一定期間更新がないため広告を表示しています
このセレスタン・ギタールの日記は、ほとんど毎日のように綴られている日記から、僕がトピックし、引用・要約(かなり短く)しているので、フランス革命下の一市民の日記 セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵藍訳 中央公論社 を実際に読んでみてください。
この記事で注釈をしていないところなんか、インターネットで自由に検索すれば答えがでてきます。
感想のほか、この日記や注釈で、あれっ?って気がついたところは、僕なりにコメントしてます。で、気がつかないところもあります。以上。
(フランス革命下一市民の日記 過去記事一覧は記事最後です。)
フランス革命下の一市民の日記 1793年 10月
10月3日 木
公会で大論争があり、その結果、65名の議員が逮捕された。
10月7日 月
サント・ド・ミンゴでは不幸な事件が相次いで起こった。白人は黒人に対して武器をとり、黒人は白人に対して武器をとる。サント・ド・ミンゴの惨事についてすでに新聞が報じている。
10月13日 日
公定価格 パリ中で全商品の公定価格の制定が鳴り物入りで通達された。そして早くも商品がかなり値下がりしている。全商品に価格統制の妙手をうった。この適用を免除される商人はいない。
10月14日 月
マリー・アントワネットが革命裁判に出廷し、第一回の訊問を受ける。15日午前4時、死刑の宣告。16日正午、革命広場で処刑。特別な囚人として、二厘馬車に一人乗せられ、刑場へ運ばれた。監獄をでるときから、髪を切られ、両手を後ろ手に縛られていた。王妃は白い部屋着姿であった。
10月31日 木
法令 誰でも自分の好きな服装をすることができる。何人もこれを妨げることはできない。
革命協会の婦人たちはパリ中の女性に赤い帽子を被らせ、ウールの洋服を強制したがっていた。パリ中央市場の主婦たちはこの提案に反対。すべての婦人クラブの廃止を要請した。民衆的団体の公開会議への出席は、廃止された婦人クラブに所属していた女性たちも、ほかの女性同様参加を許可された。
革命裁判所は代議士22名に死刑の宣告を下した。正午、全員が処刑された。ブリソー、ヴェルニョー、シャンソネ、デュプラ、ヴァラゼ、ル・アルディ、デュコー、ポワイエ、フォンフレード、ボワロー、ガルディヤン、デュシャステル、シュリー、司教フォーシェ、デュペレ、ラフルス、カラ、ボーヴォー、マンヴィエル、アンチブール、ヴィジュ、ラ・カーズ。
彼らの罪状は、共和国の単一・不可分性に対する、かつフランス人民の自由と安全に対する陰謀加担である。
本書注釈 僕の注釈
13日の本の注釈にすでに1793年9月23日に公定価格制定法令は布告されていた。市民はインフレと物価高騰による生活苦への特効薬であるかのように熱狂的に歓迎する。残念ながら、経済統制は不可避的に破綻の道を辿る。「悪貨が良貨を駆逐する」ように価格統制は商品を駆逐。」
ロベスピエールはのちに、この法令で罵声を浴びる。死への道の途中で。
14日、王妃の処刑だった。ギタールは詳しく書いていない。
ギタールの日記で、この前々月8月の日記にコンシェルジュリーに移されたアントワネットの記録が8月2日(金)に一行で書かれていた。
ロザリー・ラモリエール記(部屋付女中)
9月虐殺の少しあと、私が勤めていたボーリュー夫人が亡くなり、牢獄の管理人リシャール夫人に勤めることになりました。
8月1日、王妃がこのコンシエルジュリーに移されてきました。4日目、5日目頃のことです。婚礼のときに持参した王妃の金時計を取り上げることになりました。
9月半ば、ド・ルージュヴィルという男がミショニという衛兵によって王妃の部屋へ連れてこられました。王妃の服の裾のところにカーネーションを落としていきました。
女中のアレル(アレン)は何もかも見ていて、フーキエに報告しました。リシャールとマダム、上の息子はサント・ペラジー、マドロネットの独房に入れられました。
新しい管理人はルボー、そして娘のヴィクトワール(マダム・コルソン)。管理は厳しくなり、王妃の食事は鳥、仔牛のお肉、野菜料理は一皿になりました。
この全文に関しては楓が要約して記事にする予定だから。結構小説の1話分くらいあるんだよ。
↓
記事 ブルボン朝の王妃 マリー・アントワネット さらば、王家よ
取り上げた金時計ってあれだな。1783年に天才時計師アブラアン-ルイ・ブレゲに金時計を依頼したものと違う。婚礼時にドイツの時計を持っていたらしい。
さて、このロザリー。王妃崇拝だが、カーネーション事件に触れている。ギタールの日記では何も触れていない。
マリー・アントワネットの弁護は、革命裁判所でショーヴォー・ラガルドを任命した。マラー暗殺のシャルロット・コルデーの弁護も委任されている。彼自身囚われ、テミドールの時保釈された。
ショーヴォー・ラガルドの手記
10月14日、トロンソン・デュクドレーとともに革命裁判所によって弁護人に指名された。私はただちに出発した。王妃が入れられていたこの部屋は屏風で二つに仕切られていた。右にはベット、テーブル、椅子がある。王妃はあっさりした白い服を着ていた。王妃は威厳ある神々しい態度で、恭しくすすむ私を信頼し優しく迎えてくれた。
この短い時間で訴訟の書類を調査するには数週間かかる。そのためには国民公会に頼むしかない。王妃の答えはノン。私は王妃を弁護するということは、ルイ16世の未亡人、子供たちの母親、そして義妹を弁護することだと付け加えた。
王妃はようやく議会宛てに必要期間を要求する数行をしたためてくれた。だが請願書をあてたフーキエ・タンヴィルはそれをしなかった。翌日公判がはじまった。
こうしてアントワネットのフランスの裏切り行為である証拠書類は運良く遅れてしまった。そして検察側の猿芝居がはじまる。姦通の捏造だ。だが、ギタールの日記には出てこない。
だけどさ、フーキエってホント、頭悪い、悪すぎるよな。それが無くたって十分有罪でしょうよ。
アントワネットの罪状 楓の記事から引用
∵諸外国をフランス革命に介入させる陰謀。
∵諸外国の介入でフランスを壊滅させるために敵国と内通。
∵国外へ亡命し、フランスを攻撃する計画(ヴァレンヌの逃亡)。
この罪状については、あのオランプ・ドゥ・グージュが指摘しまくった。
この件に関して
記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の7月
記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の8月
さて本書の注釈
「王妃の位を失ったこの悲劇の女性の命運はいままさに尽きようとしている。ミラボーは言う。「王はただ一人の味方しかいないが、それは王妃である。」(僕:とんでもない味方だ!)、当時、アントワネットはこのミラボーとバルナーヴを両天秤にかけ、王政を生き残れるチャンスを二度もふいにした。」
記事 ブルボン朝の王妃 マリー・アントワネット さらば、王家よ
マリー・アントワネット関連記事はこちら。
記事 クレリーの日記 1 ルイ16世の遺書
記事 クレリーの日記 2 タンプル塔の無能な王
記事 惨殺されたフェルセンの最期
記事 マリー・アントワネットが愛したもの
記事 王太子妃 マリー・アントワネット 4つの不吉
記事 ハプスブルグ家 マリア・アントーニア
記事 マリー・アントワネット フランス紀行から
記事 マリー・テレーズ王女の回想記録 1
記事 エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランス
記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年 8月
記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年 9月
記事 フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月
記事マリー・アントワネットの子供達 18世紀の子供達
13日、31日は、いよいよジロンド派の処刑がはじまった。ブリソーとあるのがジャック・ピエール・ブリッソー、そして「ジロンドの鷲」と呼ばれたピエール・ヴェルニヨの名もある。
このとき逃亡したのは、ロラン、ビュゾー、ペティヨンである。ペティヨン礼賛はどこに消えたのか。ますます面白くなるぞ!
