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本日はロベスピエール編第2弾
ロベスピエール編 その1 (1792年12月〜1793年7月)



おことわり
このセレスタン・ギタールの日記は、ほとんど毎日のように綴られている日記から、僕がトピックし、引用・要約(かなり短く)しているので、フランス革命下の一市民の日記 セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵藍訳 中央公論社 を実際に読んでみてください。



1793年

8月2日 金
午前3時に、マリー・アントワネットはコンシェルジュリーに移された。

記事 コンシエルジュリー 囚人のマリー・アントワネット

8月8日 木
ひどいまずいパンでさえ入手が難しくなった。

8月9日 金
各県から明日の連盟祭のため連盟兵が続々と到着している。バスチーユ攻略の日を記念して7月14日に記念しておこなわれてきたものが、明日8月10日に換わった。

8月10日は去年、民衆がチュイルリー宮殿を襲撃し、王と王妃ならびにその家族が国民議会に難を避けた日である。その保護の2日後、タンプル塔に移され、国王は1793年1月21日に処刑され、王妃は8月2日にコンシェルジュリーに移され、現在も監禁中だ。息子と娘は王妹と共にタンプル塔に幽閉されている。

8月10日 土
シャン・ド・マルスで新憲法の布告を祝う盛大な式典が催された。立派な式典で、人々は身分の差なく一緒に参加した。

8月17日 土
パリ中の教会から集められた絵画と記念像がプチ・ゾーギュスタンの教会と修道院で展示されているのを観にいった。ルーヴルのロング・ギャラリーの絵画室と美術館も8月10日にはじめて公開された。

8月18日 日
美術館を見物に行く。ここにはルーヴルの美術品の半数が収容されている。ギャラリーはもうひとつあって、ここにも多くの絵画や彫刻が収められている。さらに常設の絵画室がある。

8月25日 日
スウェーデン大使館内のルーテル派礼拝堂へ行く。牧師はカトリックと同じように「天にまします」を最後の一句だけ除いて、フランス語で唱える。

ルーテルははじめミサを残したが、のちにこれを廃止した。告解は、信者やその家族の秘密を知る以外には何の役にも立たず、「ローマの法廷」を家庭内にもちこむことだと言って、これを廃止した。

8月28日 水
キュスチーヌ将軍が処刑された。

9月6日 金
昨日、6000人の革命軍と四つの革命裁判所をパリに創設する法令が出された。ルーアンで9人の反革命分子が処刑された。

9月9日 月
昨日から今日にかけて大量の逮捕があった。自由の敵としての嫌疑を受けるか、善良な共和党員とみなされなかったからだ。

9月10日 火
食料難が7月10日に始まり、今日まで続いた。ようやくどのパン屋にもパンが並んだ。それにしてもひどいパンだった。私は二度も下痢をし、無事だったのは一度だけだった。

9月13日 金
カルメル会監獄の警備にあたるよう当番証が届く。今回の当番は牢獄の監視で、警備者全員に40ソルの手当てがつくそうだ。

9月16日 月
納税通知書が届く。増税になっている。

9月22日 日
リュクサンブール区で、マラーとルペルチエの除幕式。

9月27日 金
食料品ならびに他の生活必需品の価格を定め、24時間以内に実施するという法令がだされた。

(過去記事にあらたに加えた日記あり)
10月3日 木
公会で大論争があり、その結果、65名の議員が逮捕された。

10月6日 日
ジャコバン派の男が今日の4時半から一時間半にわたって、サン・シュピルス教会の説教壇で共和主義的な演説を行った。

10月7日 月
サント・ド・ミンゴでは不幸な事件が相次いで起こった。白人は黒人に対して武器をとり、黒人は白人に対して武器をとる。サント・ド・ミンゴの惨事についてすでに新聞が報じている。

10月13日 日
公定価格 パリ中で全商品の公定価格の制定が鳴り物入りで通達された。そして早くも商品がかなり値下がりしている。全商品に価格統制の妙手をうった。この適用を免除される商人はいない。

