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本日は1794年 1月〜7月まで。


おことわり
このセレスタン・ギタールの日記は、ほとんど毎日のように綴られている日記から、僕がトピックし、引用・要約(かなり短く)しているので、フランス革命下の一市民の日記 セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵藍訳 中央公論社 を実際に読んでみてください。

また今回の注釈は「フランス革命下一市民の日記」とはまったく関係ありません。


1月〜3月


1月21日 火
国王ルイ・カペーが死んでから1年。革命広場でお祭りがあった。サン・ドニ通りの商人カトルメール(42歳)が他の6名とともに革命広場で処刑された。

2月18日 火
2月4日公布の黒人奴隷制廃止を記念して、ノートル・ダム、すなわち「理性の殿堂」において盛大な式典が行われた。

2月20日 木
硝石採集のため地下倉が掘り返される。

2月22日 土
ポワシー市場が閉鎖された。病人、不具者、妊婦以外、肉は買えない。

3月10日 月
度量衡の講習のため植物園に行く。10日前は硝石と火薬の製造法の講習があった。

3月14日 金
大陰謀発覚。ヴァンサン、モモロ、ロンサン、そしてパリ・コミューヌの検事代理で「ペール・デュシェーヌ」のエベールだ。

3月18日 火
7人が一度にギロチンにかけられた。2人が女、5人が男である。

3月20日 木
国民公会へ硝石献納の行進を行った。

3月24日 月
17から19日に逮捕、21日から裁判がはじまり、朝死刑宣告があり、今日処刑である。見物には30万人以上が集まった。デュシェーヌおやじがギロチンにかけられたときは、広場の群集が一斉に「共和国万歳」と叫んだ。熱狂して帽子をほうり投げるものもいた。

ラブローという医学生だけが処刑を免れた。クティノー将軍の妻カトリーヌは妊娠4ヶ月で出産まで延期。

全員の処刑リスト
ジャック・ルネ・エベール、E・P・ロンサン、A・F・モモロ、M・ヴァンサン、S・F・P・デュクロケ、J・C・ルコック、M・ロミュール、J・C・ブルジョワ、J・B・マジュエル、J・B・ラブロー(処刑取り消し)、J・B・アンカール、A・M・ルクレール、P・J・プロリー、F・デシュー、アナカルシス・クローツ、ペレラ、カトリーヌ・ラ・トレイユ(処刑延期)、J・A・フロラン・アルマン、A・デコンブル、P・ユルリク=デュビュイソン。



僕の注釈 

1月 この商人誰?

2月 2月18日の「理性の殿堂」はエベール派のものと思われる。

硝石は火薬をつくるために採取された。イギリスとの戦争で輸入が困難になり、職業的権利をもつ硝石採取人だけが採取できる。

3月 非キリスト教化運動を推進したエベール派。
この「理性の殿堂」は、1793年の11月10日からはじまった。ロベスピエールはこれを非難していたが、1793年にはエベールを攻撃していない。

なぜなら「パリへの食料供給は次第に困難を増大し、経済統制を維持するためには買占め人などに対する再強化が必要だったから」だとマルク・ブゥロワゾォは述べている。

つまり、ロベスピエールはエベール派の力を利用するために残しておいた。そしてダントンの力も借りるために、この年はクローツとファーブル・デグランチーヌへの弾劾に止め、ダントンについては「覚書」をつくっておいた。

そしてその1793年にはエベール派と並ぶ過激派を弾劾した。ジャック・ルゥ(ジャック・ルー)である。数々の商店掠奪事件を引き起こした扇動者。運搬の掠奪にはロベスピエールは一時黙認した。だがロベスピエールはあるとき彼を弾劾し昨年8月に逮捕。そしてこの2月に獄中死した。