記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の7月
本の注釈は、「6月2日の決議に抗議する請願書に署名した代議士は逮捕され、フォルス監獄に収容されて、6ヶ月間拷問され、息も絶え絶えだった。」(P・ガクソット)。その結果、ジロンド派は10月24日に告訴され、この31日に処刑された。」
フランス革命下一市民の日記 過去記事一覧
テルール(恐怖)のあと (1794年8月〜12月)
ジャコバン派独裁 恐怖政治編 (1794年1月〜7月)
ロベスピエール編
ロベスピエール編 その1 (1792年12月〜1793年7月)
ロベスピエール編 その2 (1793年8月〜1793年12月)
1793年
フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 4月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 7月
フランス革命家の一市民の日記 1793年10月
1792年
フランス革命下の一市民の日記 1792年の3月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の9月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 10月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 12月
1791年
フランス革命下の一市民の日記 1791年の2月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の9月
このセレスタン・ギタールの日記は、ほとんど毎日のように綴られている日記から、僕がトピックし、引用・要約(かなり短く)しているので、フランス革命下の一市民の日記 セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵藍訳 中央公論社 を実際に読んでみてください。
この記事で注釈をしていないところなんか、インターネットで自由に検索すれば答えがでてきます。
感想のほか、この日記や注釈で、あれっ?って気がついたところは、僕なりにコメントしてます。で、気がつかないところもあります。以上。
フランス革命下の一市民の日記 1793年 7月
7月8日 月
1793年7月3日午後9時、タンプル塔に幽閉中のプチ・カペー(王太子)は母のマリー・アントワネットの手許から引き離されて、父の住んでいた部屋に移された。
シモンという名の一市民が今後、彼の世話を焼くことになった。マリー・アントワネットは娘と義妹と一緒に別室に住んでいるので、母と子はもう二度と再び会うことはないだろう。
7月13日 土
「人民の友」紙の発行で広く名を知られる傑物、国民公会議員のマラーが午後6時、コルデー嬢といい、貴族の女性に入浴中、左胸を短刀で一突きされ、即死した。カン出身の若い女性だった。
何がなんだかわからないまま死んでいくのは遺憾千万なことだ。
7月16日 火
マラーの遺体は14、15日と防腐処置が施された。15日の午後、コルドリエ教会に運ばれ、一般に公開された。午後6時から長い葬列をつくってパリを一巡した。
暗殺者のシャルロット・コルデーは大修道院監獄に移された。
マラーは48か49歳だった。遺体はコルドリエ教会の庭園の木立の中に埋葬され、棺は三つの石の上におかれ、棺の上にはもう一つ置かれた。棺の脇にはマラーの臓腑を収めたバター壺がおかれ、反対側に肺を納めたた小さな樽が置かれた。
7月17日 水
今日の夕方6時ごろ、マラーを殺害したシャルロット・コルデーが斬首された。彼女は罪状をすべて否認した。
7月28日 日
コルドリエ・クラブは盛大な儀式のうちに、マラーの心臓と全著作物をのせて、威風堂々と行進した。弔辞の合間に美しい演奏。葬儀は松明の明かりのなかで夜10時半に終了した。マラーの心臓はドーフィーヌ通りのコルドリエ・クラブに運ばれた。私は祭壇のそばにいたので、マラーそっくりの力強い演説を聞くことができた。
本書注釈 僕の注釈
ギタールの日記で、この年の5月28日、31日、6月1日が興味深い。
1793年 5月28日
パリは混乱状態にある。各区委員会、国民公会、市庁も動揺している。議員のなかには十二人委員会のことで国民公会に揺さぶりをかけようとしている。ジャコバン派、山岳党も十二人委員会に反対だ。
1793年 5月30日
パリは不穏な空気に包まれている。
全市民は武装した。集合太鼓にパリ中に警鐘がなり恐怖にとらわれた。明日になれば詳しい事情がわかるだろう。
本の注釈
十二委員会は検事代理でエベール、ヴァレルを逮捕。27の区の請願者たちが十二委員会の解散を強要。ジロンド派はすぐに復活させたが31日に廃止された。
1793年 6月1日
午後6時にふたたび全員武装せよ、という命令がでた。チュイルリーに3000から4000人の民衆が夜明かしにでかけたが、何故そんなことをするのかがわからない。おそらく、何者かにおびえているのだろう。
本の注釈
ジロンド派幹部の逮捕で、ロラン、クラヴィエール、ルブランに逮捕状がでた。さらにアンリオの指揮する国民衛兵に国民公会を包囲させた。ジロンド派の29名が逮捕となる。P・ガクソットは、ここにマラーの暗殺を見ている。
4月の日記で僕はマラーの裁判の部分をトピックした。4月18日の日記だ。
記事 フランス革命下の一市民の日記 1793年 4月
コルドリエ・クラブ、山岳派に所属していたマラーは、wikiから引用すると「議会を主導するジロンド派を攻撃し、一時、逮捕されたがすぐに釈放されパリ民衆を蜂起させて最終的に国民公会から追放した。」というのがこの一連だ。
ジャン=ポール・マラー(Jean-Paul Marat、1743年5月24日 - 1793年7月13日)はロンドンで開業医となるとwiki にあったが、たしか医師免許は持っていなかった記憶がある(間違いだったらゴメン)。もしそうなら偽医者だったのか?同時代にはイタリアヴェネツィアでも偽医者は流行している。→記事 ピエトロ・ロンギ Pietro Longhi いかさま よこしま さかしま
さてシャルロット・コルデーの暗殺。
ジャコバン党員で画家のジャック=ルイ・ダヴィッドが、「マラーの死」(王立美術博物館)を作品として仕上げている。
カーンで、ペティヨンやバルバルーと接触していたジロンド派支持者シャルロット・コルデー。だが、余命いくばくもないマラーをなぜ殺したのか。
wiki によると「マラーは8月10日のテュイルリー王宮襲撃事件や反革命派への9月の虐殺を引き起こしたといわれている」とあるが、このシャルロット・コルデーが接触したペティヨンも、8月10日のテュイルリー王宮襲撃事件や反革命派への9月の虐殺を引き起こした。弁護士マトンの手記にそれが書かれている。
記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の9月
さて、ローラン・バという一人の警官がこの暗殺を目撃している。彼はマラーの家で「人民の友」を折りたたんでいるところだったらしい。
7月13日金曜日午後7時半。黒い帽子に扇子を持った女が訪ねてきた。マラーの妹は取り次ぎにいくと、市民マラーは「構わない」といった。彼は浴槽で仕事をしたり、書いたりしていた。小さくて二人しか入れない浴槽室だった。
市民ローラン・バは他の女性3人と部屋にいた。7、8分過ぎて、マラーが妹へ助けを呼んだ。妹がかけつけるとすでにこと切れていた。暗殺者は市民ローラン・バの方に来るのを見て取り押さえた。そこに警備を担当している市民キュイジニエが入ってきて、ローラン・バは助けを求める。
すぐに他のものも続々とやってきて、暗殺者をつかまえた。コミューンの検事長代理のエベール、国民公会の議員だというものもやって来た。
ここにジャック・ルネ・エベールが再登場する。公安委員会と対立していた一人だ。5月30日の日記では逮捕されているが、無罪放免だったようだ。
ジロンド派は、5月18日、十二人委員会を立ち上げて公安委員会と保安委員会の上位に位置する治安の最高機関とし、反ジロンドを鎮圧しようとした。
ジロンド派中傷の記事を書いたエベール。たぶん「ペール・デュシェーヌ(デュシェーヌ親父)」紙にでも書いたのだろう。意外だが、このエベールの肖像画をみたら、ペール・デュシェーヌの発行者とは思えないほど、端整で上品そうな顔でびっくり。
これからこのエベールは革命裁判所検事総長のフーキエ・タンヴィルとともにカペー未亡人(マリー・アントワネット)の有罪づくりに尽力することになる。
1793年7月10日に改選された公安委員会の顔ぶれは、マクシミリアン=ロベスピエール、ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト、車椅子のジョルジュ・オーギュスト・クートンと、恐怖政治の三巨頭が揃った。