10月14日 月
マリー・アントワネットが革命裁判に出廷し、第一回の訊問を受ける。15日午前4時、死刑の宣告。16日正午、革命広場で処刑。特別な囚人として、二厘馬車に一人乗せられ、刑場へ運ばれた。監獄をでるときから、髪を切られ、両手を後ろ手に縛られていた。王妃は白い部屋着姿であった。

10月31日 木
法令 誰でも自分の好きな服装をすることができる。何人もこれを妨げることはできない。

革命協会の婦人たちはパリ中の女性に赤い帽子を被らせ、ウールの洋服を強制したがっていた。パリ中央市場の主婦たちはこの提案に反対。すべての婦人クラブの廃止を要請した。民衆的団体の公開会議への出席は、廃止された婦人クラブに所属していた女性たちも、ほかの女性同様参加を許可された。

革命裁判所は代議士22名に死刑の宣告を下した。正午、全員が処刑された。ブリソー、ヴェルニョー、シャンソネ、デュプラ、ヴァラゼ、ル・アルディ、デュコー、ポワイエ、フォンフレード、ボワロー、ガルディヤン、デュシャステル、シュリー、司教フォーシェ、デュペレ、ラフルス、カラ、ボーヴォー、マンヴィエル、アンチブール、ヴィジュ、ラ・カーズ。

彼らの罪状は、共和国の単一・不可分性に対する、かつフランス人民の自由と安全に対する陰謀加担である。

11月6日 水
今夕5時、革命広場で旧オレルアン公が他の囚人とともに処刑された。

11月8日 金
元内務大臣ロランの妻、マリー・ジャンヌ・フィリポン(39歳)は、今夕5時、革命広場で処刑された。

11月10日 日
サン・シュピルスの司祭が司祭任命書を議場で焼くように申し出た。

午後1時から、ノートル・ダムにおいて、自由の女神像の祝典が催された。内陣の大格子囲い正面前に殿堂のようなものを組み立てて、格子囲い全体と礼拝堂二つをおおいかくした。オペラ座の全員が参加して、自由の女神を唱える賛歌を歌った。女神に扮したのは女優である。今後、ここでは政務日課もミサも行われず、代わりにこの祭典を10日ごとの句日節に行うことになるだろう。

11月11日 月
元パリ市長のジャン=シルヴァン・バイイが、シャン・ド・マルスで処刑された。処刑台の下では赤旗が燃やされた。それは1792年7月17日に彼はラ・ファイエットと組み、ここで多くの罪もない市民を虐殺したからである。

11月12日 火
パリでは今日からミサが廃止された。全教会が閉鎖。特筆すべき日。

11月15日 金
パリ全聖堂区において教会の祭具一式を造幣局に持ち去った。司祭達はこぞって司祭任命書を焼却するために提出を行っている。

いくつかの教会は「理性の殿堂」として用いられ、道徳講和、賛歌と音楽演奏が行われるようになる。若者のために新しい道徳書を作成することになるだろう。

今日正午、極悪人マニュエルが処刑された。パリ・コミューヌの代理官だったこの極悪人はペティヨンと組んで、1792年9月2日、パリ監獄において囚人多数、ならびにヴェルサイユにおいてオルレアン監獄の囚人多数を虐殺させたのである。ブリュネ将軍も同時に処刑された。さらに三名が処刑された。

11月20日 水
区で盛大な儀式を挙行。大砲が先頭を進み、鼓手の一団、市民の前衛、若者の一群、白のドレスに三色のベルトの婦人と少女。そのあとを鼓手団、市民、そしてマラーとルペルチエ、ムキウス・スカヴォーラの胸像、女神に扮した女性とそれを担ぐ8人の男達の行列。

12月10日 火
今日、はじめてノートル・ダムの「理性の殿堂」が公開された。国民公会議員、市代表、区代表も参列している。4、5日前、国民公会は信教の自由に関する法令を復活させた。

12月16日 月
昨日から[5ヶ月]ぶりにパン屋の店先にパンが並んでいる。配給カードで指定量のパンが誤魔化しなく配給になる。パン屋ももう誤魔化せない仕組みだ。

12月20日 金
シャリエを称える盛大な市民祭が行われた。シャリエは自由の殉教者の最初の一人で、リヨンにおいて裁かれ、処刑された。

12月30日 月
フランス軍の勝利、とりわけトゥーロン奪回を祝して記念式典が催された。堂々たる大行進で見事だった。(この日はかなりの長文の日記)


