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本日のギタールの日記はこれまでと違って人物編で。

僕がロベスピエール編を書くハメになったのはsai のせいだ。sai がサド侯爵、ルソーの記事を書くにあたって、どちらにもロベスピエールとの接点があるからして、インターネットで軽く検索して、年表を確認しようとおもったら思いがけない記事やアンサーがでてきたらしい。

まず最初に19世紀になって知識人に賛美されて、間違った解釈になってしまった「「革命における最大の人物で、史上もっとも偉大なりし人々の一人」という賞賛は、革命時の業績ではない。「ロベスピエール個人の革命時の生き方」を賛美しているということだ。

sai記事 マクシミリアン・ロベスピエール

そして「清廉の士」とあるが、決してそれはロベスピエールの政治上のことではなく、私生活であるということではないかと思うようになった。買収や密偵を使いこなしていたロベスピエールだからな。

そうしたネタを発見したsaiのために、ロベスピエールの恐怖や法令が、当時の一市民の客観的な日記からトピックしたというわけだ。

今日は急いでアップしたのでいつもよりさらに雑。でも興味のある人はのぞいてって。



おことわり
このセレスタン・ギタールの日記は、ほとんど毎日のように綴られている日記から、僕がトピックし、引用・要約(かなり短く)しているので、フランス革命下の一市民の日記 セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵藍訳 中央公論社 を実際に読んでみてください。



1792年
12月3日 月
ロベスピエールは、ルイ16世の死刑、王妃を裁判にかけること、王太子や他の王族は混乱が収まるまでタンプル塔に監禁することを要求した。

国民公会は、ルイ16世の裁判は国民公会が行うと宣言した。これは12月4日付「クーリエ・フランセ」紙339号と同日付「ガゼット・ナシオナル・トランジュール」紙の要約である。こうしてすぐにでも王は告訴されるだろう。

12月11日 火 (過去記事よりそのまま引用)
パリの新市長シャンボン氏が国王を迎えに行った。国王はいつものように威風堂々と議場に入った。訊問が終わったのが5時近かった。若鶏と葡萄酒が運ばれたが、ほとんど料理に手をつけなかったという。明日も国王の訊問がある。王の運命を決する最終判決はそのあとにでるだろう。国王に弁護人がついた。

12月15日 水
トロンシェ、マルゼルブの両氏が国王の弁護人に決まった。26日の最終判決の日までタンプル塔で国王と起居を共にする。国王は26日まで二人の子供を傍らにおくかわりにこの期間は、子供たちは王妃に会う事ができない。

記事 クレリーの日記 1 ルイ16世の遺書

1793年 (過去記事よりそのまま引用)
1月17日 水
ルイ16世にきょう判決がくだされた。国民公会定員数745名。死亡者1名をひき、744名。病気による欠席6名。無断欠席2名。委任状提出による欠席11名。棄権した者4名。投票総数721。死刑賛成23票、執行猶予付き死刑賛成8票、自然死2票、鉄鎖につなぐ拘禁2票、拘禁319票、無条件死刑に投票したも366票。結局無条件死刑が5票上回ったに過ぎなかった。(注釈は過去記事で)

ロベスピエールとガデは、国王の控訴に異議申し立て。満場一致で国王の控訴を棄却すると宣言。国王を死刑にするか執行猶予かは明日決まる。

1月21日 月
前国王、ルイ16世処刑される。今日午前10時20分、国王はルイ15世広場で処刑され、遺体はただちにマドレーヌ墓地に運ばれ、深さ4メートル、長さ2メートルの墓地に埋葬された。国王は1792年12月20日から遺言状をしたためていた。


僕の注釈


さて、ギタールの日記でいよいよロベスピエールの名が登場してきた、1792年の12月。

この国王の有罪についてはロベスピエールのモンターニュ派とそしてヴェルニョーやブリッソー、マノン・ロランらのジロンド派とは同意見だった。

ジロンド派は人民主権の原則に基づいて人民投票を主張したが、ロベスピエールは「地上においては徳性は常に少数派だった」と主張。

人民投票がおこなわれれば国王は処刑されずにすむ。

この人民投票、そして国王の処刑はサン=ジュスト(処女演説)、ロベスピエールの演説でモンターニュ派が勝利した。

sai記事 マクシミリアン・ロベスピエール

12月の記事の注釈は過去記事から。
過去記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年 12月

さて国王の処刑。この1月の記事に関しては過去記事で。
過去記事 フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月



1793年

2月1日 金
国民公会はイギリス、オランダに対し宣戦布告した。同時にアッシニャ貨幣発行が決定された。

2月25日 月
きょうパリで、生活必需品の値上がりに抗議する反乱が起きた。パンの買占めが起こり、朝9時のパン屋にはひとつのパンがない。これがパン屋の襲撃と絞首刑にしろという威嚇の叫びとなっ爆発した。こうして主婦たちの決めた値段で蝋燭、砂糖、石鹸が安く手に入った。威嚇や扇動があった。