1794年2月、バレールはロベスピエールの公約とも言える「最高価格法」を提案し、サン=ジュストは、まともに売却できない「ヴァントーズ法」を可決せしめた。

この時点でコルドリエ・クラブとエベールが扇動するサン=キュロットの蜂起は無用になり、公安委員会は彼らを斬ることを決定した。

ロベスピエールは民衆に向かって「自分の地区に赴き、金で買われた弁士どもの声を封じよう」と要請した。

ロベスピエールは後に処刑されるのだが、「革命の良心を失った」と指摘するものがある。僕はこれには疑問である。

良心があればそれを即弾劾すべきである。あまりにも人の力を玩んでいる。だからこそ、人の力を利用するまで先延ばししたために、最後はその力に自滅したのだ。

こうしてエベールの処刑はロベスピエールの没落の第一歩となった。

ロベスピエールが支持を得ていたと錯覚していた民衆も、代表のサン=キュロットも、実はエベール派を支持していたからで、彼らを失って混乱し、ロベスピエールの社会的基盤が喪失したからだ。

「最高価格法」、「ヴァントーズ法」はあらかじめ、民衆とその代表でもあるサン=キュロットたちをつなぎとめておく法令であり、熱狂的な歓迎を受けたものの、どちらも役に立たなかった。

エベールの処刑の日に免除になったという J・B・ラブロー。彼はロベスピエールの密偵である。


4月


4月5日
今日、有名な謀反人15名の処刑が行われた。処刑者たちの通過を見た人の話では、荷馬車の上で陽気そうに言葉をかわしていたそうである。

P・F・ファーブル・デグランチーヌ、J・ドローネー、F・シャボー、カミーユ・デムーラン、F・ラ・クロワ(たぶん、ジャン=フランソワ・ドラクロワのことかと)、P・フィリポー、C・バジール、M・J・エロー=セシェル、G・I・ダントン、M・R・サユゲ・デスパニャック、ジーギスムント・ユーニウス・フライ(兄)、F・フライ(弟)、A・M・ギュスマン、C・F・ディーデリクセン、I・F・ヴェステルマン。

以上の者達は、オレルアン公、デュムーリエ、その他の共和国の敵と共謀のうえ、王政の復古と国民公会、政府の転覆を企んだ廉で有罪であり死刑が宣告された。

余談
もうね、毎日何十人の処刑の日記になってきた。僕さ、吐きそう。

4月13日
最初に処刑されたのはエベール未亡人。二人目がカミーユ・デムーラン未亡人である。2人は荷馬車をおりるとき、もう一人の仲間と抱き合った。

最後の処刑はショーメット。終わりから二番目がパリ司教でこの2人が最も罪が重い。

P・ガスパール・ショーメット 通称アナクサゴラス。父親は靴屋だった。パリ・コミューヌ検察官。陰謀の主犯。神は存在せずと言ったのはこの男である。聖職者までこれにならって宗教はペテンにすぎないと言ったので、大衆は「教会」を捨ててしまった。神はその憎むべき陰謀を暴かれた。陰謀家の最後はいつでもこうである。

J・B・J・ゴベル この男もやはり神と魂の存在を否定し、自分はこれまで人民を欺いたいかさま師だと言った。この男が第二の首謀者である。

この日は18名が極悪人エベール、クローツらと共謀して国を内乱の危機に陥れ、フランス人民の自由と安全を脅かそうとした。内乱に乗じて、公会を解散し、共和政府を倒し、人民の主権を奪い、カペー家の息子を即位させる計画をたてた。

余談
処刑リストは25名、うち処刑の免除になったのは7名。処刑執行は18名だ。他の処刑者の名前は省略する。ただリュクサンブール監獄のランベール、コメディー・フランセーズのグラモン親子がいる。

4月18日
処刑リスト省略します。19名処刑。宮廷の使用人、宮廷ご用達商人のほか、中傷した廉の市民など。

4月20日
処刑リスト省略します。31名処刑。旧貴族、法務貴族など。

4月21日
処刑リスト省略します。7名処刑。

4月22日
今日は著名人13名が処刑された。デュヴァル・デプレメニル、トゥーレ、ギー・ル・シャプリエ、エル(ローマ皇帝騎士)、マルゼルブ(元国務大臣、御用金裁判所長官)、ル・ペルチエ一族、コドキエヴィッツ(通称ルボロミスキー公爵夫人)、シャトレ元公爵夫人、ショワズール(グラモン元公爵夫人)、ブシェ・ド・ロシュシュアール、パルマンティエ。