このとき、公安委員会のダントンは失脚したのだ。
順序は逆になったが、7月8日のプチ・カペー(ルイ・シャルル)とシモンの記事。シモンは実に優しかった。そしてプチ・カペーは実に懐いていた。
1793年の1月の日記で、ルイ16世の血を書いた僕は、ルイ・シャルルに触れている。
記事 フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月
そしてこの時期に、タンプル塔に出向いているのが、6月1日の日記で、国民公会を包囲したアンリオだった。
マラーに関しては次の記事も参考に。
フランス革命下一市民の日記 ロベスピエール編
ロベスピエール編 その1 (1792年12月〜1793年7月)
ロベスピエール編 その2 (1793年8月〜1793年12月)
フランス革命下一市民の日記 過去記事一覧
テルール(恐怖)のあと (1794年8月〜12月)
ジャコバン派独裁 恐怖政治編 (1794年1月〜7月)
ロベスピエール編
ロベスピエール編 その1 (1792年12月〜1793年7月)
ロベスピエール編 その2 (1793年8月〜1793年12月)
1793年
フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 4月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 7月
フランス革命家の一市民の日記 1793年10月
1792年
フランス革命下の一市民の日記 1792年の3月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の9月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 10月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 12月
1791年
フランス革命下の一市民の日記 1791年の2月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の9月
このセレスタン・ギタールの日記は、ほとんど毎日のように綴られている日記から、僕がトピックし、引用・要約(かなり短く)しているので、フランス革命下の一市民の日記 セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵藍訳 中央公論社 を実際に読んでみてください。
この記事で注釈をしていないところなんか、インターネットで自由に検索すれば答えがでてきます。
感想のほか、この日記や注釈で、あれっ?って気がついたところは、僕なりにコメントしてます。で、気がつかないところもあります。以上。
フランス革命下の一市民の日記 1793年 4月
4月3日 水
デュムーリエはブールノンヴィル将軍と国民公会の4人を逮捕、幽閉し、王政を再建するため軍隊を率いてパリに攻め上るかまえだという。
4月8日 月
昨日の夕方、オルレアン公がアベイ監獄に投獄された。ブルボン家の血をひくものは全員、人質としてマルセイユに連行されることが布告された。今日、コンチ公(コンデ家から枝分かれ)がアベイ監獄に入れられた。
4月16日 火
9日夜から10日の朝にかけて、13歳になるオルレアン公の息子、ブルボン公爵夫人、コンチ公はベルサイユに連行された。オルレアン公夫人は病気のためにパリに残されたが、回復次第、マルセイユに連行される。オルレアン公の息女はブリュセルにおり、フランスへは戻らないだろう。オルレアン公には二人の息子がおり、兄も、マルセイユかパリに送還されるだろう。
4月18日 木
裏切り者と指名された国民公会議員22名の召還と罷免を求める請願書の署名が行われている。
「請願に同意するものは署名せよ。署名は自由であり、何びとも強制されない」
本書の注釈 僕の注釈
デュムーリエは、ブルトゥイエ男爵がフェルセンにあてた手紙にも登場するが、ブルトゥイエ男爵は彼の寝返りを企んでいた。
記事 惨殺されたフェルセンの最期
シャルル・フランソワ・デュムーリエ(Charles Francois Dumouriez, 1739- 1823)は、プロセイン側にゲーテが観戦したときの戦い、1792年9月のヴァルミーの戦いでブラウンシュヴァイク公爵の率いるプロイセン軍の侵略を食い止めた。
ブルトゥイエ男爵とフェルセンのやりとりの内容は、反革命側のデュムーリエ将軍がルイ十六世をタンプル獄から救出せしめるという案だ。このヴァルミーの戦いの前である。
1792年11月のジュマップの戦いでオーストリア軍に勝利し、南ネーデルラント全域を占領した。
1793年2月、デュムーリエが南ネーデルラント防衛という政府の方針を無視してオランダへ侵攻した。このときオーストリアに敗北し、政府に無断でベルギーを明け渡す。「デュムーリエの裏切り」というのがこの一件だ。
3日の記事は、「デュムーリエの裏切り」で、国民公会による逮捕から免れるために、ルイ・フィリップを利用。「王政を再建するため軍隊を率いてパリに攻め上るかまえ」となるわけだ。
これがあとの記事にもつながる。
ルイ=ニコラ・ダヴー中佐はこの裏切りに義憤し、オーストリア軍に寝返った二人に反撃をするが、二人は亡命した。
平等のフィリップ(フィリップ・エガリテ Philippe Égalité)と自称したルイ・フィリップ2世はデュムリーエの裏切りによって、息子ルイ・フィリップの尻拭いのため、財産没収と処刑となるわけだ。
「デュムーリエの裏切り」は、王政復古よりブルボン家の根絶やしに火をつけてしまった。
18日は、本書の注釈から。
「この請願書は、三人の執政官ダントン、マラー、ロベスピエールの教唆されてつくられ、サン・キュロット派が占める監査委員会の圧力の下でおこなわれた。罷免を要求された議院はいずれもジロンド派で、モンターニュ派は過激派と組み、ジロンド派に対する死闘を展開する。」(本書の注釈)
ジロンド派はマラーを革命裁判にかけている。ギタールの4月13日の日記でも、革命裁判所に呼び出されたマラーに触れていた。
「このとき、マラーは無罪放免で、勝ち誇った民衆はマラーを国民公会へ連れて行ったとピエール・ガクソットは述べている。」(本書の注釈)
フランス革命下一市民の日記 過去記事一覧
テルール(恐怖)のあと (1794年8月〜12月)
ジャコバン派独裁 恐怖政治編 (1794年1月〜7月)
ロベスピエール編
ロベスピエール編 その1 (1792年12月〜1793年7月)
ロベスピエール編 その2 (1793年8月〜1793年12月)
1793年
フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 4月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 7月
フランス革命家の一市民の日記 1793年10月
1792年
フランス革命下の一市民の日記 1792年の3月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の9月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 10月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 12月
1791年
フランス革命下の一市民の日記 1791年の2月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の9月
このセレスタン・ギタールの日記は、ほとんど毎日のように綴られている日記から、僕がトピックし、引用・要約(かなり短く)しているので、フランス革命下の一市民の日記 セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵藍訳 中央公論社 を実際に読んでみてください。
この記事で注釈をしていないところなんか、インターネットで自由に検索すれば答えがでてきます。
感想のほか、この日記や注釈で、あれっ?って気がついたところは、僕なりにコメントしてます。で、気がつかないところもあります。以上。
フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月
1月17日 気温0度。北の風、水がはる。一日中曇。
ルイ16世にきょう判決がくだされた。
国民公会定員数745名。死亡者1名をひき、744名。病気による欠席6名。無断欠席2名。委任状提出による欠席11名。棄権した者4名。投票総数721。
死刑賛成23票、執行猶予付き死刑賛成8票、自然死2票、鉄鎖につなぐ拘禁2票、拘禁319票、無条件死刑に投票したも366票。
結局無条件死刑が5票上回ったに過ぎなかった。(注釈あり!)
