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このセレスタン・ギタールの日記は、ほとんど毎日のように綴られている日記から、僕がトピックし、引用・要約(かなり短く)しているので、フランス革命下の一市民の日記 セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵藍訳 中央公論社 を実際に読んでみてください。

この記事で注釈をしていないところなんか、インターネットで自由に検索すれば答えがでてきます。

感想のほか、この日記や注釈で、あれっ?って気がついたところは、僕なりにコメントしてます。で、気がつかないところもあります。以上。

(フランス革命下一市民の日記 過去記事一覧は記事最後です。)


1794年8月〜10月
 
8月5日 火
今日、極悪人コフィナールの処刑が行われた。

8月7日 木
3、4日前から些細なことで投獄されていた囚人たちが続々釈放されている。

8月10日 日
民衆がチュイルリー宮を包囲し、国王が妻と子を連れて公会に非難してからちょうど2年目にあたる。彼らはその2日後に幽閉されたのだ。この日を記念して祭典が催された。

8月18日 月
全県から選出された陪審員が到着。昨日再開された。

8月19日 火
サン・ジェルマン修道院裏手から出火した。図書館はほぼ全焼し、二度と入手できない貴重な原稿の一部が失われた。150万冊が焼失した。

8月31日 日
士官学校のそばのグルネル城の火薬庫が爆発した。パリ中が仰天した。家が揺れる。13日間に二つも事故が起こった。

9月9日 火
マレー区で公会議員のタリヤンが襲われた。フロレン、ルコワントルとともに4日前にジャコバン・クラブを追放されたばかりである。

9月21日 日
マラーの遺体が盛儀をもってパンテオンに合祀された。国王との書簡が死後暴露されたミラボーの遺体は搬出された。3週間後には、ジャン・ジャック・ルソーをパンテオンに移す儀式が挙行される。

国民公会は48革命委員会を廃止。12の革命委員会を新設した。

10月5日 日
チュイルリーで女性同伴のカムラン氏に会った。11ヶ月前に投獄され、3日前に出獄したという。

10月11日 土
今日、ジャン・ジャック・ルソーの遺体をパンテオンに移す壮麗な儀式が挙行された。ルソーは鉛の棺に納められていた。ルソーは旧ジラルダン伯爵(→ジラルダン侯爵だから)所有の城内庭園に埋葬されていた。池のなかのポプラ島に霊廟を建てたのである。

こうしてヴォルテール、マラー、ルソーがひとつの納骨所に並置されることになった。この3人は生前も高名であったが、死後も不滅の名をとどろかせるであろう。

10月16日 木
パリ・ジャコバン・クラブ、各区およびパリ全土の民衆協会に対する法令。
一 政府転覆を企図し共和国の統一を破壊するものとみなし合併、統合、連合、連携を禁ずる。
二 布告から20日以内に構成員一覧を提出。毎3ヶ月に同様の表を提出すること。

10月20日 月
クロッソン氏、ミレ氏はカルメル会監獄に収容されていたが、ようやく昨日出獄し、タラリュ・ホテルに移された。


 僕の注釈 本書の注釈  1794年8月〜10月

ギタールは、プレリアール22日法の廃止についても何も書いていない。8月1日に廃止された。

法については 記事 マクシミリアン・ロベスピエール
使用方法は  記事 ジャコバン派独裁 恐怖政治編 (1794年1月〜7月)

コフィナールが最後の一人である。ロベスピエール派として処刑されたのは109名としているものがあるが、ギタールの日記では104名である。3名は処刑を免除されている。ダヴィッドは処刑リストにもはいっていない。もしかしたら、僕の記入ミスかも。自殺したル・バ、デュプレ夫妻は計算に入れてないから。

なんかテロっぽい事件が相次いでいるけど。よくわからん。

9月の暗殺はジャン=ランベール・タリアンのことだ。26年後の53歳まで生き延びる。9月虐殺に関与する一人。1793年のボルドーでの粛清は、ロベスピエールには手ぬるいと言われたが、そこで情婦テレーズと関係を持ったため。のちにこのテレーズが投獄され、テレーズの処刑の前日にロベスピエールの自宅で会見したが、けんもほろろの扱いを受ける。