4月23日
私は代議士クートンを訪ね、セリエ夫人はビヨー・ヴァレンヌを訪ね、クロッソン氏の件に関して法を犯していないかを確認し、その心配はないという返事をもらい、クロッソン氏に手紙を書く。

今日は8名が処刑された。(処刑リスト省略します。)

4月28日
今日の午後、35名の処刑が行われた。うち33名は著名な貴族(7名が女性)。残る2人は織工と靴屋。(処刑リストは省略します。)



僕の注釈 

なんだかなぁ。デムーラン、ダントン、ル・シャプリエ法をつくったル・シャプリエも処刑。

なんかなぁ、処刑される必要あるの?という人までいるから、注釈は控えたいくらいだ。特に処刑リストを省略した人に多い。このうち17歳の少女2名は禁固刑に変わった。

ご存知のとおり「もはや気取りはたくさんだ。ブルータスになれ!必要ならネロともなれ!」と書いていた新聞記者はカミーユ・デムーラン。

ネッケルが罷免された1789年7月11日。オルレアン公のパレ・ロワイヤルには一日中一万人の群集がいる。

ここにはカフェがあり、画廊があり、書店もあり、娼婦の館もある。

オルレアン公はここを警官の立ち入り禁止区にしていいたため、カフェでは新聞や雑誌を読み、叫び、談義し、演説したりしている。

この7月11日の翌日、デムーランもここにいた。ネッケルの罷免は12日の午前中にパレ・ロワイヤルに届いた。この日は日曜日なので二万の群集がここにいた。

このときデムーランはカフェ・ドゥ・フワのテーブルに飛び乗り「ネッケルの罷免こそは愛国者の大虐殺の開始をつげる合図だ。今夜にもスイス人とドイツ人の全部隊は我々を殺すためにシャン・ドゥ・マルスから出勤するだろう。我々に残された途はただひとつ。民衆よ、武器を取れ!」

さて民衆はそろった。武器と火薬は?廃兵院には銃が、バスチーユには火薬がある。

7月14日のバスティーユ襲撃はこうしておこったのだ。

革命の文士となった彼は、自分の書くものがどういう結果をもたらすかを知ったのは「ブリソタンたちの歴史」だろう。ジロンド派を処刑に導くことになってしまった。

彼にとてって公安委員会の独裁が彼の考えるものとは性質が異なった。

1793年11月、ロベスピエールは、デムーランの新聞「ヴィユ・コルドリエ」の最近号を破棄さえしすれば許すことができただろう。彼の新聞ではエベール派の過激分子を厳しく攻撃をしているが、よりによって革命政府そのものを攻撃するに至っていたからだ。

だがデムーランは「旧コルドリエ・クラブ」を創設し、監獄の開放を要求し、革命派の専制を非難し、穏健を提唱したのである。

ロベスピエールが革命政府を非難されることよりも、「専制」を非難されたことを恐れてしまった。「独裁」という言葉が大衆に広まれば、ロベスピエールの主張「平等と自由」は成立しないからである。

一方ジョルジュ・ダントンは。

モンテスキューやディドロの著作を愛読するダントン。ロベスピエールの対極に位置する書物である。フランス革命の思想の二つの流れはルソーとディドロに代表されるよう、ルソーの思想をもつロベスピエールとは相容れないものなのかもしれない。

百科全書派を紛糾したロベスピエールはルソーただ一人を擁護した。

ダントンは1792年、民衆を扇動して王宮を襲撃させた後(8月10日事件)後、彼は司法大臣として起用になる。

「ダントン、君は今日から大臣だ。」まだ眠
っていたところをデムーランはダントンをたたき起こし喜びを分かち合った。

1793年1月、国王裁判ではロベスピエールの演説とともにダントンも「我々は国王の裁判など望んでいない。我々は国王を処刑しなければならないのだ。」と演説する。

だが、ダントン自身の汚職疑惑と友人の将軍シャルル・フランソワ・デュムーリエがオーストリアへ寝返ったことによって窮地に陥り、大臣を辞任した。

デュムーリエの裏切りはマリー・アントワネットが寵愛したフェルセンと男爵の陰謀でもある。

この「デュムーリエの裏切り」は、オルレアン公をもっとも窮地に貶めた。オルレアン公の息子、のちのルイ・フィリップを共にしたオーストリア亡命だったからだ。

そしてこの「デュムーリエの裏切り」は、ダントン、ラファイエット、ジロンド派をも窮地に貶める。デュムーリエはジロンド派の外務大臣だった。1793年4月のことである。