ロベスピエールとガデは、国王の控訴に異議申し立て。満場一致で国王の控訴を棄却すると宣言。国王を死刑にするか執行猶予かは明日決まる。
1月21日 気温3度。一日中曇った天気
前国王、ルイ16世処刑される。
今日午前10時20分、国王はルイ15世広場で処刑され、遺体はただちにマドレーヌ墓地に運ばれ、深さ4メートル、長さ2メートルの墓地に埋葬された。
国王は1792年12月20日から遺言状をしたためていた。(全文)
1月24日 気温3度。晴、夕刻雨。
去る20日、パレ・ロワイヤルで暗殺されたルぺルチエ・ド・サン・ファルジョーの葬儀が、きょう国民公会の指令で、とりおこなわれた。
国王の死刑に賛成投票したという理由で、パリスとかいう男が左わき腹にサーベルを突き刺した。
ルぺルチエ氏は33歳の若さで一人娘との暮らし。年金30万リーヴルの上流だった。痛ましい光景に市民の涙を誘った。私も涙を抑えることができなかった。
司祭なしで行う新しい葬儀はローマ風で、荘厳な葬列は長く続き、彼が息を引き取ったヴァンドーム広場から、ヴォルテール、ミラボー、スフロと同じパンテオンまで4時間続いた。745名の議員、市役所職員、全ジャコバン・クラブ会員、多数の軍隊、三つの楽隊が参列した。
1月31日
イギリス国王は、1月21日、国王を死刑に処した事実を知り、ただちに駐英フランス大使に帰国を命じた。イギリス国王は全国民を喪に服させ、すべての劇場を休館させた。
この駐英フランス大使の強制帰国は戦争が起こるかもしれない。フランス国内の全港は、停泊中のイギリス、オランダの全船舶に出港禁止を命ずる緊急指令がだされた。
本書の注釈 僕の注釈
17日、21日の本書の注釈を紹介する。
本書の注釈を要約すると、17日、著者は計算違いをしている。歴史家によると、いずれにせよ死刑賛成361票ですでに必要過半数に達している。しかしながらフィリップ平等公の1票が逆転する可能性を含めていた。多くの議員がフィリップ平等公と同じように「ルイ16世の運命は、とりもなおさず王も裁く我々の運命である。」と知って投票した。ロベスピエールは「一人の人間に判決を下すのではない。国家の救済策を講じているのだ。」と言った。
21日の本書の注釈を要約すると、囚われの最後の数日に国王が示した高貴な態度、処刑が近づいても動じない勇気に感動的な証言がある。
侍従のクレリー、コミューヌの検事代理エベール、死刑執行人サンソンだ。
ル・テルモメートル紙によせたサンソンの手紙
「法務大臣ガラと外務大臣ルブランの前で読み上げられた死刑判決文、王と家族の悲痛な別れ、聴罪司祭エッジウォルス・ド・フィルモンが与えた最後の救いの言葉は氷のごとき冷たい心の持ち主さえも感動させた。」
フィルモン神父の有名な「行け、聖ルイの子よ。天はそなたを待つ」は実際言われなかとしても。
僕の注釈
ルイ16世の侍従クレリーは、タンプル塔での様子を日記にしている。
記事 クレリーの日記 1 ルイ16世の遺書
記事 クレリーの日記 2 タンプル塔の無能な王
マリー・テレーズがタンプル塔での生活の回想記録はこちら。
記事 マリー・アントワネットの娘 マリー・テレーズ王女の回想記録 1
ルイ16世の首が切り落とされると、民衆はハンカチ、紙、そのほかなんであろうと王の血を浸した。ここまでは史実だ。
本当かどうかはわからないが、ルイ16世の血しぶきが群集にふりかかると、王の血で染まった髪を買い求めるものもいたという。
作家のエリック・ル・ナブールは、「血しぶきのなか、一人の男が断頭台にあがり、滴った王の血をさらに民衆に降り注いだ。」という表現をしている。
死刑執行の一族サンソン家の回顧録には、市民の一人が処刑台によじ登って、むき出しの腕を血に浸し、「同士よ、われわれは、ルイ・カぺーの血がわれわれの頭に降りかかるであろうと脅かされた。ならば、降らば降れ。カペーこそ嫌というほどわれわれの血でその手を洗ってきた。共和派よ、王の血はわれわれに祝福をもたらすであろう。」とある。
ルイ16世の血痕のハンカチの話題がでたのが今年の10月だ。その容器は、あるイタリアの家族が、1800年代後半から所有しているものらいく、フランス革命の関連人物と、「1月21日、王の処刑後、Maximilien Bourdaloueがハンカチをその血に浸した」という意味の文章も刻まれているという。
記事 「ルイ16世の血を納めた容器」をDNA鑑定
結局、ルイ16世の血かどうかははっきりしていないんじゃないかい?ルイ16世の遺髪もあるはず。そういえば、なぜルイ17世あるいはタンプル塔の少年とDNA鑑定をしないのだろうか。ルイの直系ではないと、よくフランスでは言われている。
記事 マリー・アントワネットと子供たち 18世紀の子供たち
日記を読んでいて、不思議なのはルイ16世がすぐ埋葬されたという点だ。当時は防腐処理をして、臓腑と肺、心臓を壺にいれる。
ルイ17世の心臓は公開されているが。
ではルイ17世の心臓とマリー・アントワネットの遺髪はどうだったのか。一致はしなかった。
だが、マリア・テレジアの娘、アントワネットの姉マリア・カロリーナの子孫のル−マニア王妃アンナと一致しているそうだ。アンドレ・ブルボン-パルマとはほぼ一致。
そうしてアンナを基準にすると、アンドレ・ブルボン-パルマ、ヨハンナ・ガブリエラ、タンプル塔の少年が、アンナのDNAと一致するということで、タンプル塔=ルイ17世という判定となったらしい。
参考サイト ルイ17世DNA鑑定
つまりマリー・アントワネットの遺髪と一致したわけではなかった。マリー・アントワネット側の家系とDNAが一致したということだ。ハプスブルグ家の血を証明したのか、フランス・ブルボン朝の王子なのに。
それが誰であれ、追悼の念を感じさせるものである。たとえば身代わりだとすれば、一層哀れである。犠牲にされたのだから。
ただしもっとも酷い子供の死に方ではない。
彼は、ローランの扱いからゴマンに変わって、清潔な身繕いと部屋を整えてもらったあとだ。
この件の記事で、ルイ17世と判明して、憤りと憤怒を感じるとあるが、そこまでの思いがあるのなら、極論かもしれないけれど、それを形にすればいいのにと思う。ルイ17世のパンテオンをつくるとかさ。ねっ!