僕の注釈


ロベスピエールは7月のマラー暗殺で、公安のためには独裁的な権力が必要であると判断した。「一つの意志が必要なのである。」と彼は書いた。もはや1793年6月2日から恐怖政治はスタートしている。

8月

さて、ギタールったら現在のルーヴル美術館に行ったんだー。

1793年8月10日、「諸芸術の中央美術館」として正式に開館したが、ジャコバン派モンターニュ派の画家ダヴィッドが管理委員会の委員長だ。

歴代フランス国王のコレクションを公開展示した。なんで?

そして8月23日からロベスピエールは国民公会の議長となった。そこで最後には民衆たちから「くたばれ、最高価格法」といわれる経済統制をはじめていく。

9月

sai の記事に、9月5日のサン=キュロットの乱入が記事になっているが、武装したサン=キュロットが議場に乱入し、穀物を退蔵している投機家を捕まえてギロチンにかければパンがもっと出回るだろうと言ったそうな。

sai記事 マクシミリアン・ロベスピエール
国民公会 最高価格法についてのところにある。

このサン=キュロットの要望をギタールの日記で探すと・・・。

9月6日 金
昨日、6000人の革命軍と四つの革命裁判所をパリに創設する法令が出された。ルーアンで9人の反革命分子が処刑された。

9月9日 月
昨日から今日にかけて大量の逮捕があった。自由の敵としての嫌疑を受けるか、善良な共和党員とみなされなかったからだ。

9月10日 火
食料難が7月10日に始まり、今日まで続いた。ようやくどのパン屋にもパンが並んだ。それにしてもひどいパンだった。私は二度も下痢をし、無事だったのは一度だけだった。

どういうわけか、この逮捕とパンが店頭に並んだことが、投機家の逮捕を連想しちゃうけど・・・。しかも6日のルーアンは、穀物の輸出でも有名なところだ・・・。うーん、どうなんだろう。

9月6日、フーキエの名を残すことになる革命裁判所の設置。この1793年9月から公安委員会(大公安委員会)のメンバー12名(11名)の独裁政治がはじまる。ロベスピエール、サン=ジュスト、ジョルジュ・クートン、ロベール・ランデ、ベルトラン・バレール、コローとビョー。

記事 フランス革命 革命裁判所 検察官 フーキエ=タンヴィル

この9月にエベール派による「反革命容疑者法」も制定された。

今度は逮捕された反革命派の土地財産をサン=キュロットに無償で分配するという。彼らの利益のために、大規模な財産没収がはじまる。

だが無償という分配はあったのだろうか?これはサン=キュロットへの買収行為?

9月13日は「逃亡貴族財産の売却を促進し、かつ、貧困な世帯主及び祖国の防衛者がそれを獲得する手段を容易ならしめるための諸制度」を講じている。

これにより、貧民に有利な売却方法を取るのだが、いずれにしても限られたもので、効果はほとんど無に等しいとされている。

実際の貧農に無償で分配はされていない。ギタールの日記ではこの件に関しては書かれておらず、パン、納税額、マラーとペルチエ、価格統制がロベスピエールに関係するものだ。

で、10月

記事 フランス革命家の一市民の日記 1793年10月

10月3日の逮捕者は、6月2日に逮捕されたジロンド派とその決議に抗議する請願書に署名した代議士達の逮捕だ。

P・ガクソットは「6ヶ月拷問を受け、フォルス監獄に収容されて息も絶え絶えであった。」とこの逮捕された代議士達の監獄生活を述べている。彼らは10月24日に告訴され31日処刑。

ここで、一時逃れた代議士に、ペティヨン、ビュゾー、ロラン(マノン・ロランの夫)がいる。

ちなみにマリー・アントワネットの裁判開始の決定を下した日である。裁判は14日、15日になる。

11月

11月のジロンド派処刑である。逮捕は1973年6月である。

記事 フランス革命下一市民の日記 ロベスピエール編 その1をご参照あれ。

11月10日の祭典は、ジャック・ルネ・エベールによるものだ。ロベスピエールはこれを非キリスト教化論者として非難したが、それから7ヶ月後に論理と趣旨を替え、「最高存在の祭典」を大々的に催した。