この一件でオルレアン公の処刑は決定したわけだ。そしてダントンは汚職疑惑で辞任する。翌年、ロベスピエールはこの汚職事件でダントン派を弾劾するわけだが、まだダントンの力を欲していた彼は、「覚書」に残すだけになる。

この汚職事件とはインド会社事件とよばれ、国民公会のアマールが発見した。これはダントンの賄賂事件だけではない。外国人との結託が暴かれた。だが、この外国人との結託は、ひとつは和平のためだったとしている解説もある。和平交渉の結果だという。

こうしてダントンは寛容派としてデムーランらと恐怖政治の廃止や反革命容疑者の釈放を呼びかけた。

ロベスピエールは世論を恐れて、1793年10月3日に「国民公会は有罪者の数を増やそうとしてはならない。名も無き下郎を100人罰するよりも首謀者を一人処刑することが自由のために有益だからである。」と述べた。従ってジロンド派の請願書に署名した73人の議員の告発と、王妹のマダム・エリザベートの裁判を取り下げようと試みたという。

僕は、もっとも世論を利用した発言だと思う。マダム・エリザベートの裁判は、民衆たちは望んでいなかったからだ。

この試みが採択されようがされなかろうが、ロベスピエールが「故意でないもの、取るに足りないものを断頭台から救う」という事実をつくることが必要だったのだとも考えられる。

1793年6月には、ロベスピエールはこの寛容派の力を借り、ジロンド派の粛清、1794年3月にはエベール派を粛清した。

そうしてついに、悪意の噂が流布されることを恐れていたロベスピエールは、寛容派の陣営を強化したことに危惧を感じはじめた。

寛容派の恐怖政治の廃止や反革命容疑者の釈放の呼びかけである。まずファーブル・デグランチーヌを腐敗議員として告発。そしてダントンを弾劾するための「覚書」をサン=ジュストに手渡した。

なぜ、自分で弾劾しなかったのか。悪意の噂が流布されることを恐れていたからなのである。サン=ジュストが告発したダントンらは、結局のところロベスピエールの弾劾であると認めざる得ないことなのだが。

ダントンにすれば思いがけないことだったのかもしれない。自分は責任を取って大臣職を辞任した。いまは隠遁していると。

ロベスピエールの粛清は正しいものだったのか。革命の良心だったのか。僕は疑問である。

誰もがロベスピエールの粛清を革命の良心とは思っていなかったと考えれば、そうした悪い噂の流布を恐れて粛清したことを知っていたとしたならば。腐敗した議員たちは、彼らの犯した罪と少しも違いがないと感じていたのではないか。正当化という罪である。


5月


処刑者リスト、罪状、日記の内容はあらかじめ省略します。

1日 木 14名処刑 2日 金 19名処刑 うち5名放免 14名が処刑
5日 月 13名処刑 6日 火 24名処刑 7日 水 10名処刑
8日 木 28名処刑 アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエ

5月10日 土
エリザベート・カペー 30歳、ルイ・カペーの妹、以下24名省略。

11日 日 7名が処刑された 12日  月 8名が処刑された 13日 火 7名が処刑された
14日 水 9名が処刑された 15日 木 8名が処刑された 16日 金 9名が処刑された
17日 土 11名が処刑された 18日 日 11名が処刑された 20日 火 16名が処刑された
21日 水 8名が処刑された 22日 木 12名が処刑された(13名の処刑者リストなのでたんに間違いが1人放免か)

5月23日 金 
コロー・デルボワが帰宅したところピストルが二発発射された。幸い二発ともそれた。ロベスピエールの暗殺だった。幸運にもこの男は逮捕された。今日は23名が処刑された。

