃の服の裾のところにカーネーションを落としていきました。

女中のアレル(アレン)は何もかも見ていて、フーキエに報告しました。リシャールとマダム、上の息子はサント・ペラジー、マドロネットの独房に入れられました。

新しい管理人はルボー、そして娘のヴィクトワール(マダム・コルソン)。管理は厳しくなり、王妃の食事は鳥、仔牛のお肉、野菜料理は一皿になりました。

この全文に関しては楓が要約して記事にする予定だから。結構小説の1話分くらいあるんだよ。
              ↓
記事 ブルボン朝の王妃 マリー・アントワネット さらば、王家よ

取り上げた金時計ってあれだな。1783年に天才時計師アブラアン-ルイ・ブレゲに金時計を依頼したものと違う。婚礼時にドイツの時計を持っていたらしい。

さて、このロザリー。王妃崇拝だが、カーネーション事件に触れている。ギタールの日記では何も触れていない。

Lexecution de Marie Antoinette, la Conciergerie, Paris

マリー・アントワネットの処刑


マリー・アントワネットの弁護は、革命裁判所でショーヴォー・ラガルドを任命した。マラー暗殺のシャルロット・コルデーの弁護も委任されている。彼自身囚われ、テミドールの時保釈された。

ショーヴォー・ラガルドの手記
10月14日、トロンソン・デュクドレーとともに革命裁判所によって弁護人に指名された。私はただちに出発した。王妃が入れられていたこの部屋は屏風で二つに仕切られていた。右にはベット、テーブル、椅子がある。王妃はあっさりした白い服を着ていた。王妃は威厳ある神々しい態度で、恭しくすすむ私を信頼し優しく迎えてくれた。

この短い時間で訴訟の書類を調査するには数週間かかる。そのためには国民公会に頼むしかない。王妃の答えはノン。私は王妃を弁護するということは、ルイ16世の未亡人、子供たちの母親、そして義妹を弁護することだと付け加えた。

王妃はようやく議会宛てに必要期間を要求する数行をしたためてくれた。だが請願書をあてたフーキエ・タンヴィルはそれをしなかった。翌日公判がはじまった。

こうしてアントワネットのフランスの裏切り行為である証拠書類は運良く遅れてしまった。そして検察側の猿芝居がはじまる。姦通の捏造だ。だが、ギタールの日記には出てこない。

だけどさ、フーキエってホント、頭悪い、悪すぎるよな。それが無くたって十分有罪でしょうよ。

アントワネットの罪状 楓の記事から引用
∵諸外国をフランス革命に介入させる陰謀。
∵諸外国の介入でフランスを壊滅させるために敵国と内通。
∵国外へ亡命し、フランスを攻撃する計画(ヴァレンヌの逃亡)。

この罪状については、あのオランプ・ドゥ・グージュが指摘しまくった。

この件に関して
記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の7月
記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の8月

さて本書の注釈
「王妃の位を失ったこの悲劇の女性の命運はいままさに尽きようとしている。ミラボーは言う。「王はただ一人の味方しかいないが、それは王妃である。」(僕:とんでもない味方だ!)、当時、アントワネットはこのミラボーとバルナーヴを両天秤にかけ、王政を生き残れるチャンスを二度もふいにした。」

記事 ブルボン朝の王妃 マリー・アントワネット さらば、王家よ

マリー・アントワネット関連記事はこちら。

記事 クレリーの日記 1 ルイ16世の遺書
記事 クレリーの日記 2 タンプル塔の無能な王
記事 惨殺されたフェルセンの最期
記事 マリー・アントワネットが愛したもの
記事 王太子妃 マリー・アントワネット 4つの不吉
記事 ハプスブルグ家 マリア・アントーニア
記事 マリー・アントワネット フランス紀行から
記事 マリー・テレーズ王女の回想記録 1
記事 エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランス
記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年 8月
記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年 9月
記事 フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月
記事マリー・アントワネットの子供達 18世紀の子供達

13日、31日は、いよいよジロンド派の処刑がはじまった。ブリソーとあるのがジャック・ピエール・ブリッソー、そして「ジロンドの鷲」と呼ばれたピエール・ヴェルニヨの名もある。

このとき逃亡したのは、ロラン、ビュゾー、ペティヨンである。ペティヨン礼賛はどこに消えたのか。ますます面白くなるぞ!

記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の7月

本の注釈は、「6月2日の決議に抗議する請願書に署名した代議士は逮捕され、フォルス監獄に収容されて、6ヶ月間拷問され、息も絶え絶えだった。」(P・ガクソット)。その結果、ジロンド派は10月24日に告訴され、この31日に処刑された。」


 
フランス革命下一市民の日記 過去記事一覧

テルール(恐怖)のあと (1794年8月〜12月)
ジャコバン派独裁 恐怖政治編 (1794年1月〜7月)

ロベスピエール編
ロベスピエール編 その1 (1792年12月〜1793年7月)
ロベスピエール編  その2 (1793年8月〜1793年12月)

1793年
フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 4月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 7月
フランス革命家の一市民の日記 1793年10月

1792年
フランス革命下の一市民の日記 1792年の3月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の9月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 10月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 12月

1791年
フランス革命下の一市民の日記 1791年の2月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の9月
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マリー・アントワネットと子ども達 1782年シャルル・ルクレルクこれはエリザベート王女をウェヌスの処女にたとえて描いた作品と同じ画家です。1782年ですからマリー・テレーズとルイ・ジョゼフ。ルイ・ジョゼフは、ルイ16世の第3子で、はじめて世継ぎの男の子として誕生
| Life Style Concierge | 2010/12/23 5:26 PM |
よく「語られていた歴史が本当のことだったのか」とかと言われているフランス王妃のマ
| BLUE MOON | 2010/12/23 5:40 PM |
このマリー・アントワネットの肖像画は、どこかのクラブのマダムのよう。 結構マリー
| sweet-sweet-sweet | 2010/12/23 5:50 PM |
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