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パッツィ家はご存知のようにパッツィ家の陰謀、サンタ・クローチェにあるパッツィ家の礼拝堂でも知られている。

メディチ家同様にフィレンツェの銀行を所有していた。1470年代の当主はヤーコボ・パッツィ(Jacopo Pazzi)。そして片腕は甥のフランチェスコ・パッツィ(Francesco dei Pazzi)だ。

負債を抱えながらのメディチ家に押され、パッツィ家はそれでも街の支配者、教皇庁の銀行の地位を望んでいた。

Melozzo da Forlì

シクストゥス4世(Sixtus IV )と甥たち
およびヴァチカン図書館館長バルトロメーオ・プラティナ
1475年 Melozzo da Forlì(メロッツオ・ダ・フォルリ) 


フランチェスコ・サルヴィアーティ(Francesco Salviati)は、シクストゥス4世(Sixtus IV )の甥たちのリアーリオ家とも親しく、ロレンツォ・デ・メディチが欲しがっていたイモラの土地を、シクストゥス4世の甥ジローラモ・リアーリオ(ジロラモ・リアリオ Girolamo Riario)のためにパッツイ家が貸した金を渡す役目も引き受けた。

イモラの土地の件で、シクストゥス4世に貸さなかったメディチ家は、こうしてジュリアーノ・デ・メディチが暗殺に関与する人々と緊迫した関係がはじまったというわけだ。

ロレンツォに対する最初の嫌がらせは、承認を得ずにフランチェスコ・サルヴィアーティがミラノの司教になったことだ。

このとき、チッコ・シモネッタがロレンツォに忠告している。

そしてフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ。彼がヴォルテッラの街を略奪したときには、ロレンツォの味方側だったが、そのあとの1474年の反教皇派の軍事的混乱の救世主となり、教皇側の人間となっていたわけだ。

記事 ロレンツォ・デ・メディチとフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ
記事 「フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ 小書斎」 神曲 地獄編の子孫

公爵の爵位が与えられたフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロは、これ以降はロレンツォの敵となる。

だが、ロレンツォはこのことに気がついていただろうか。

Sperandio, medaglia di federico da montefeltro, 1482

Sperandio, medaglia di federico da montefeltro, 1482
フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロのメダル メトロポリタン美術館


1475年のジュリアーノ・デ・メディチの槍試合の前の年、1474年の12月、ロレンツォがフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロに槍試合のための馬を貸してほしいという願いに、フェデリーコはこう返答している。

「すでにパッツィ家に貸してしまった。」とね。

だが、ロレンツォはそのことを聞き逃したのではないか?

1475年、教皇は公式銀行をパッツイ家に変え、ピザ大司教に就任したフランチェスコ・サルヴィアーティは、ロレンツォに腐った魚を100ポンド送りつけたという。

「もしこの魚が貴殿にふさわしい贈り物でなく、わたしの望みや恩義にもふさわしくない品であれば、お詫び申し上げます。魚釣りは運命の女神の媚薬で、女神はわれわれの強い望みを満たしてくれぬことが多いものなのです。」とね。(引用 マルチェロ・シモネッタ著 ロレンツォ・メディチ暗殺より)

1477年、大司教フランチェスコ・サルヴィアーティとフランチェスコ・パッツィは、モンテセッコ伯ジャン・バッティスタに接近した。

人文学者ポッジョ・ブラッチョリーニ(Poggio Bracciolini)の息子で、ロレンツォの父の代からメディチ家の侍医だったマルシリオ・フィチーノ(Marsilio Ficino )の教え子でもあるヤーコポ・ブラッチョリーニ( Jacopo Bracciolini) 。

Bernardino di Bandino Baroncelli

バルジェッロの窓の晒し首吊り ボナ美術館
ベルナルド・バンディーニ(Bernardo Bandini)
レオナルド・ダ・ヴィンチのスケッチ


ヤーコポ・ブラッチョリーニと同じくフィチーノの教え子ベルナルド・バンディーニ(Bernardo Bandini)。

彼らはパッツィ家の陰謀に加担した。

共通しているのはマルシリオ・フィチーノの教え子だという点。

マルシリオ・フィチーノは、サンタ・マリア・ノヴェッラにあるトルナブオーニ礼拝堂のフレスコ画にも描かれている。それはトルナブオーニ家、メディチ家の人物が描かれており、親メディチを象徴いている。

このメディチ家のプラトン・アカデミーの代表するメディチの忠実な支持者マルシリオ・フィチーノが、パッツィ家の陰謀に関わっていたということになるだろ?