24日 土 6名が処刑された  25日 日 9名が処刑された 26日 月 2名が処刑された
27日 火  23名が処刑された 28日 水 14名が処刑された

5月31日 土
13名が処刑された、さらに13名が処刑された。



4月の注釈で「1793年10月3日に「国民公会は有罪者の数を増やそうとしてはならない。名も無き下郎を100人罰するよりも首謀者を一人処刑することが自由のために有益だからである。」と述べた。従ってジロンド派の請願書に署名した73人の議員の告発と、王妹のマダム・エリザベートの裁判を取り下げようと試みたという。僕は、もっとも世論を利用した発言だと思う。マダム・エリザベートの裁判は、民衆たちは望んでいなかったからだ。」

としたが、4月の処刑より5月は処刑の数が増えている。もっともマダム・エリザベートも処刑されてしまった

粛清は徹底して行うロベスピエールだが、救済のほうはどうだろうか。

僕が一番気になるのは、ロベスピエールの残した記述には「陰謀」という言葉が頻繁にでてくる。「陰謀があるのではないか」という疑心暗鬼が絶えずロベスピエールをつきまとう。

さて、エリザベート王女の記事
エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランス 「マリー・テレーズの回想」から

上記記事から引用

引用〇毀吋札譽好織鵝Εタールの日記には、エリザベート王女を含む25名の処刑の罪状が書かれています。(この日の美談がありますが、あれはもっと以前に処刑をまぬがれた人のことで、無関係だと思われます。)

この美談というのが、妊婦を助けたというものだ。この月は残念ながら妊婦の放免はない。ギタールは処刑者リストと放免された者の名を必ず記入している。

エリザベート王女はまさしくそういう慈愛のある人柄であるゆえ、まことしやかな美談があとになって付け加えられたと思う。

引用◆嵳罪にしたくても口実すら見つからない」というのではなく、ギタールの日記にあるように「陰謀により諸外国の同盟暴君どもとの戦争、また国内における内乱を引き起こせんとす挑発行為が行われた。」

ロベスピエールはこの口実で何人もの人々の処刑に署名している。同じ罪がはっきりと残っている。エリザベート王女一人を救済することは、すでに同じ理由で処刑された無名の人々が処刑される必要がなかったことになる。

これはやはりロベスピエールの世論への恐れが救済を口にさせたと思う。

本書の注釈

5月8日のアントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエ(ポール=アントワーヌ・ラヴォアジエ)の処刑。

近代科学の創始者で、科学アカデミーの会員であり、当時の仲間にマルゼルブ、ダランベール、ビュフォンらがいた。(略)国民公会がアカデミー廃止を迫ったとき「我々はフランス人民代表にむかって、学問や芸術が国にとって有用であるか否か問うような屈辱的な質問はしたくありません。」

アカデミーは1973年8月8日の法令によって廃止させられる。ラヴォアジエが処刑されたのは、怨唆の的である総括微税請負人協会に所属していたからである。そして煙草不正行為に関する告発は不当なものであった。

ロベスピエールが処刑されたあと、フランス学士院が成立、諸アカデミーも再建された。

ロベスピエールは1793年の憲法に教育を受ける権利を主張した。ル・ぺルティエの立案した計画を全面的に採用したものだ。だが彼はアカデミーに関してはその廃止を認めている。義務教育は貧しきものであり、アカデミーは名士のものだからである。

ロベスピエールは無実のものが犠牲になるかもしれない。愛国者を巻き添えにしないよう、告発に際しては最も慎重に意を用いなければならない。

だが、周知の犯罪事実の故に告発されたものは証拠がなくとも罪を免れることはできないと言う。ラヴォアジエの場合も総括微税請負人協会に所属していた理由で、周知の犯罪事実なのだ。

それで彼は革命裁判所の必要性を説いた。そして「裁判所の遅滞は罰せざる」に等しいと、世論の「裁判に手間取っている革命裁判所は高等法院にも劣らない」という失望の回復を図るため、ロベスピエールの側近クートンの「プレリアール22日法」を採択した。

1794年、6月10日の法令である。証拠がなくとも処刑できるというものだ。


6月


処刑者リスト、罪状、日記の内容はあらかじめ省略します。(処刑者リストはギタール自身も省略しているものあり)