あまり過剰で粉飾するような感情の記事やコメントは御免こうむる。
さて、忘れていた。ルぺルチエ・ド・サン・ファルジョーだ。いやー、本の注釈にもあったが、僕もルイ16世の処刑よりも、このルぺルチエ・ド・サン・ファルジョーの死に皆、涙を流す。そりゃ、未成熟な娘が一人になるしね。そして彼は最初の殉教者でもある。
ジャコバン党員で画家のジャック=ルイ・ダヴィッドが、ルぺルチエの死を「大革命の最初の殉教者」という作品にした。それはサン・ファルジョーの城の壁の中に埋め込まれているという。
フランスを旅行した方なら知っていると思うけど、サン・ファルジョーって村がある。そこにサン・ファルジョーの城もある。コンテの血を引いているルぺルチエ・ド・サン・ファルジョー。
彼は1790年に国民議会の議長となった。義務教育と死刑廃止を提唱していた。
王の護衛官パリスは問う。「貴公はどちらに投票されたか。」
ルペルチエは答える。「良心の名のもとに、賛成とした。」
そしてパリスの名のもとに、ルペルチエに審判を下した。
死刑廃止を提唱しつつ死刑賛成に1票を入れたルぺルチエ・ド・サン・ファルジョー。皮肉な死。
以前から僕は、このギタールの日記には不思議だと感じていると書いたが、王室が衰退してく度に、ギタールも王室に関しての記事は記録係のような書き方だ。ところがルぺルチエ・ド・サン・ファルジョーに関しては、感情を日記の中にあらわしている。
さて、英国がルイ16世の処刑に喪に服した。この頃はジョージ3世の時代である。wikiから引用するが、「ジョージ3世は王室費を節約し、浮いた資金で数多くの議員を買収し、「王の友」 (King's Friends) と呼ばれたそれらの議員を使って政策を実行していった。」という王である。
ジョージ3世はルイ16世を国王としてどう見ていたのだろうか。
この頃、シュヴァリエ・デオン(シャルル・ジュヌヴィエーヴ=ルイ・オーギュスト=アンドレ=ティモテ・デオン・ド・ボーモン)がロンドンにいたはずだ。
ルイ15世、ルイ16世のもとでフランスのスパイとして活躍していたシュヴァリエ・デオンは、亡命貴族として扱われ、財産没収。生涯の前半は男性として、後半を女性として生きた剣士でもある。
ルイの処刑で、帰るに帰れず、細々と、ロンドンで余生をおくるはめになった。
この同時代の英国に、マリー・アントワネットとも交友を持ったとされているデヴォンシャー公爵夫人ジョージアナ・キャヴェンディッシュがいた。
英国もロココの時代だった。
フランス革命下一市民の日記 過去記事一覧
テルール(恐怖)のあと (1794年8月〜12月)
ジャコバン派独裁 恐怖政治編 (1794年1月〜7月)
ロベスピエール編
ロベスピエール編 その1 (1792年12月〜1793年7月)
ロベスピエール編 その2 (1793年8月〜1793年12月)
1793年
フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 4月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 7月
フランス革命家の一市民の日記 1793年10月
1792年
フランス革命下の一市民の日記 1792年の3月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の9月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 10月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 12月
1791年
フランス革命下の一市民の日記 1791年の2月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の9月
このセレスタン・ギタールの日記は、ほとんど毎日のように綴られている日記から、僕がトピックし、引用・要約(かなり短く)しているので、フランス革命下の一市民の日記 セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵藍訳 中央公論社 を実際に読んでみてください。
この記事で注釈をしていないところなんか、インターネットで自由に検索すれば答えがでてきます。
感想のほか、この日記や注釈で、あれっ?って気がついたところは、僕なりにコメントしてます。で、気がつかないところもあります。以上。
フランス革命下の一市民の日記 1792年 12月
12月3日 月
ロベスピエールは、ルイ16世の死刑、王妃を裁判にかけること、王太子や他の王族は混乱があるまでタンプル塔に監禁することを要求した。ルイ16世の裁判は国民公会がおこなうと宣言。
(また後書きだ)
これは12月4日付「クーリエ・フランセ」紙339号と「ガゼット・ナシオナル・エ・エトランジェール」紙の要約である。こうしてすぐにでも王は告訴されるだろう。
12月7日 金
昨日、ジャコバン・クラブはミラボーの胸像を打ち砕いた。ミラボーが裏切り者だとわかったからだ。パンテオンから遺体を放り出せという者もいる。
ものごとはすべてこんなものだ。大衆はとつぜんひとりの男に熱狂し、天まで持ち上げる。そして最後に見捨てる。
12月11日 火
パリの新市長シャンボン氏が国王を迎えに行った。国王はいつものように威風堂々と議場に入った。訊問が終わったのが5時近かった。若鶏と葡萄酒が運ばれたが、ほとんど料理に手をつけなかったという。明日も国王の訊問がある。王の運命を決する最終判決はそのあとにでるだろう。国王に弁護人がついた。
12月19日 水
ブルボン一族をのこらず3日以内にパリから、10日以内にフランス国外へ追放するという法令は賛同がえられず、ルイ16世の裁判が終わるまで棚上げになった。
僕の注釈
僕は1792年の11月の日記はパスした。1792年11月20日、内務大臣ロラン・ド・ラ・プラティエールを立会いに、鉄の隠し戸棚を開いたルイ16世の錠前作りの師でもある、指物師のフランソワ・ガマンについて何も書かれていないからだ。
テュイルリー宮殿の壁の内側に鉄製の隠し戸棚は内密の作業だった。それでガマンは告発せずにいられなかったのだ。ロランに報告をしたのはガマンから知らされた建築の監査官ウールティエ。
ルイ16世の王弟二人、諸外国の君主(オーストリア、プロセインなど)、反革命者たちとそれぞれの書簡があらわれた。
敵国通謀、賄賂、憲法の表面的な承認など。すべて国王名だっため、王妃はこの証拠から逃れられた。王妃の証拠は他から露見されるが、裁判までには間に合わなかった。
そこにはフェルセンに手紙を送ったブルトゥイエ男爵の手紙。すでに処刑されている侍従ラ・ポルト(三銃士にもでてくる)、そしてミラボーの書簡。
運わるく、ロベスピエールの右腕、ルイ・アントワーヌ・レオン・ドゥ・サン=ジュスト(革命の大天使、美貌のテロリスト)の演説のあとだ。
国王裁判での「処女演説」。「国王は国民、法を弄んだ。裁くというのは正義の法で国王を裁くに及びません。フランスは共和国になった。にもかかわらずルイはまだ生きているのです。」(妙訳だから)
で、ギタールの日記には、いっさい触れられていない。のちの1795年の10月の回想の日記にも。
それで11月を飛び越えて、12月のトピックの注釈を加える。
3日はそのまま、ありのまま。
7日のミラボー。僕はミラボーをギタールの4月の日記で、登場させた。ミラボーの葬儀の日記だ。
記事 フランス革命下の一市民の日記 1791年の4月
ミラボーは死後、ルイ16世と交わした書簡が暴露。つまり宮廷に買収され王権拡張と革命の進行を止めるための活動をしていた。例のフランソワ・ガマンの鉄製の隠し戸棚でその書簡が見つかった。
立憲君主主義の立場をとり、国民議会の中心として活躍していたからこそ偉人と認められた墓所に埋葬する第1号としてパンテオンに埋葬された。
王妃マリー・アントワネットはミラボーを信用せず利用。ルイ16世は信頼を置いていた。
ミラボー最後の言葉は「私の死はフランス王政の崩壊だ」。ミラボー伯爵オノレ・ガブリエル・リケティ、やっぱり先見性はあるな。
11日の弁護について。国王の弁護士は71歳のマルゼルブ。国王の弁護についたとして翌年処刑。
19日のブルボン家は、復古王政まで国外に。そのとき、マリー・アントワネットの娘マリー・テレーズはアルトワ伯の息子アングレーム公ルイ・アントワーヌと結婚し、フランス・ブルボン朝最後の王太子妃となった。結局フランス・ブルボンは、1830年の7月革命をもって嫡流はフランス王位を失う結果となった。
フランス革命下一市民の日記 過去記事一覧
テルール(恐怖)のあと (1794年8月〜12月)
ジャコバン派独裁 恐怖政治編 (1794年1月〜7月)
ロベスピエール編
ロベスピエール編 その1 (1792年12月〜1793年7月)
ロベスピエール編 その2 (1793年8月〜1793年12月)
1793年
フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 4月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 7月
フランス革命家の一市民の日記 1793年10月