テレーズはタリアンに「何してるのよ、早くここから連れ出して!」という最後の手紙で、ようやくロベスピエールの失脚の立役者で名を残すことになった。テレーズを無事に監獄から連れ出すことができたが、テレーズはのちにバラスの愛人になる。

「暴君を打倒せよ」、これはテレーズのために出たものである。

9月から10月にかけて偉人のパンテオンにマラーとルソーが揃ったわけだ。ルソーはヴォルテールに死んでからも「四つ足」と蔑まれたのだろうか。

1794年のこのあと、誰が作者かわからないペンネームの面白いパンフレットがある。この3人がパンテオンで大論争をしているというもの。ルソーとマラー、なだめ役がヴォルテールだ。

記事 パンテオンにおけるマラーとジャン=ジャック・ルソーとの大論争

Head of the Dead Marat - David, Jacques-Louis - Neoclassicism-2

マラーの頭部 部分(detail)
ジャック=ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David)


マラーはギタールの日記で一番よく登場しているのではないかと思う。このマラーは、葬儀、コルドリエ・クラブの胸像、そしてロベスピエールが神格化したマラー、このパンテオンの挙行など、「象徴化」された存在である。

ロベスピエール編 その1 (1792年12月〜1793年7月)→7月13〜28日
ロベスピエール編  その2 (1793年8月〜1793年12月)→9月22日
フランス革命下の一市民の日記 1793年 7月

革命側からは「自由と平等」、「徳高き博愛家」、そしてあの名のとおり「人民の友」だ。反革命側からは、「秩序破壊者」、「血に飢えた狼、あるいは食人鬼」、そして「テロリスト」、「アナーキスト」である。

結局、マラーは美貌の暗殺者シャーロット・コルデに殺され伝説の人となったわけだ。民衆への奉仕、真実を語った男としての伝説。それは永遠不滅な市民の崇拝となった。

それは栄光のうちに死んだからだ。ロベスピエールは失脚して死んだ。その違いかもしれないし。

そしてロベスピエールがいかに独裁的で恐怖政治を行っていたかを見せしめるように、つぎつぎと監獄から解放される囚人たち。ジャコバン・クラブの迫害のはじまりでもある。


 1794年11月〜12月

11月6日 木
クロッソン氏を含む7名のサント・ドミンゴ派遣使節は今日全員釈放となった。

11月10日 月
パレ・ロワイヤルに集まった若者達60〜80人が、ジャコバン・クラブに投石する。

11月11日 火
ナントで多数の人を処刑した代議士カリエが告発された。

11月12日 水
法令によりジャコバン・クラブの集会を禁止した。

11月15日 土
サントネーとボルヴレルがパーシェとブリュレの弾劾演説を行い告発した。

11月19日 水
どこも大豊作なのにあらゆる商品が毎日値上がりしている。労働力の不足のせいだ。

11月24日 月
サン・マルタンのラモット氏と昼食。村の暮らしは平穏だが肉屋に肉がない。百姓が一番恵まれている。

11月28日 金
クロワ・ルージェ区の革命委員10名がさまざまな策謀の廉により、20年の漕役刑を宣告された。多くの人々を投獄し財産没収したものを強奪したのである。

今日から6日間、無帽の曝しの刑を受ける。彼らは150万リーヴルの盗みを行った。

12月8日 月
ロベスピエールとその徒党により投獄されてた代議士71名の判決を取り消し、代議士71名の判決を取り消した。モンターニュ派とジャコバン派は打撃である。なぜならば彼らは決してジャコバン派の味方にならないからである。

12月16日 火
公会議員カリエはヴァンデの反乱の際、一斉銃殺をし、ナントでは溺死刑と虐殺を命じた。老人、妊婦、子供、乳児にいたるまで小型ガリー船に乗せ溺死させた。ナント革命裁判所判事ピナールとともにギロチンにかけられた。