明日、国民公会が開かれ、民衆が満足できるような対策が取られるだろう。三十万の強制徴兵令がだされたばかりの時だけにこうした情勢になったのは、まずい。

3月19日 火
ブルターニュに大暴動が起こる(ヴァンデの反乱)
貴族が立ち上がり、武器、大砲を備えて進軍し、民衆を蜂起させた。

3月28日 木
全パリ市が武装し、全戸の家宅捜査がおこなわれた。亡命貴族、貴族、宣誓拒否司祭、貴族の使用人、その他疑わしい人物から武器を押収。賢明な予防措置である。

4月3日 水
デュムーリエが陸軍大臣b−ルノンヴィル将軍とパリを出発した国民公会の4人の委員を逮捕、幽閉し王政を再建させるため軍隊を率いてパリに攻め上るという。そしてマインツのキュスチーヌが撤退したらしい。

4月8日 月
コンチ公、オルレアン公がアベイ監獄に投獄された。ブルボン家の血をひくものは人質としてマルセイユに連行された。

投票で12人の委員が革命委員会の委員に選出された。

4月18日 木
どこの区でも、裏切り者と指名された国民公会議員22名の召喚と罷免を求める請願書の署名がおこなわれている。

「請願に同意するものは署名せよ。署名は自由であり、何びとも強制されない。」

4月23日 火
マラーは自己弁護するよう革命裁判所に呼び出され、コンシェルジュリーに出頭した。民衆とジャコバン・クラブ全員はマラーの額に白い鉢巻を巻き、頭に柏の冠を被せ、意気揚々と国民公会へ連れて行った。


僕の注釈

 
デュムーリエの裏切り、十二委員会について、過去記事でも触れたと思うので、別な視点から。

まず2月25日の「商店掠奪事件」だが、この頃食料危機は悪化。民衆は穀物の価格統制と食料行政の一元化を要求。「選挙民への手紙」には、ロベスピエールは「商品の価格と貧しきものの労費と調和せしむべき社会立法が必要である。」と価格統制に意欲的だが、これはジロンド派だけではなくダントンたちも反対した。

だが、あとで述べるようにその機会はやってくる。そして結果的には「最高価格法」なる法令を発布して、サン=キュロットや貧民達に大顰蹙。ロベスピエールの処刑には「最高価格法」の野次が飛ぶ始末だった。

4月はこちら
フランス革命下の一市民の日記 1793年 4月

ロベスピエールは、自分が民衆の代表だと思っている。貧民、貧農、そしてそれらを代表するサン=キュロットたち。

それに反して、ジロンド派はブルジョワ層の集まりだ。地主、大商人、銀行家びに学者。彼らは「名士の党」であって、ロベスピエールのルソーの思想とは違い、ディドロの思想に近い党派だ。(ルソーの思想のマノン・ロランもいるけど)

ルソーvsディドロは、彼らの死後に、モンテーニュ派vsジロンド派として登場する。

ジャコバン派のマラーが革命裁判所に呼び出されたのもジロンド派の陰謀によるものだろう。

マラーは1790年にコルドリエ・クラブにはいり、1792年の国民公会でモンターニュ派に所属した。9月虐殺を呼びかけるなど、マラーはテロリズムを誘発するほど、民衆の根深いものを知っていた。

国民公会ではジロンド派を攻撃。ジロンド派との権力争いは、マラーにとってはモンターニュ派独裁であり、「自由の専制」であった。

さて、この二つの派閥の違いをシモノーの殺害から比べてみる。

フランス革命下一市民の日記で、1792年の3月3日に亡くなったエタンプ市長のシモノーがいる。この日の日記にはシモノーの死は書かれていなかったが、6月のシモノーの葬儀をかねた祭典は、ギタールの日記にある。

記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の6月

このシモノーの祭典を「法の殉教者」としたのがジロンド派とフイヤン派だ。このシモノーは過去記事にもあるように法を守って暴動を止めようとして殺された。

ジャコバン派でも彼の殉死は賛美されていた。ところがこの暴動の一件を司祭ドリヴィェが請願書を議会に送ってきた。

一揆(暴動)は、大商人の投機による穀物価格の暴騰と飢饉の不安。シモノーが殺されたのは、穀物商人のために武力をもって弾圧しようとしたことである。そしてシモノー殺害に加わったという無実の罪で銃殺された家族は貧窮であると訴えた。