Miniatore fiorentino, pianta di firenze da poggio bracciolini historia florentina, bibl ap vaticana

父ポッジョの「フィレンツェ史」の地図
フェデリーコに献呈したヤーコポ モンテフェルトロ家所蔵
中央ヴェッキオ宮殿の窓の晒し首吊りになる


ヤーコポ・ブラッチョリーニは、17歳の枢機卿ラッファエーレ・リアーリオの家庭教師だった。

その若きリアーリオ枢機卿のための晩餐会をメディチ兄弟は予定していた。1478年4月26日日曜日。

その日曜の朝、リアーリオ枢機卿、大司教フランチェスコ・サルヴィアーティ、モンテセッコ伯ジャン・バッティスタ、ヤーコポ・ブラッチョリーニは、パッツィ家のヴィッラ・ラ・ロッジャからフィレンツェに向かった。

ベルナルド・バンディーニは、ジュリアーノを何度も抱擁し、赤いロープの下に胸当てをつけているか確認した。

この様子をニッコロ・マキャヴェッリ(Niccolò Machiavelli)は、「これほどの憎悪を偽りの心の下に隠しおおせたとは、まさに記憶に値する出来事である。」と後に述べている。

メディチ兄弟の叔父ジョヴァンニ・トルナブオーニは、ジュリアーノは体調が悪いので晩餐会には出席しないと声を張り上げた。

Giovanni Tornabuoni

ジョヴァンニ・トルナブオーニ Giovanni Tornabuoni


記事 サンタ・マリア・ノヴェッラ トルナブオーニ礼拝堂のメディチ家
Cappella Tornabuoni di Santa Maria Novella, Firenze

突然、司教フランチェスコ・サルヴィアーティは母親の見舞いに行くと出て行った。

ミサ曲「アニュス・ディ Agnus Dei」(神の子羊)が聴こえている。

Agnus dei, qui tollis peccata mundi
miserere nobis.
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi
miserere nobis
Agnus dei, qui tollis peccata mundi
dona nobis pacem.

アニュス・ディ,クィ  トリス ベッカーター ムンディ, ミゼレーレ ノービス
神の子羊、世の罪を取り去りたもう主よ、我らを憐れみ給え

アニュス デイ, クィ  トリス ペッカーター ムンディ, ドナ ノービス パーチェム
神の子羊、世の罪を取り去りたもう主よ、我らに平穏を与え給え

そのとき「裏切り者め」とジュリアーノの耳元で囁いたベルナルドがわき腹を突く。続いてフランチェスコ・パッツイが胸を突く。裏切り者とはジュリアーノをパッツイ家の身内と考えての囁きだろうか。フィオレッタことオレッタ・パッツィとの結婚を示しているのだろうか。

記事 プリマヴェーラ La Primavera

Pazzi conspiracy

20世紀のエッチングから パッツイ家の陰謀


まるで叔父の声が死への合図のように、ジュリアーノは刺され、頭蓋骨を打ち砕かれる。

モンテセッコ伯は教会での暗殺に怖気づき、かわりにステファーノ・ダ・パニョーネとアントーニオ・マッフェイがロレンツォに近ずく。とっさに身をかわし首にかすり傷。友人フランチェスキーノ・ノーリが庇い犠牲になった。

You Tube
Rinascimento - Lorenzo il Magnifico - parte prima
(parte di 1)
Rinascimento - Lorenzo il Magnifico - parte seconda
(parte di 2)
Rinascimento - Lorenzo il Magnifico - parte terza
(parte di 3) ジュリアーノの暗殺場面
Rinascimento - Lorenzo il Magnifico - parte quarta
(parte di 4)
Rinascimento - Lorenzo il Magnifico - parte quinta
(parte di 5)
Rinascimento - Lorenzo il Magnifico - parte sesta
(parte di 6)