12月23日 火
革命裁判所が解体されている。

ロベスピエールが「最高存在」を真理としたあの日、彼はここへ来て、民衆に演説をした。ついでシャン・ド・マルスへ赴き、代議士達と築山に上った。

ロベスピエールは築山の頂上で両手を天に差し伸べた。それは「最高存在」に両手を差し伸べるモーゼの再来さながらの姿だった。その一方でこの男は、人々の首を掻き切り、虐殺し、溺死させていたのだ。

なんという極悪人だ。そのうえ人々をギロチンにかけたのだ。この人非人は神を軽んじ、神を侮辱したのだ。


 僕の注釈 本書の注釈

クートンに法に違反しているかどうかを確かめたギタール。4月23日の話だが、このクロッソン氏に関わることだった。

クートンはすでに処刑されたが、クロッソン氏らの釈放されるまでが書かれている。それと同時にジャコバン・クラブへの投石。やだね。ギタールも軽薄な行動だと記してはいた。

そして食料や生活必需品の値上げ。虐殺や財産没収で告訴される極悪人。だがテルミドールのバラスたちは告発をされない。

ロベスピエールと同じように「贖罪の山羊」である。同じ罪を犯した者のすべてをその身に引き受けなければならない。憐れな役目である。だが、仕方がない。

革命委員10名は20年の漕役刑だ。17世紀の「ノエル=レオン・モルガール師の予言集」で有名なモルガールも王家を批判するような予言のために、漕役刑に処せられたわけだけど、フランスの伝統的な刑罰だ。

他方の極悪人カリエはナントで小型ガリー船に乗せ溺死させたというが、このガリー船(ガレー船)を漕ぐのが漕役刑で、これを漕ぐのは非常に辛いとされている。

歴史的に漕役刑は9年とされていたようだが、なんと20年。

で、150万リーヴルの盗みを働いた彼らの刑は無帽の曝し。藁の曝し台の杭に縛られ、その者たちの頭には、氏名、年齢、身分、罪状が掲示される。日本にもあったような刑だ。このうちの2人は無罪放免、そのうち一人は自殺した。

これはどこに藁の曝し台が置かれるのだろう。獣が多いところだと襲われ死んでしまう。身体が弱れば獰猛な鳥が攻撃してくるかもしれない。

この年の最後はロベスピエールの思い出で終わる。

Maximilien Francois Marie Isidore de Robespierre by Jacques-Louis David

処刑台に向かうロベスピエール 1794年
ジャック=ルイ・ダヴィッド(Jacques-Louis David)?
サインの文字がダヴィッドのものではないような気がする


マラーと違い、失脚して死んだロベスピエールは神格化されなかった。だが生前自分で自分を神格化した。

「最高存在の祭典」は、「道徳上、政治上の大きな刺激を与える」ものだが、詳しくはこちらの記事からね。

マクシミリアン・ロベスピエール
ジャコバン派独裁 恐怖政治編 (1794年1月〜7月)

彼はこの祭典に、民衆を強制的に集めた。そしてギタールが書いているように「ロベスピエールは築山の頂上で両手を天に差し伸べた。それは「最高存在」に両手を差し伸べるモーゼの再来さながらの姿だった」のだろう。

僕はこれが反ロベスピエールらに「専制」、「独裁」だと思わせたと思う。ロベスピエールは、まだ何も勝利していないのにもかかわらず、勝利の美酒に酔ってしまった。それがこの人の思慮のなさでもある。



フランス革命下一市民の日記 過去記事一覧

テルール(恐怖)のあと (1794年8月〜12月)
ジャコバン派独裁 恐怖政治編 (1794年1月〜7月)

ロベスピエール編
ロベスピエール編 その1 (1792年12月〜1793年7月)
ロベスピエール編  その2 (1793年8月〜1793年12月)

1793年
フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 4月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 7月
フランス革命家の一市民の日記 1793年10月

1792年
フランス革命下の一市民の日記 1792年の3月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の9月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 10月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 12月

1791年
フランス革命下の一市民の日記 1791年の2月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の9月
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