11月15日、マニュエルの処刑である。ギタールは彼らの罪状を日記で、「1792年9月2日、パリ監獄において囚人多数、ならびにヴェルサイユにおいてオルレアン監獄の囚人多数を虐殺させたのである。」と書いている。

コミューンの検事長ピエール・ルイーズ・マニュエル(Pierre Louis Manuel)は、ジェローム・ペティヨン・ド・ヴィユヌーヴの右腕だった。1792年6月20日のチュイルリー宮侵入事件も二人の扇動によるものだと言われている。ただしマノン・ロランがシナリオをつくったらしい。

記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の6月

1792年の8月10日のチュイルリー宮殿襲撃から、この9月虐殺までを「最初の恐怖政治」と名づけて、これからはじまる「恐怖政治」と区別している。この日の午後、ロベスピエールはコミューンのメンバーに選ばれた。

8月10日のチュイルリー宮殿襲撃事件で、ロベスピエール、ダントン、マラーは参加していない。ロベスピエールはこの日の襲撃を「彼らこそ真の英雄だ」と認めている。

記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の8月

8月9日、彼はクートンに「人々の沸騰はその頂点に達しており、あらゆる徴候から推して、まさに今夜パリで大動乱が起こらんとするおののごとくである。」と宛てている。

ロベスピエールは、この大動乱でラ・ファイエットを逮捕できることを期待していた。

1792年のコミューンの一人に選ばれたロベスピエールだが、マルク・ブゥロワゾォは、「コミューヌの施策のすべてが彼の発案に出たものではないとしても、少なくともそれらはロベスピエールの充分な同意を経たものである。」としている。

ロベスピエールは蜂起の渦中で生まれたコミューヌと固く結びつき、8月10日の革命は、組織された民衆の蜂起の威力をロベスピエールが認識することになった。このときのコミューヌ総代は、ショーメットだった。

コミューヌに代表されるものは何か。民衆である。

1792年の9月虐殺はマラーが呼びかけている。ダントンは演説を行っている。ロベスピエールは盟友マラーの9月虐殺に関しては触れることなく、このマニュエル処刑の5日後に儀式を行っている。

つまりこの時点では、ダントンの演説も極悪人の一人として追求していない。そしてロベスピエールはこのとき選挙会にいたという。

だが、ロベスピエールはこの虐殺を止めはしなかった。

マラー
「一番確実であり一番賢明な最後の手段は、武装してアベイに行き、スイス将兵と共犯者どもを刃にかけることだ。」

ダントン
「全てが興奮し、全てが動顚し、全てが掴みかからんこのとき。やがて打ち鳴らされる鐘は警戒の知らせではない。それは祖国の敵への攻撃なのだ。敵に打ち勝つためには、大胆さ、いっそうの大胆さ、常に大胆さが必要なのだ。そうすればフランスは必ず救われるだろう。」

記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の9月

ジロンド派の粛清によるものだからだ。ジェローム・ペティヨン・ド・ヴィルヌーヴは、ジロンド派でパリ市長でもあった。

ギタールの日記、また9月の記事リンクで紹介した弁護士マトンの手記にあるように、扇動した者の罪はない。その闘争に参加し先導したこの二人の罪としている。

それはロベスピエール自身の保身でもあるわけだ。だからこそ、マラー、ダントン、ロベスピエールは、8月10日事件、9月虐殺の闘争自体には参加はしないのである。

記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の8月

コミューヌはこの虐殺を正当化している。

「我々の中に隠れている多数の裏切り者を恐怖によって制止するために不可欠と思われるこれらの正義の行為を真似る。」と虐殺の正当化する通達を全国83の県当局に送った。

さて、このマニュエルの逮捕は1793年2月である。1792年12月にジャコバン派を除名になっている。マニュエルは国王一家が幽閉されたタンプル塔の委員の一人だった。

その正当化された虐殺が、ここでは汚点の材料となった。ペティヨンはまだ逃走中?