6月7日 土
6月8日にシャン・ド・マルスで大祭典が挙行された。広場に岩山が造られ、人々は「永遠(神)」に対して敬意を表した。40万以上の人が集まった。実に見事な祭典であった。

6月15日 日
今日は18名が処刑された。

6月17日 火
今日は61名が処刑された。
唆されててロベスピエールを殺害しようとしたアドミラルとセシル・ルノーも処刑された。

6月20日 金 今日は38名が処刑された。 6月21日 土 今日は25名が処刑された。
6月22日 日 今日は15名が処刑された。  6月23日 月 今日は19名が処刑された。
6月24日 火 今日は25名が処刑された。 6月25日 水 今日は45名が処刑された。
6月26日 木 今日は47名が処刑された。  6月27日 今日は31名が処刑された。
6月29日 日 今日は21名が処刑された。 6月30日 月 今日は25名が処刑された。



記載漏れがなければ12日間で、計算違いがなければ370名が処刑された。5月は25日間で323名である。

ギタールは珍しく法令について触れていない。「プレリアール22日法」のことを。

6月の前半は、ロベスピエールが考えた「最高存在の祭典」の準備と開催とそのあとの民衆の見物で処刑が行われなかった。

「法令」や「最高存在の祭典」については、sai の記事から読んでほしい。
記事  マクシミリアン・ロベスピエール

ちなみに僕は、この「最高存在の祭典」を、ただ単にエベール派の「理性の殿堂」を苦々しく思い、それをロベスピエールの思想に転換したとだけ思っていた。

たとえば、秩序、公の教育、共和国の原則である。

だが、もしかしたら「革命」はすでに終了したという理想社会を提示することが目的だったかも。

申し訳ないけど、ロベスピエールの失脚の月に急ぎたい。


 7月


処刑者リスト、罪状、日記の内容はあらかじめ省略します。

7月1日 火 今日は14名が処刑された。 7月2日 水 今日は31名が処刑された。
7月3日 木 今日は19名が処刑された。 7月4日 金 今日は27名が処刑された。
7月5日 土 今日は24名が処刑された。 7月6日 日 今日8名の処刑の他22名の処刑。
7月7日 月 今日69名の処刑があった。 

7月9日 水
貴族領や小修道院の土地売却のために委員が当地に来ている。今日は60名が処刑された。

7月10日 木 今日は45名が処刑された。 7月11日 金 今日は6名が処刑された。
7月12日 土 今日は28名が処刑された。 7月13日 日 今日は37名が処刑された。

7月14日 月
今日はバスティーユ占拠から5年目である。チュイルリー庭園で祭典が挙行された。

7月15日 火
サン・シュルピ広場で友愛夜食会が催された。どの通りでもダンス・パーティが開かれた。この会食は7月17日に国民公会は全面禁止とした。

7月17日 水
今日は40名が処刑された。うちカルメラ会修道女が16名。

7月19日 土
今日は29名が処刑された。80歳と81歳の老人がいる。

7月20日 日 今日は14名が処刑された。 7月21日 月 今日は28名が処刑された。
7月22日 火 今日は46名が処刑された。 7月23日 水 今日は55名が処刑された。
7月24日 木 今日は36名が処刑された。 7月25日 金 今日は38名が処刑された。

7月26日 土
今日は53名が処刑された。
貴族多数、そのなかには公妃が2人いる。

余談
ここまでで、21日間で約730名(暗算に自信なし)の処刑であるぞよ・・・。


7月27日 日
フランス未曾有の陰謀事件が発生した。パリ全市民が武器をとり大砲を引き出した。

昨日26日、ジャコバン・クラブで大論争があった。ロベスピエールとクートンが落雷さながらの怒声を張り上げた。これが嵐の幕開けである。

今日27日、ついにロベスピエールが極悪人として告発され、逮捕命令が発せられた。彼の弟、彼の親友クートンが捕らえられた。もう一人の極悪人アンリオは逮捕を目のあたりにするや「店を閉めろ」といってパリ中を駆け巡る。