これが事実だろうが真実かはわからない。つまりシモノーが武力行使を弾圧にしたのか鎮圧のつもりだったかだ。

そして殺害に加わったという無実の罪だが、殺害に加わっていなかったということだろうか。それとも殺害そのものが弾圧の防衛手段で無実であるということだろうか。

だが、ロベスピエールはこれを利用した。ロベスピエール全集の「憲法擁護者」に、「エタンプ市長は穀物商人の英雄であって、エゴイスティックな投機を守って死んだのだ。」として、司祭ドリヴィェを支援し、エタンプの暴動を弁護したとされている。

そしてこの件でジロンド派を攻撃した。

だが、僕はロベスピエールほど思い込みの激しいものはいないと思う。ジロンド派、フィヤン派、あるいはこの司祭ドリヴィェが、それぞれの示す「富者と貧者」は、ロベスピエールの「富者と貧者」に必ずしも一致しないからである。

そしてロベスピエールは推し量ることができない。つまり「白」といえばロベスピエールが思い浮かべる「白」しかない。他の「白」という種類を知ろうとしないのだ。

だからこそ、この一件でもロベスピエールが書いていることをそのまま僕は受け取れないんだ。

1793年のこの年の9月。武装したサン=キュロットは穀物の投機家を捕まえてギロチンにかければパンが出回るという論法だ。これはロベスピエールの利害と一致した。

つまりロベスピエールの統制経済と恐怖政治の支援となったからである。

sai記事 マクシミリアン・ロベスピエール



5月26日 日
各区の招集兵が別々の道を通ってヴァンデへ向かった。

5月28日 火
26日以来、パリは混乱の中にいる。各区委員会、国民公会、市庁も動揺している。2000〜3000人の婦人たちが太鼓や旗をもって行進。別な婦人の一団は兵士のような略帽をかぶり会合や集会を開く。婦人にも警備当番をさせろと国民公会へおしかける。

国民公会は十二人委員会のことで揺さぶりをかけようとしているものもいる。各区委員会、ジャコバン派、モンターニュ派が反対している。しかし平原等の議員達が勝利し、十二人委員会は存続することになった。

5月31日 金
パリは不穏な空気につつまれる。集合太鼓が鳴り響き、全市民が武装した。明日になれば詳しい事情がいくつかわかるだろう。1789年7月14日、1792年6月20日、8月10日、1793年1月21日、5月31日、これらの日は歴史上特筆すべき日となろう。

6月1日 土
午後6時にふたたび全員武装せよ、という命令がでた。チュイルリーに3000から4000人の民衆が夜明かしにでかけたが、何故そんなことをするのかがわからない。おそらく、何者かにおびえているのだろう。

6月2日 日
人々は一晩中武装していた。たくさんの人が逮捕された。今夜もこれが続くだろう。

6月23日 日
1793年6月22日の新憲法
1792年9月22日に起草され、9ヵ月後の同じ22日に完成した。

6月27日 木
数日前からパンの入手がむずかしくなっている。石鹸を積んだ船が襲われた。

6月29日 土
パリの国民衛兵の司令官を選ぶため、アンリオとラフェのあいだで決戦投票がおこなわれた。アンリオが多数の票を獲得した。わたしも彼に投票した。

過去記事よりそのまま引用
フランス革命下の一市民の日記 1793年 7月

7月8日 月
1793年7月3日午後9時、タンプル塔に幽閉中のプチ・カペー(王太子)は母のマリー・アントワネットの手許から引き離されて、父の住んでいた部屋に移された。

シモンという名の一市民が今後、彼の世話を焼くことになった。マリー・アントワネットは娘と義妹と一緒に別室に住んでいるので、母と子はもう二度と再び会うことはないだろう。

7月13日 土
「人民の友」紙の発行で広く名を知られる傑物、国民公会議員のマラーが午後6時、コルデー嬢といい、貴族の女性に入浴中、左胸を短刀で一突きされ、即死した。カン出身の若い女性だった。

何がなんだかわからないまま死んでいくのは遺憾千万なことだ。

7月16日 火
マラーの遺体は14、15日と防腐処置が施された。15日の午後、コルドリエ教会に運ばれ、一般に公開された。午後6時から長い葬列をつくってパリを一巡した。

暗殺者のシャルロット・コルデーは大修道院監獄に移された。

マラーは48か49歳だった。遺体はコルドリエ教会の庭園の木立の中に埋葬され、棺は三つの石の上におかれ、棺の上にはもう一つ置かれた。棺の脇にはマラーの臓腑を収めたバター壺がおかれ、反対側に肺を納めたた小さな樽が置かれた。

7月17日 水
今日の夕方6時ごろ、マラーを殺害したシャルロット・コルデーが斬首された。彼女は罪状をすべて否認した。

7月28日 日
コルドリエ・クラブは盛大な儀式のうちに、マラーの心臓と全著作物をのせて、威風堂々と行進した。弔辞の合間に美しい演奏。葬儀は松明の明かりのなかで夜10時半に終了した。マラーの心臓はドーフィーヌ通りのコルドリエ・クラブに運ばれた。私は祭壇のそばにいたので、マラーそっくりの力強い演説を聞くことができた。