1792年
フランス革命下の一市民の日記 1792年の3月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の9月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 10月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 12月
1791年
フランス革命下の一市民の日記 1791年の2月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の9月
このセレスタン・ギタールの日記は、ほとんど毎日のように綴られている日記から、僕がトピックし、引用・要約(かなり短く)しているので、フランス革命下の一市民の日記 セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵藍訳 中央公論社 を実際に読んでみてください。
この記事で注釈をしていないところなんか、インターネットで自由に検索すれば答えがでてきます。
感想のほか、この日記や注釈で、あれっ?って気がついたところは、僕なりにコメントしてます。で、気がつかないところもあります。以上。
フランス革命下の一市民の日記 1792年 10月
10月14日 日
ルイ15世広場でモンテスキュー軍によるサヴォワ公国占領、アンセルム軍によるニース伯爵領とモンメリャン要塞占領を祝う市民の祝典があった。
軍楽隊が行進曲「ラ・マルセイエーズ」を演奏し、祝砲が打ち上げられた。ルイ15世の銅像があった場所には左手に槍、右手に柏の葉で編んだ市民の冠をもった自由の女神がそえられた。
10月23日 火
先週末に連行されてきた亡命貴族9名が処刑された。武器をもってブランシュヴィック公の軍隊にいるところを逮捕された。
今後逮捕されても亡命貴族がパリで連行されることはあるまい。逮捕されたその場で処刑されるからだ。
僕の注釈
「ラ・マルセイエーズ」はルジェ・ド・リール (クロード=ジョゼフ・ルジェ・ドリール)が1792年4月24日に一夜の内に作詞しヴァイオリンでメロディをつくった。
ストラスブールの市長夫人マダム・ディートリッヒの手紙に、「この曲は私達の家で演奏されました。そこにいた皆が感動したものです。この曲の写しをお前に贈りましょう。お前の家の小さな名匠たちは、この楽譜をすぐに演奏し、お前をうっとりさせることでしょう。」
「ラ・マルセイエーズ」の歌詞
それがオーストリアとの会戦だ。レオポルド2世が急死し、フランスは宣戦布告。立憲王制を理想としたルジェ・ド・リールは、停職処分、少佐の昇進を目前に1797年に永久除隊。1795年の革命祭で正式に国歌と認められたらしいが、実際には1879年まで、その演奏を待たねばならなかった。
ギタールの10月26日の日記にもこの歌が歌われたことが記されているとともに、三色旗の元になった旗がサン・シュルピス教会に持ち込まれたことがかかれていた。
23日は、1791年の7月の日記で書いている。この亡命貴族に関して、11月9日に財産は没収、国境周辺に集結は死刑という法令を決議された。しかも翌年、「1789年7月1日以降に出国したものをを亡命貴族と見なす」となったことだ。
記事 フランス革命下の一市民の日記 1791年の7月
たびたび亡命貴族に関してはルイ16世の弟アルトワ伯の件も日記に書かれている。拒否権を使用したことだ。
ブラウンシュヴァイク公に関してはこちら。
記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の8月
本書の注釈には、ド・モンテスキュー・フザンサックについて書かれていた。作家でもありアカデミー・フランセーズの会員でもあるモンテスキュー。国民公会では疑わしい人物とされ告訴状をだされたという。
この年、スイスに亡命。1798年パリで死去とあるので、処刑はされなかったようだ。
モンテスキューが占領したサヴォワ公国。ギタールの11月の日記では27日にサヴォア人がフランス人になったとある。モンテスキューの亡命については11月17日。ギタールはもし将軍に罪の意識がなかったら亡命はしないだろうとある。疑わしい人物との理由はなかった。
さて1792年の11月の日記は予定していない。12月の日記に移るつもり。
フランス革命下一市民の日記 過去記事一覧
テルール(恐怖)のあと (1794年8月〜12月)
ジャコバン派独裁 恐怖政治編 (1794年1月〜7月)
ロベスピエール編
ロベスピエール編 その1 (1792年12月〜1793年7月)
ロベスピエール編 その2 (1793年8月〜1793年12月)
1793年
フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 4月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 7月
フランス革命家の一市民の日記 1793年10月
1792年
フランス革命下の一市民の日記 1792年の3月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の9月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 10月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 12月
1791年
フランス革命下の一市民の日記 1791年の2月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の9月
このセレスタン・ギタールの日記は、ほとんど毎日のように綴られている日記から、僕がトピックし、引用・要約(かなり短く)しているので、フランス革命下の一市民の日記 セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵藍訳 中央公論社 を実際に読んでみてください。
この記事で注釈をしていないところなんか、インターネットで自由に検索すれば答えがでてきます。
感想のほか、この日記や注釈で、あれっ?って気がついたところは、僕なりにコメントしてます。で、気がつかないところもあります。以上。
フランス革命下の一市民の日記 1792年 9月
9月2日 日
パリの大量虐殺。死刑を宣告されている全囚人と、同罪の宣誓を拒否した司祭全員が監獄、街頭で殺害された。その数は、おそらく誰にもわかるまい。監獄はどこも空っぽになった。囚人どもは全市民がパリを留守にしている隙に残された女子供を殺すことができると思えば、哀しいことだが止むおえまい。悪魔に殺される前に殺したほうがよい。革命以来、パリがこれほど危殆に瀕したことはない。祖国は危機にある。
9月3日 月
きょうも囚人の虐殺がおこなわれた。ド・ランバル元侯爵夫人(王妃マリー・アントワネットの女官長)も殺された。民衆は切り落とされた首を槍の先にさして、パリの街を引き回し、死体は溝に捨てる。王妃の女官ド・トゥールゼル夫人も同様に殺された。虐殺は囚人が監獄内にひとりもいなくなるまで続けられた。
9月6日 木
ついに昨夜監獄の虐殺は終わった。最後の血祭りはフォルス監獄だった。殺された全員のリストがすでに販売されている。
9月17日 月
昨夜、王室家具保管室から3000万相当のダイヤが盗まれた。
9月19日 水
1792年7月14日、20日、サント・ドミンゴで白人、有色人種、ならびに解放黒人の集会が催された。いまや有色人種、解放黒人はフランス国民としてどんな地位につくこともできる。サント・ドミンゴの島々における植民は、輝かしい時代を迎えようとしている。9月20日、サント・ムヌーの近くでフランス軍とプロシア軍との間に戦闘があった。
9月21日 金
国民公会の開会。きょうチュイルリー宮の大広間で開会式をおこなった。立法議会は今日閉会した。議長はペティヨン氏。
国民公会の最初の法令は「フランスにはもはや王政は存在しない」だ。フランスにはもはや国王が存在しないことになる。
9月23日 日
例の王室家具保管室から宝石を盗み出した泥棒の一人がギロチンにかけられるのを見物に、ルイ15世広場にでかける。
僕の注釈
セレスタン・ギタールは変わったなって思った。いまや虐殺を認めている。殺される前に殺すと書いてある。そしてギロチンの見物。
9月2日から6日までが監獄の囚人や非宣誓司祭たちの虐殺。ランバン侯爵夫人は、ある読み物に、性器を切り取られ、ルイ・フィリップ2世 (オルレアン公)の食卓に放り込まれたとあった。本当だろうか。
9月2日、パリ市民はヴェルダンがブラウンシュヴァイク公に占領されていることを知った。コミューンは次のような貼り紙をした。民衆は自分自身で自らを裁かねばならない。前線へ赴く前に邪まな市民を処刑しよう。」
この虐殺がはじまる前にヴァレンヌの弁護士マトンは個人的ないざこざで投獄されていた。
弁護士マトンの手記
「私はもっとも清潔で居心地のよい”デット”とよばれる牢獄を希望した。牢番は私が囚人の弁護をしていたことを知っており、この”勝訴の部屋”に革張りのベッドを運んでくれた。なによりもおいしい夕食は私を落ち着かせた。