DOCUMENTARIO SULLA VITA DI LORENZO DE MEDICI DETTO "IL MAGNIFICO”
(LORENZO DE MEDICI - 1 parte di 6)

ポリツィアーノ(Angelo Poliziano)が聖具室の扉を開けて・・・というのが定説だが、ロレンツォが釈放したばかりの富裕層の青年が手助けしたと記録されているようだ。ヴァルカンティ家のものらしい。

大司教フランチェスコ・サルヴィアーティはヤーコポ・ブラッチョリーニとヴェッキオ宮殿のシニョリーアに向かっていた。だが怪しむ市の役人に追い払われ、書記局に忍び込んだものの扉は鍵がかかってしまい窮地に陥った。

トロイの木馬が・・・。

Bertoldo di giovanni, medaglia della congiura dei pazzi, lato di giuliano de medici, 1478-3

パッツイ家のメダル 1478年 ベルトルト・ディ・ジョバンニ制作


ソナーレ・ディ・バラージョ(緊急の鐘の音)が打ち鳴らされたその時、ヤーコボ・パッツイが広場に到着した。

革命者のように「人民万歳!」、「自由を!」と叫んだが、人々はメディチの紋章「パッレ」を連呼し、「武器をとれ!」と叫んだ。(フランス革命はフィレンツェを真似たのか?)

逃げ出したフランチェスコ・パッツィはパッツィ宮殿の私室で自殺を図るところで捕らえられた。ヴェッキオ宮殿の窓から晒し首吊り。大司教フランチェスコ・サルヴィアーティ、ヤーコポ・ブラッチョリーニも晒し首吊り。

それから縄を切られ、地面に叩き落された。

ヤーコボ・パッツィも逃走中に捕まり、従者ともども政庁前広場で絞首刑。当時の絞首刑は名誉のない死である。

斬首こそ名誉の死である。

モンテセッコ伯ジャン・バッティスタは長い尋問の末、名誉を守られた形で断頭台で首を斬られた。彼の自白は「自白書」(モンテセッコ)がある。そこにメディチ家の暗殺を企てた者の名を連ねている。フェデリーコの名も。ナポリ王も合意書に調印していることだろう。

Bertoldo di giovanni, medaglia della congiura dei pazzi, lato di giuliano de medici, 1478-2

パッツィ家のメダル 1478年 ベルトルト・ディ・ジョバンニ制作


ベルナルド・バンディーニは、翌年に捕まりやっぱりバルジェッロの窓の晒し首吊りとなった。

レオナルドがそのスケッチに鏡文字で「淡褐色の小さい帽子、絹の黒い上着、裏付きの胴衣云々」と書いているが、コンスタンティノープルまで逃げたものの結局捕まり、トルコのスルタン・マホメッド2世がロレンツォに献呈という形で彼を差出したゆえ、ベルナルドにトルコ服を着せて処刑した。

さて、カテリーナ・スフォルツァ(Caterina Sforza)の夫、そしてシクストゥス4世(Sixtus IV )の甥であるジローラモ・リアリオ(Girolamo Riario)。

記事 カテリーナ・スフォルツァ(Caterina Sforza)の謎 ボッティチェッリ プリマヴェーラから

もともとはイモラの土地をこの二人に与えるためのシクストゥス4世とのロレンツォとの確執からはじまったわけ。

パッツィ家の陰謀の黒幕ともいわれた人物にしては、影が薄い。妻である女傑カテリーナ伝のほうが強烈かもしれないが、フォルリの土地を与えられたジローラモ。

Girolamo Riario

ジローラモ・リアリオ Girolamo Riario


必然的にフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロと手を組むのは、ダンテの神曲からも読み取れるが、その地獄編で炎に焼かれるフェデリーコの祖先で、フォルリ軍を率いたグイド・ダ・モンテフェルトロとの因縁か。

記事 「ダンテの神曲 地獄編トピック

ジローラモはイーモラ伯(イモラ伯)の称号を手に入れて、そのためにイーモラの土地が必要だった。モンテセッコの回想(自白書)によれば、ロレンツォの憎悪をジローラモにむけさせることだと書かれていた。