ロベスピエールに買収された市議会は民衆の招集をはかったが誰一人集まらなかった。

公会はこの事件を知るとロベスピエールと共犯者、アンリオと全市議会議員を法律の保護外に置いた。アンリオは砲兵隊を二つに分け、公会と市庁舎広場にとどめようとした。

市議会は国民公会を認めず、ロベスピエールの保護、救済を試みた。

しかしロベスピエールは、民衆が彼を極悪人とみなし、彼と市議会の味方に一人もかけつけないのを見て、もはや命運つきたと覚った。

彼は頭にピストルを打ち込んだが、死ぬことはできなかった。彼の弟もアンリオも投身自殺を試みたが重傷を負うにとどまった。クートンも死ねなかった。

パリは不安におののいた。公会に対する陰謀があり、公会は今夜にも潰滅するかもしれないという警告が発せられた。誰もどうしたらいいのかわからない状態だった。

ロベスピエールは強力な一派を掌握しているので、公会は最大の危機に曝されていた。

旗をかざした騎馬憲兵隊に護衛された威風堂々たる使者たちは、極悪人ロベスピエールらが法の保護外に置かれたと報せてまわった。

当然の成り行きでみな公会側についた。結局市議会についた者が全員逮捕され、法の保護外に置かれた。

今日、45名が処刑された。カペー一族の陰謀に加担、敵との内通、反革命謀議、当局の侮辱、非合法集会、物質の流通妨害の企図など。

7月28日 月
ロベスピエールを独裁者におしあげようという陰謀があった。ロベスピエールと共謀者21名は革命裁判所へ連行された。彼らは今日処刑に処すという先刻を受けた。

六万のパリ市民虐殺を謀っていた。

ロベスピエール(公安委員)、クートン(公安委員)、ラ・ヴァレット(北部放免軍准将)、アンリオ(パリ国民軍総司令官)、デュマ(元革命裁判所所長)、サン=ジュスト、バイヤン(革命裁判所陪審員)、ベルナール(パリ・コミューヌ)、ジャンシー(パリ・コミューヌ)、ヴィヴィユ、ゴンボー(元パリ重罪裁判所付追訴官臨時代理)、レスコ・フルーリオ(パリ市長)、シモン(パリ・コミューヌ)、ローラン(コミューヌ行政官)、ヴァメ(コミューヌ行政官)、フォレスチエ(元コミューヌ)、ロベスピエール弟(公会議員)、ケネー(元コミューヌ)、名不明、マチュー・ダザール(元コミューヌ)、ゲラン(元コミューヌ)、コシュラ(元コミューヌ)が処刑された。

7月29日 火
今日、パリ・コミューヌ議会議員71名が逮捕された。シガースとブーランジェは除かれ69名が処刑された。

7月30日 水
新たに極悪人が処刑された。
ル・ルー(鬘師)、ニコラ(元革命裁判所陪審員)、ルシュナール(仕立て屋)、キニヤール(高級家具職人)、チェルロ、シエティ(画家)、ラユール(宝石商)、カミュ(卸業者)、グリエ(肖像画家)、マルト・ジレ、フリリー(革命前の市職員)、アルチュール(紙製造業)、ル・リエーヴル。ラユールを除き、12名の処刑。

7月31日 木
今日は処刑が行われなかった。

公安委員会の組織が変更された。これまでのように同じ構成員が地位を占有し続けることがなくなる。革命裁判所も刷新された。パリ防衛軍総司令官は廃止され、6人の師団長が置かれることになった。

ジャコバン・クラブは昨日も集会があり、今後も続ける。


 
サン=ジュストの名がギタールの日記に出てきたのは、処刑リストの時だけである。不思議ぃ!