ギタールの日記には書かれていないが、「女性および女性市民の権利宣言」のオランプ・ドゥ・グージュは11月3日に処刑されている。

ジャン=シルヴァン・バイイの処刑
天文学者のバイイはフランス科学アカデミーの会員であり、ご存知のように1789年7月15日にパリ・コミューンの最初のパリ市長である。

記事 フランス革命下の一市民の日記 1791年の7月

1791年
7月15日、ジャコバン・クラブでルイ16世廃位の請願運動が決定
7月17日、シャン・ド・マルス練兵場にて主権者たる大衆に署名してもらう算段

wikiに、「5万人の大群衆に対して、解散を命じた国民衛兵隊が発砲した事件で、市長バイイと国民衛兵隊司令官ラファイエットは事前に、計画の報告を受けており、対策を準備していた。」

ロベスピエールがバイイとラ・ファイエットを逮捕することは、軍隊指導者と行政機関との共謀がもたらす危険を指摘し、軍隊における専制支配を攻撃していたからであり、それは彼自身を「議会においてもっとも警戒を怠らぬ強い愛国者」を自任することになるからだ。

さて当のロベスピエールは、シャン・ド・マルスの示威運動に参加しないことをダントンやマラーに説いた。そして彼らは参加しなかった。

だが、もうひとつの話がある。

シャン・ド・マルスでは13人から15人の死者だったらしいが、大量虐殺と噂が流れた。ロベスピエールらはジャコバン・クラブにいた。その噂を聞いて動揺した彼をモーリス・デュプレが匿ったという。それがデュプレ一家との深いかかわりになっていく。

さてバイイとラ・ファイエットの「軍隊指導者と行政機関との共謀」を演じさせた形をとり、フィヤン派の弾劾の理由にした。

ラファイエットが軍事独裁をもくろんでいることを繰り返し告発している。

ロベスピエールは、自分の案を採択されぬことを良しとし、意にそわない案に対して否決を徹底的に行った。彼自身が「独裁者」と呼ばれぬよう、否決によって自分の理想とする諸原理を侵害しない道を発見していたからなのだ。

バイイは1791年11月16日に解任され、(ジェローム・ペティヨン・ド・ヴィルヌーヴが新市長)、ナントに隠遁していた。だが1793年7月頃に逮捕された。ちなみに11月11日となっているが、一般的なテキストには11月12日が処刑日になっている。

ラファイエットは司令官を解任後、翌年の対プロセインとオーストリアの戦争で司令官に復帰した。そしてそのまま亡命し、オーストリア政府は彼を戦争捕虜として投獄していた。ナポレオンが政権を握った1799年に帰国している。

このシャン・ド・マルスを虐殺とまでしたのは誰だったのだろう。

ジャン=マリー・ロランは隠遁先で妻の処刑を聞いて自殺。マノン・ロランは夫を大臣にしたほどの女性である。あのデュムーリエに指名させた。このときマノン・ロランはロベスピエールと連携をしようと決心したらしい。

ところが、マノン・ロランとロベスピエールの会見の翌日、ロベスピエールはロラン夫人らの陰謀を演説したのである。

ラベイ監獄に何週間かを過ごしたあと、ロラン夫人は6月25日にサント=ペラジー監獄へ移る。マノン・ロランは夫がうまく逃走したことに胸をなでおろした。だが、「私が処刑をされたら、きっとあの人は命を絶つことでしょう。」と言ったという。

有罪判決が下された日、長い黒髪に真っ白な衣装で見送る囚人たちに、ちょっとしたしぐさで、首を撥ねられるのを伝えた。ジャン=マリー・ロランは木にナイフをくくり、その木を抱きしめるように果てたという。

ブリソー・ド・ヴァルヴィルはジャック・ピエール・ブリッソーのこと。黒人問題に関心を示したジャーナリスト。革命期のオルレアン派の一人。1791年からジロンド派の首脳の一人となり、ダントンやロベスピエールと対立した。逮捕時には一時身をかくしていたが、ムーランで逮捕される。

ペティヨンとビュゾー。これはまた後に。

12月

ローマ・カトリックの迫害かな。ようするに宣誓拒否司祭の迫害。マリー・アントワネットがエリザベート王女にあてた遺書にも、王妃はローマ・カトリック、宣誓司祭、宣誓拒否司祭に触れている。