僕の注釈

5月4日に穀物の最高価格法が制定されたことを先に書いておく。

5月はヴァンデの反乱である。1793年2月にモンターニュ派議員デュボワ=クランセの「30万人動員法」をはじめ、教会と僧侶に対する弾圧、国王処刑、増税に不満を持ち、爆発。これを鎮圧しにいくが、1801年までおさまらない大きな反乱だ。

この26日にロベスピエールは「民衆よ、国民公会に来たれ、来たりて公会が腐敗議員を倒すのを授けよ」と演説。

27日、議会ではジロンド派とロベスピエールの対立となり、激しい攻撃を受けた。だが4月からジロンド派に対しての画策は進んで、サン=キュロットを買収し用意万端。

28日議会では勝利をつかめず。そしていよいよアンリオがロベスピエールのために動く。31日はロベスピエールはジロンド派の首脳陣に「デュムーリエの裏切り」に対してその共犯者への告発令状を要求。十二人委員会が廃止。

6月2日は、アンリオが国民衛兵の指揮を執り包囲。ジロンド派29名の逮捕となる。

ロベスピエールは「憲法擁護者」という新聞を通じ、ブリソ、ラ・ファイエット、ナルボンヌ伯の結託を弾劾。そしてロランが機密費を利用しているという情報を流す。

こうして4月には、マラー、ビロトォの提議に基づいて、「デュムーリエの裏切り」をはじめ、「敵に加担した議員たち」を告訴することに公会は同意した。そこでロベスピエールはブリソを弾劾、続いてヴォルソー、ガデ、ジャンソネ、フィリップ・エガリテ(オルレアン公)、ぺティオンたちを弾劾した経緯である。

そして23日の日記は6月24日に採釈された「1793年の憲法(モンターニュ派憲法)のことで、サン=キュロットのほか、陳情、決議、要望を持ってくる地方の委員5000人への「こどもだまし」だとも言われている。結局実施されなかったからである。

要は「ヴァンデの反乱」が他の地方で発起しないようにということだ。この子供だましの憲法は、ヴァンデ、リヨン、トゥーロンの例外をのぞき、態度と軟化させている。

ロベスピエールの私案とこの93年憲法はいくつかの相違点もあげられている。彼の私案を分断・削除しているが、ロベスピエール自身、6月19日に私案のいくつかの見解を改めている。

たとえば「生存に必要な額を超えざる収入しか有さぬ市民は公租の分担を免るべし」という私案である。

事実として所有権、累進課税、国際的連帯性のロベスピエールの私案は削除されたが、彼は反対しなかった。彼自身も見解を改めている点も含めて、ロベスピエールはこの草案に賛成することによって、モンターニュ派の秩序破壊という非難と独裁といわれる由縁がないように、利用したとも思われる。

なぜなら彼が攻撃し逮捕したジロンド派のジロンド憲法とほとんど変わらないからだ。ロベスピエールは彼自身の理想を侵害するものに対しては「否決することができた。」と自分で述べている。つまり私案を採択されずともいつでも彼の意に反する法令は否決してきたのだ。そうして私案は採択されなかったが、ロベスピエールが議会の権威を強化するために利用できたのだ。

この憲法のあと、ジロンド派逮捕にロベスピエール側で活躍したアンリオは司令官に選挙で選ばれる。

ロベスピエールはこの逮捕を「流血の惨事に至らないことは喜ばしいことだ」と述べたらしいが、王妃の処刑に続いて、ジロンド派もギロチンで処刑。

sai記事 マクシミリアン・ロベスピエール

マラーの死を神格化したのはロベスピエールである。そのマラーの死に関してフランス革命下の一市民の日記 1793年 7月を参考にして。


 
フランス革命下一市民の日記 過去記事一覧

テルール(恐怖)のあと (1794年8月〜12月)
ジャコバン派独裁 恐怖政治編 (1794年1月〜7月)

ロベスピエール編
ロベスピエール編 その1 (1792年12月〜1793年7月)
ロベスピエール編  その2 (1793年8月〜1793年12月)

1793年
フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 4月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 7月
フランス革命家の一市民の日記 1793年10月

1792年
フランス革命下の一市民の日記 1792年の3月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の9月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 10月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 12月

1791年
フランス革命下の一市民の日記 1791年の2月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の9月
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今日、長いです。僕は全くの無知です。だから不思議だなって思ったことを調べて述べているだけです。「革命における最大の人物で、史上もっとも偉大なりし人々の一人」と賞賛しているが、解説は「しかしながら」と続く。こうした賛美は19世紀に多く、彼の業績を讃えたも
| RE+nessance | 2011/01/12 11:25 PM |
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