庭にでてみると高い地位にあった人が大勢いる。国王顧問会議の顧問官だったベルトラン、ルイ16世の侍従ド・シャッティイ、公証人ギヨーム(兄)たちが。ダントンは私に手を尽くしてくれると約束しながら、何もしてくれない。
真夜中ごろ、「君、我々は死んだも同然だ。囚人を虐殺している連中の叫び声が聞こえる。」私は遺言を書いた。袖から肩まで、手に持つサーベルと同じような血まみれの男が不幸な軍人を裸にしサーベルで打つ、皮も破れ、内臓がはみ出す。
こうして私は飾り帯を着けた人物の前に連れていかれた。
私は名を訊かれる。「マトン・ド・ラ・ヴァレンヌ。理由もなく8日前から拘留されている。」と答えた。彼は帳簿を開き調べたのち、私に非がないのを認め釈放してくれた。私が牢獄を出たほとんどすぐに、ミス・ランバルが虐殺されたことを知った。」
それから半年過ぎてマトンは飾り帯を着けた人物と偶然出会う。そして彼らが「乳母の庭」と呼ばれる中庭でコミューンの検事長ピエール・マニュエルが長々と演説している姿を見た。
マトンはその手記でこの様子に注釈をつけている。
マトン・ド・ラ・ヴァレンヌの注釈
先月、8月28日以後、彼はペティヨンととものメニル・モンタンの石切り場に赴き、数ヶ月前土を入れた井戸を再びあけさせた。そして彼らが張本人だった9月2日と3日に殺された者の死体が、これらの穴に運ばれたことを知らぬ者はいない。
僕が不思議なのはなんでフェルセンは捕まらなかったのかと思ったら、亡命していたからだった。彼はこの非常事態の数年は帰国していない。ポリニャック夫人もそうだ。僕の少ない教養はそれさえ忘れてしまっていた。(恥)
ポリニャック夫人の記事はこちら。
記事 ポリニャック伯夫人 悪徳の栄え
ランバル公妃の記事はこちら。
記事 ランバル公妃マリー・ルイーズ 美徳の不幸
ルイ16世の侍従クレリーは、タンプル塔での様子を日記にしている。
記事 クレリーの日記 1 ルイ16世の遺書
記事 クレリーの日記 2 タンプル塔の無能な王
9月17日、23日は王室家具保管室からダイヤが盗まれ、そして泥棒の一人がギロチンになる話だ。よく、マリー・テレーズに宝石を渡したというエピソードはここから生まれているのだろうか。
マリー・テレーズがタンプル塔での生活の回想記録はこちら。
記事 マリー・アントワネットの娘 マリー・テレーズ王女の回想記録 1
記事 エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランス 「マリー・テレーズの回想」から
19日は、20日のヴァルミーの会戦が付け加えられていた。
1791年の「ピルニッツ宣言」に基づいた会戦。wikiによると「悪天候の中フランス軍とブラウンシュヴァイク公指揮のプロイセン軍が交戦」とある。プロセイン側のゲーテがいた。
記事 惨殺されたフェルセンの最期 ピルニッツ宣言のその後
この記事にゲーテの言葉、ヴァルミーの戦いのことが書かれているから参考にして。
ブラウンシュヴァイク公に関してはこちら。
記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の8月
21日は国民公会が王政の廃止を決定した。22日に共和暦元年の宣言があった。ちなみにペティヨン氏は、順調だな。
フランス革命下一市民の日記 過去記事一覧
テルール(恐怖)のあと (1794年8月〜12月)
ジャコバン派独裁 恐怖政治編 (1794年1月〜7月)
ロベスピエール編
ロベスピエール編 その1 (1792年12月〜1793年7月)
ロベスピエール編 その2 (1793年8月〜1793年12月)
1793年
フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 4月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 7月
フランス革命家の一市民の日記 1793年10月
1792年
フランス革命下の一市民の日記 1792年の3月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の9月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 10月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 12月
1791年
フランス革命下の一市民の日記 1791年の2月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の9月
このセレスタン・ギタールの日記は、ほとんど毎日のように綴られている日記から、僕がトピックし、引用・要約(かなり短く)しているので、フランス革命下の一市民の日記 セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵藍訳 中央公論社 を実際に読んでみてください。
この記事で注釈をしていないところなんか、インターネットで自由に検索すれば答えがでてきます。
感想のほか、この日記や注釈で、あれっ?って気がついたところは、僕なりにコメントしてます。で、気がつかないところもあります。以上。
フランス革命下の一市民の日記 1792年 8月
8月3日 金
マルセイユ連盟兵が国民議会におしかけて、国王の廃位の宣言、マルセイユ軍のパリ常駐、国民衛兵の設置を要求した。パリ市長ペチヨン(ペティヨン)を筆頭に、国王の廃位、ブルボン王朝の廃止を要求。国王は国民が選挙するまで、各大臣が連帯責任で行うことを求める。
これは立派な行動だ!
そのあと、ブランシュヴィック公(フランス攻撃連合軍総司令官)の宣言を公式に発表した。
8月8日 水
ラ・ファイエットの無罪確定。
8月10日 金
フランス王政史上、永遠に記念すべき一日だ。チュイルリーで大虐殺がおこなわれたのだ。国王はその職務ならびに王室費の支給を停止。チュイルリー宮殿は死体で埋まった。国王は、王妃、子供たち、王妹と国民議会に非難し議会の保護を受ける。
(このあとは例によって後になって書かれたもの。とりあえずここでは「略」)
8月11日 土
サン・シュピルピス教区の非宣誓司祭はカルメラ会僧院に収容された。私は委員に任命されたが健康を理由に辞退。宣誓拒否司祭は2週間以内に退去。しないものはカイエンヌに流刑。パリすべての区で収容された。
8月13日 月 気温24度。南西の風、曇って雷雨。
国王ならびに王妃とその家族は、きょうタンプル塔に連行された。新しい制度ができるまで、一家はここに留まることになろう。国王一家に声をかける者は誰もいない。(全文)
8月25日 土
「ガゼット・ド・パリ」紙の記者デュ・ロワ氏が斬首された。
8月29日 水
パリ中の家は終夜明かりを灯し、11時までに全市民は帰宅すること。どの家もノックなしで自由に出入りできること。捜索がはじまり、身を隠す術はない。密告が相次ぎ、翌日もまだ終わらない。
祖国の敵を一網打尽に捕らえ、武器を没収する唯一の方法だ。
本書の注釈 僕の注釈
3日はカール・ヴィルヘルム・フェルディナントは1792年7月25日に同盟軍司令官ブラウンシュヴァイク公爵が発した宣言が、8月にはいってパリで公式に発表された。
この裏には王妃マリー・アントワネットが、オーストリアの駐仏大使メルシー=アルジェントー伯爵を介して、ジャコバン派が退くように、プロセイン軍の大尉ブラウンシュヴァイク公爵(フリードリヒ・ヴィルヘルム)に同盟軍の声明を懇願したからだ。
「プロシア・オーストリア両国はフランスの内省に干渉せず。ただし民衆が王室に危害を加えた場合、パリ市の全面破壊も辞さないものとする。」(ブラウンシュヴァイクの宣言)
これは宣言には亡命貴族のコンデ公も絡んでいるらしい。ルイ16世のいとこで、ルイ5世ジョゼフ・ド・ブルボン=コンデこと。彼は、マルキ・ド・サドとの血縁関係もあり、幼少の数年間をサドとコンデの城で暮らしている。
この宣言は7月28日にはパリ市に届いているが、公式な発表は8月になってからだったようだ。
8日は、本の注釈によると、あの6月20日のチュイルリー宮殿侵入事件の指導者を罰する要求を示したところ、軍部の独裁を狙うものとして告訴されていたとある。
10日。みんな知っている「8月10日事件」だ。ギタールの日記のとおりなので、本書の注釈でボナパルトの発言を引用する。
「ボナパルトは、6月20日の暴動を「先頭にいた500人に霞弾をあびせれば、残りは尻尾をまいて逃げただろう。」と語り、そして8月10日のこの事件には、8月10日、友人のブリエンヌの兄の店から始まった侵入事件を直接目撃している。「もっとも卑しい下人どもの襲撃」を目前に、「下層民のもっとも卑劣な面を見た。」と述べた。いっぽう、守備のもろさを指摘。これはペティヨンが防衛側に火薬と爆弾の補給を拒絶したからだ。
この暴動にはロベスピエール、マラー、ダントンは姿を見せなかった。パリ県総代理レドレールは国王に敗北を認め立ち退くよう説得。
まもなく国王は、あの有名な「スイス兵は発砲を中止し、兵舎に引き上げよ。」という命令をしたためる。→だからスイス兵は殺される運命になるんだな。