弟としているのがサン=ジュストではないか?他の文献によるとロベスピエールの弟は逮捕リストにはなかったそうな。それを兄が逮捕されるなら、自分もといったとあるが・・・。

結局はロベスピエールの救済に、コミューン以外は集まらなかったんだ。やっぱり。

おわかりの方が多い思いますが、6万のパリ市民の虐殺はデマでしょう、きっとね。

そしてシモン。アントワーヌ・シモンだ。ルイ・シャルルの教育係だった靴屋のシモンも逮捕され、ロベスピエールと共に処刑された。

そして今回、ロベスピエールに粛清されるべき人間たちがロベスピエールを血祭りにあげたのだが、そのなかのバラスが、ロベスピエールの処刑日に、ルイ・シャルルの様子を見に行っている。さすが「悪徳の士」と呼ばれるだけある。

記事 マリー・アントワネットの子供達 18世紀の子供達

シモンは、あのガスパール・ショーメットのすすめで任命された。エベール派として逮捕され4月13日に処刑されている。

記事 ブルボン朝の王妃 マリー・アントワネット さらば、王家よ

クートンは証拠がなくとも処刑ができる「プレリアール22日法」を提案し採択された。この前月の6月10日のことだ。

たぶん、フーキエは彼らの裁判も、当然「プレリアール22日法」で決定している。

記事 フランス革命 革命裁判所 検察官 フーキエ=タンヴィル

フーキエもロベスピエールらに有罪の判決を言い渡したあとに逮捕させられている。

さて31日のギタールの日記は興味深い。「これまでのように同じ構成員が地位を占有し続けることがなくなる」とある。だがロベスピエールが筆頭となった公安委員会は1793年の9月からである。

1789年、ロベスピエールは「議員の任期はごく短くなければならない」という発言をしている。またsai の記事で、「ロベスピエールの諸原理と法令」に「人員を頻繁に入れ替え」とあるように彼はそれを望んでいたはずだ。

だが、傍目からみると「占有していた」となるのである。

メルラン・ド・チヨンヴィル・ティオンヴィル(Antoine Christophe Merlin de Thionville)は、1793年12月12日に独裁緩和のため、1 / 3の改選を求めたという。3ヶ月後である。ごく短くというのは僕の感覚でも3ヶ月だな。

記事  マクシミリアン・ロベスピエール

たとえば、「テルール(恐怖)は民衆に向けられるものではなく、敵に向けるものだ。」と言う。だがこの日記を綴ったギタールでさえ、自分のしようとすることが法に違反しているかどうか、クートンを訪ねて返事をもらっている。4月23日のことだ。

つまり、ギタールたち民衆はもはやテルールを向けられていたと感じているからだ。

そして、自由な意見、自由な演説、自由な結社、自由な音楽、自由な出版物をロベスピエールは提唱した。そして彼は「自由を侵害するもの」を弾圧した。たとえば反革命的な意見、反革命的な演説、反革命的は結社、反革命的な音楽、反革命的な出版物を。

革命前より比較にならないほど検閲は強化され、うっかり批判をしようものなら処刑である。

つまり反ロベスピエール的なものだ。専制、独裁と流布されるものも全てであるからして、大衆は自由を感じていなかったのである。

ロベスピエールは制度や機関が市民から非難されぬように、そして専制と独裁の流布が大衆へ影響しないように、さらに革命を正当化するために、各党派の不当を際立たせてから、民衆の極悪人として3度粛清したと思われる。

それを革命の良心といえるだろうか。だからこそ、独裁者とされるべき全ての罪を背負わされて処刑されたのだと思う。

最後に悪徳たちに「独裁者、暴君」といわれ逮捕されたロベスピエールだが、放漫な議員たちこそ、彼が「独裁者、暴君」と世論に流れぬように、その根元を粛清したことを知っている。だから、彼に「独裁者、暴君」と叫んだのだ。

追記
画家2人が逮捕されている。もちろんダヴィッドも処刑対象者だったが、なんと平謝りと反省がみられたということで免れたらしい。



フランス革命下一市民の日記 過去記事一覧

テルール(恐怖)のあと (1794年8月〜12月)
ジャコバン派独裁 恐怖政治編 (1794年1月〜7月)

ロベスピエール編
ロベスピエール編 その1 (1792年12月〜1793年7月)
ロベスピエール編  その2 (1793年8月〜1793年12月)

1793年
フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 4月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 7月
フランス革命家の一市民の日記 1793年10月

1792年
フランス革命下の一市民の日記 1792年の3月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の9月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 10月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 12月

1791年
フランス革命下の一市民の日記 1791年の2月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の9月
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