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copy_www.perso.orange.fr_Fred.kleinあのクライン・ブルーを生み出したイヴ・クラインの父親は、画家のフレッド・クラインである。単色主義のモノクロームのイヴ・クラインとは反して、淡色主義・彩色主義である。

作品クライン・ホースとフレッド・クラインの写真であるが、どうも僕の好みとする画風ではない。息子より長く生きたが、アーティストの名声は、短い生涯だったクラインが世界的に著名である。

さて、その息子のほうであるが、「NOUVEAU REALISME(ヌーヴォー・レアリスム)を宣言したクラインは空を、アルマンは大地を、パスカルは海を、それぞれの異なる造形で作品化。かのゴッホに倣い、ファースト・ネームのサインを好んだ。」という。(by Wikipedia

知っている人も多いと思うが、クラインの2006年のカレンダーから、12点ほどざっと紹介する。

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| イヴ・クライン クライン・ブルー | 20:22 | trackbacks(3)
なになに!ゴッホのある肖像画(2006年8月発覚)がフェイクだって!

なになに!ゴッホの三幅対の原則あり(2003年9月)だって!

ゴッホ 『オーグスチン・ルーランの肖像』 ボストン美術館このマダムは、オーグスチン・ルーラン。郵便配達人ルーランの夫人である。「La Berceuse」(揺りかごを揺する女・子守歌)として、壷のひまわり15本と12本が左右を彩り、三連祭壇画となる。これがゴッホの三幅対だ。

マダム・ルーランは、シカゴ美術館・メトロポリタン美術館・アムステルダム市立美術館・クレラー・ミュラー美術館に住んでいるぞ。

つまり、こういう感じにならなきゃならない。

このLa Berceuseは、メトロポリタン所蔵のもの。うえのボストン美術館のマダムと多少ちがうでしょ。ゴッホは、ボストン美術館をオリジナルとして、他の5枚をレプリカとして描いている。壷のひまわりもそう。オリジナルかどうかはよく知らないが、15本は、ナショナル・ギャラリーで、12本はノイエ・ピナコテーク美術館の所蔵の作品がある。そして、この三幅対の左のひまわりは、ゴッホ美術館所蔵で、右のひまわりはフィラデルフィア美術館。

ゴッホ 三幅対


オーグスチン・ルーランの5枚をはるかに上回る「ひまわり」は、本数や背景、ひまわりの品種をかえて、何通りも描かれているが、「タンギー爺さん」も、背景の浮世絵が異なる2枚は確認されている。エミール・ベルナールらが描いた「ゴッホの肖像画」も面白い。
| ゴッホ | 11:41 | trackbacks(11)
白神山地 鳴門の滝僕とSaiは子供の頃から一緒である。幼稚園から大学までも一緒で、勤務先が別々だった。40を超えた数年前から、またゆっくり会う機会が増えだした。

ちょうど去年の今頃だ。Saiが、「クライアントの奥方のSNSに誘われた。aLeiも一緒にやろうよ。」と心細げにSaiがお願いにきた。普段、エクセルだ、ワードだとPCは、仕事に欠かせない代物であるから、結構簡単にできると思っていたが、面倒なことが多いらしく、僕を借り出したわけだ。

そうして、Saiのクライアントの奥方という方とお会いした。fu-(楓、ふ〜。KAFKA)である。

白神山地 青池華奢で、小学校3年生のような少女っぽい子。これがまた、僕らの後輩が勤務する学校の非常勤講師であって、世間は狭いなぁと思った。その後輩が、のちに参加するようになるのだが、「fu-さんは、子供体型だから、間違って注意しゃうことがあったんですよ。サボりの学生と間違えちゃったり。僕だけじゃぁないですよ。」というくらいの「ことな人間」である。

そうして、僕らの畏まった関係が、じょじょに「竹馬の友」となり、この時期を過ごすことができたのである。白神山地で。

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| 自然 | 00:14 | trackbacks(4)
THE ATOMIC CAFE  1982年 監督: ケビン・ラファティ、ジェーン・ローダー、ピアース・ラファティ1940年〜50年代のアメリカ政府とメディアのプロバガンダのフィルムを、「エディトリアル・ドキュメンタリー」という手法で編集した映画「アトミック・カフェ」。メディアリテアシーなんて言葉もない時代の映像だ。なんたって「放射能にはまったく問題がない」−こんな台詞で軍事教育をするから、兵隊たちはイソイソきのこ雲(威力は小さい)へ突進していくことができる。「アトミック・カフェ」は、こうした情報を知る手掛かりとなる。

「放射能にはまったく問題がない」−どこかの国の原子力発電所でも使われていそうな言い回しだな。はっきりいって、この台詞を笑える日本人がいるだろうか。いまもって、同じレベルで「-----にはまったく問題がない」と、自分たちが関心のない事柄には安心しきっている国民じゃぁないか。

日本だって、戦争反対の思想の持ち主を「非国民」として、町内中で嫌がらせ。だいたい第二次世界大戦の日本国民は、「非国民」と呼ばれるのが怖かったから戦争賛成したのだろうか。そうじゃないだろ。プロバガンダもあり、「一致団結」という精神もありだ。だから槍で空を突くような訓練も、なんの疑いもなく参加したのではないか。そして兵器の違いに、はじめて恐怖を感じたのではないだろうか。

それは、旧ソ連も所有するようになった「核」への恐ろしさに気がついたっていうアメリカのような感覚だ。

アトミック・カフェをみて、映画のテクニックやブラックユーモアに感嘆したり、アメリカ兵士に同情するようじゃ立派に洗脳されているかも。この映画から、何が大切で何が重要なのかということを、日本人として考えることだ。

それは「原爆ゆるすまじ」ではなかろうか。
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| アトミックカフェ | 00:14 | trackbacks(13)
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