記事 エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランス 「マリー・テレーズの回想」から

ルイ16世を悩ませ、ヴァレンヌの逃亡を決意させたのも、この聖職者の民事基本法によるものだ。

記事 クレリーの日記 1 ルイ16世の遺書
記事 クレリーの日記 2 タンプル塔の無能な王

この聖職者の民事基本法から、非キリスト教化運動がおきる。

過激派のエベールの11月10日の祭典、ギタールの日記にある「パリ全聖堂区において教会の祭具一式を造幣局に持ち去った」ことの延長が12月の日記にもある。

ロベスピエールはこれを非難する。だがロベスピエールも同じ祭典を行うこととなる。

sai記事 マクシミリアン・ロベスピエール

大事なことを書くのを忘れていた。マラーとルペルチエのことだ。

記事 フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月

マラーの神格化は必要である。恐怖と徳のために。ルぺルチエ・ド・サン・ファルジョーは、義務教育を提唱していた人で有名。1月の記事にも書いたがルイ16世の死刑賛成に投票したことで殺害されてしまった。

このル・ぺルティエをロベスピエールはなんとしても英雄化しなければならなった。

ロベスピエールは1793年の憲法に教育を受ける権利を主張した。ル・ぺルティエの立案した計画を全面的に採用したものだ。

実はこれぞまことの「貧しき者の革命」と信じていたロベスピエール。彼らがまじめな民主主義者であり、ルソー主義者であることが、この教育から生まれてくると。

ロベスピエールは社会問題、秩序はこの啓蒙の力で解決できると考えた。しかしながら、彼が代表とする貧しきもの、サン=キュロットらが何に解決できるか、何に恩義を受けているかというと、「パン」である。

「パン」を「いやしい商品」としたロベスピエールから、民衆が離れていくのもわかる。

よく理想主義とロベスピエールを評価するけど、これって、KYでしょうが。空気読めない男じゃないだろうか。

というより「才能」がない。

時期を見よ、僕はそう思う。準備は怠らずして。それをね、暴動、掠奪の防止=義務教育とは、飛躍過ぎ。

恐怖政治が落ち着いてからじゃないとこうした教育は広まらないだろう。

あまりにも自分の政策を美しくするための素材集めとしか思えない。物質的な利益を得ることが、彼らであり、物質的な利益を得ないことが、ロベスピエールの信条だった。清廉の士だったけ?

もともとコンドルセを初めとし、タレーラン、ミラボーらの哲学者たちが、教育のあり方について提言していたが、この恐怖政治に何が啓蒙だろう。総動員、30万人動員法という徴兵を撤廃してからだ。

5歳から12歳の義務教育のあとにその徴兵が待っている。

しかも共和国の費用をもって、衣服、給食など同一とする。必要な経費は財力によって分担される。

だから、恐怖政治終わんないとできないだろう。

金のあるものをギロチンにかけて財産没収で教育費に回すというのか。その費用を負担できる市民がいるのだろうか。毎月の寄付。そしてこの費用。

ロベスピエールが代表するサン=キュロットの誰も義務教育が社会問題を解決するとは思っていない。サン=キュロットの要求する「パン」と「ギロチン」をロベスピエールは受け入れているのだからね。

ロベスピエールが処刑されたあと、恐怖政治が終わった1794年から教育は整備されはじめた。労働者階級と学識者階級に分離されたもの。

だが ルペルチエの義務教育の思想は19世紀にジュール・フェリーに受け継がれた。100年後にそのルペルチエの精神は実現されたわけだ。


 
フランス革命下一市民の日記 過去記事一覧

テルール(恐怖)のあと (1794年8月〜12月)
ジャコバン派独裁 恐怖政治編 (1794年1月〜7月)

ロベスピエール編
ロベスピエール編 その1 (1792年12月〜1793年7月)
ロベスピエール編  その2 (1793年8月〜1793年12月)

1793年
フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 4月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 7月
フランス革命家の一市民の日記 1793年10月

1792年
フランス革命下の一市民の日記 1792年の3月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の4月
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フランス革命下の一市民の日記 1792年 12月

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