ジローラモは「ロレンツォは我々に対する悪意と憎悪に満ちている。フィレンツェの体制が変革になればイーモラは安泰だ。」という。

フランチェスコ・サルヴィアーティは「フィレンツェの市民の半数はパッツィ家かサルヴィアーティ家の関係者だ。支持されていないロレンツォとジュリアーノを始末するしかない。」

モンテセッコはこの企てに慎重に受け答えをしていたようだ。

それからジローラモ、シクストゥス4世との会話が自白書に記録されている。



ジュリアーノ・デ・メディチの墓碑
ミケランジェロ・ブオナローティ


ジローラモ
「死人が出ぬようできる限りのことをいたします。もしやむ得ずにそうなった場合はお赦しいただけますよう。」

シクストゥス4世
「このけだものが!わたしは誰の死も望んでいない。変革を求めるだけなのだ。変革とロレンツォが片付けられるのを待ち望んでいるのは、悪党で敬意も払わない。彼が消えれば我々はフィレンツェを思い通りに動かすことができるだろう。」

この頃にフェデリーコは、チッコ・シモネッタとロレンツォを疎遠にさせるために暗躍していた。ロレンツォやスフォルツァ家のスパイに気がつかれずにすむわけだ。

そうして教皇側は、モンテセッコがヤコポ・パッツイに「行動を起こさせるため」の説得に向かった。そうしてフランチェスコ・パッツィ、再びヤコポ・パッツイと密談にはいる。

ジュリアーノが暗殺された血の日曜日には、フィレンツェの城門の外では、カステッロの領主ロレンツォ・ジュスティーニとフェデリーコの軍隊が待機していた。

このパッツィ家の陰謀の失敗は、ジローラモがフィレンツェを手に入れることができなかったことだ。ジローラモの野心は、次にデステ家のフェッラーラを狙った。

Tomb of Giuliano de Medici

ジュリアーノ・デ・メディチの墓碑 Tomb of Giuliano de' Medici
ミケランジェロ・ブオナローティ(Michelangelo Buonarroti )


パッツィ家の陰謀のあと、ジローラモはもはやフェデリーコを見下していた。

1479年の秋、ロレンツォはフェデリーコに密使を送った。僕的にはロレンツォはようやく周囲を見渡す余裕がでてきたなってカンジ。

教皇とジローラモと、ロレンツォ暗殺で手を組んだものたちが、それぞれに敵対する頃合を見計らったように思える。

1482年にフェデリーコと教皇の契約は切れ、フェデリーコはジローラモの望んでいたフェッラーラ側と契約をする。

つまりフェデリーコは教皇とジローラモと敵対することになった。だが、戦地でマラリアにかかりフェデリーコは死を迎えた。そのフェッラーラへの死への誘いは、もしかするとロレンツォの思惑かもしれないぞ。ほら、教皇との決別は高くつくことをロレンツォは知っているからさ。

パッツィ家の陰謀の最後の生き残りでもあるジローラモは、1488年4月にフォルリのチッコ(Checco)とルドヴィーコ・オルシー(Ludovico Orsi )の兄弟に暗殺された。この謀反にロレンツォが扇動したとも言われているが。

パッツイ家の男はほとんど処刑された。紋章も消え、財産も資産も消え、残されたものは姓を変えた。

ちなみにパッツィ家の礼拝堂記事はこちら 「サンタ・クローチェ教会

La Primavera


ロレンツォの二人の姉妹のうち、ビアンカはグリエルモ・パッツィに嫁いでいる。グリエルモは流刑で、のちにフィレンツェに帰還した。

サンドロ・ボッティチェッリの「春 プリマヴェーラ」は、この事件のあとだが、そのメディチ家暗殺の陰謀をめぐらせた教皇から、システィーナ礼拝堂の壁画制作に指名され、ロレンツォは送り出している。

その「春 プリマヴェーラ」は、1481年頃からの制作で1482年にこの未完を完成させたらしい。

僕はsai の記事から、マルティアヌス・カペラの「文献学とメルクリウスの結婚」がアリ!って思ったね。

記事 プリマヴェーラ La Primavera

そして、楓のダンテの神曲の記事。フェデリーコはダンテの神曲で炎に焼かれたグイードの子孫。

記事 ボッティチェリ La Primavera 「プリマヴェーラ(春)」  ダンテの神曲の楽園説

ボッティチェッリの暗号も解き明かしたいね。

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