11日は、日記に何度も登場する「拒否僧侶の追放」だ。ルイ16世はこの法令になかなか承認せず、拒否権を使用した。「拒否僧侶の追放」になるのがご存知の「聖職者民事基本法の非宣誓派」のこと。
記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の5月
13日は王一家のタンプル塔幽閉。
ルイ16世の侍従クレリーは、タンプル塔での様子を日記にしている。
記事 クレリーの日記 1 ルイ16世の遺書
記事 クレリーの日記 2 タンプル塔の無能な王
マリー・テレーズがタンプル塔での生活の回想記録はこちら。
記事 マリー・アントワネットの娘 マリー・テレーズ王女の回想記録 1
記事 エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランス 「マリー・テレーズの回想」から
18世紀のフランスの生活とともに、マリー・アントワネットの子供たち、ルイ・シャルルの独房生活にも触れている。とくにシモンの濡れ衣を晴らし、悪徳のバラス子爵ポール・フランソワ・ジャン・ニコラとそれに雇われたローラン(タンプル塔の管理)についても詳しく書かれている。
記事 マリー・アントワネットの子供たち 18世紀の子供たち
25日は、「ガゼット・ド・パリ」紙の記者ファルニアン・デュ・ロゾワ・バルナベ(1745‐1792)は、反革命者。国王の釈放のため、自ら人質になると申し出た人。この聖ルイの日の夜、斬首となった。引用は本書注釈のルネ・ド・リヴォワ著「フランス新聞史」。
29日は、隠れている宣誓拒否司祭を逮捕するために、すべての国民の家を自由に捜索した一日だが、翌日も続いたとされている。
フランス革命下一市民の日記 過去記事一覧
テルール(恐怖)のあと (1794年8月〜12月)
ジャコバン派独裁 恐怖政治編 (1794年1月〜7月)
ロベスピエール編
ロベスピエール編 その1 (1792年12月〜1793年7月)
ロベスピエール編 その2 (1793年8月〜1793年12月)
1793年
フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 4月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 7月
フランス革命家の一市民の日記 1793年10月
1792年
フランス革命下の一市民の日記 1792年の3月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の9月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 10月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 12月
1791年
フランス革命下の一市民の日記 1791年の2月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の9月
このセレスタン・ギタールの日記は、ほとんど毎日のように綴られている日記から、僕がトピックし、引用・要約(かなり短く)しているので、フランス革命下の一市民の日記 セレスタン・ギタール著 レイモン・オベール編 河盛好蔵藍訳 中央公論社 を実際に読んでみてください。
この記事で注釈をしていないところなんか、インターネットで自由に検索すれば答えがでてきます。
感想のほか、この日記や注釈で、あれっ?って気がついたところは、僕なりにコメントしてます。で、気がつかないところもあります。以上。
フランス革命下の一市民の日記 1792年 7月
7月7日 土
国民議会の代議士全員の間で大いなる和解が成立した。もはや右翼、左翼はない。みな入り交ざって席についた。まことに銘記すべき日である。
彼らはフランスには共和制も二院制もしかれることはないと誓いあった。
パリ市長のぺチヨン氏とコミューン代理官のマニュエル氏は今日解雇された。この和解の証人として、使節と共に王は到着した。議会と傍聴席から拍手が沸きあがった。
王は語った。「私は前々からこのような和合を念願していた。王と国民は一体不可分である。われわれは自由と憲法を守るために力をあわせようではないか。」
人々は国民万歳、自由万歳、王様万歳」と叫びながら王を宮廷へ送り届けた。
このような和合をかつて考えることができただろうか。これは主のお導きである。主よ、この和解が真実のものでありますように。
(略)
7月13日 金
6月20日の事件で停職させられた市長ペチヨンが今日復職した。
7月14日 土
セリエ夫人、ストラフォレリ氏と一緒にシャン・ド・マルスの連盟祭にでかける。
7月22日 日
「祖国は危機にある。」の宣言で、パリ8ヶ所に野外劇場がつくられ、テントが張られた。テントの先には自由の帽子がかけられ、周りは柏の葉の冠で飾られた。
野外劇場で危機にある祖国の敵と戦う志願兵を微募していた。1万人を越す若者が志願した。さらに増えるだろう。まるで熱に浮かされたように誰も彼もが志願する。愛国心は頂点に達した。いまや命を惜しむものは一人もいない。
全市民が敵に向かって突進する意気込みだ。死を恐れる者は一人もいない。
本書の注釈 僕の注釈
読んでいておわかりだろうが、すでにこの頃は国民議会ではなく、立法議会なのだが、ギタールはずっと国民会議としている。
7日、パリ・コミューンは和解した。
司祭のラムレット(ラムーレット)(Antonine Adrien Lamourette,1742−94)が立法議会で、左右両派をの和合を求めた「ベゼ・ラムレット(baiser Lamourette)」と呼ばれる演説を行った。
新聞各紙が報道したのは「だが、その日の夕方には対立が吹き返す。」というユダの接吻だった。
ラムレット(ラムーレット)の抱擁とはつかの間の和解のことだ。ラムレット(ラムーレット)の接吻はユダの接吻だと。司祭のラムレットの和解の演説は一日もたなかったのだ。
ちなみにオランプ・ドゥ・グージュも「男と女の社会契約」のパンフレットを配布したとある。
ギタールが「パリ市長のぺチヨン氏とコミューン代理官のマニュエル氏は今日解雇された。」と書いているが、6月20日のチュイルリー宮殿侵入事件で、本書の注釈に「多くのフランス人は王への忠誠の表明をもって応え、パリの参事会執行部はペチヨンとマニュエルの罪状を審議しはじめた。」とある。
その結果が7月7日の解雇となったのではないか。そして1週間たたずして、ギタールはその復職を13日に記している。
記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の6月
さて、ペチヨン氏と邦訳されているのはペティヨン氏のことだ。ジロンド派のジェローム・ペティヨン・ド・ヴィユヌーヴ (1756-1794)は、6月18日にチュイルリー宮殿侵入事件オランプ・ドゥ・グージュから手紙をもらっている。
内容は6月20日のチュイルリー宮殿侵入事件に関してだ。
記事 オランプ・ドゥ・グージュ 復讐の女神
実はこの7月7日の日記はまだあとがある。(略)とした箇所だが、それは後日に書き足された部分だと思う。
7月7日 土 (略)の部分
主よ、この和解が真実なものでありますように。
この抱擁と和解は長くは続かなかった!
−−−8月10日。チュイルリーでの虐殺。人々は不安におののいていた。
−−−8月13日。王、王妃、その家族がタンプル塔に収監された。
−−−9月 2日。多くの監獄における司祭や囚人の虐殺。
注意−−−9月の初頭、人々は自由と平等をあくまで守り、そのためには死をも辞さぬことを新たに誓った。。
注意−−−人々は誓いを新たにした。すなわち外国の君主がフランスに法律を押し付けることを
決して許さないこと。王や専制君主らに穢されていない「自由の王笏」を国民公会に捧げることを誓ったのである。
ここで、7日のギタールの日記は終わる。
本書の注釈は以下だ。
「純真無垢で寛容なリヨンの立憲派ラムーレットが、外患に直面したいま、一切の争いを忘れようと発言。これに群集心理が傾き、「8月4日の夜」のように(1789年封建制の廃止の決議)互いに抱き合った。ルイ16世は全盛期のように歓呼して迎えられた。「だが、その日の夕方には早くも、あらゆる対立がふたたび息を吹き返した。ラムーレットの口づけ(ラムーレットの接吻)は、ユダの口づけに他ならない。」と新聞各紙は報じている。」とO・オブリから引用している。
ふと、このギタールの一市民の日記に首をかしげるところが多い。これだけのことを書ける人が、歴史にも残る事件のいくつかを書いていない。
それはいずれ、まとめてみたいと思う。
14日のシャン・ド・マルスの連盟祭。昨年の7月17日にシャン・ド・マルスの虐殺事件が起こった。
記事 フランス革命下の一市民の日記 1791年の7月
僕はほとんどこの日記は要約しているが、この日のギタールの日記は、ほんとこれだけ(天気、気温は省略しているが)。
ところが本書の注釈は長い。
「この連盟祭は復職したペティヨン礼賛に終始した。国王は悲しげな様子のうちにも威厳をもって、王妃は顔青ざめ、うつろな目をして式典に参加。国王と王妃を迎えたのは、「ペティヨンか、しからずんば死を。」という叫びだった。強烈な愛国者の告民衛兵が武装して国王夫妻の立つ演壇の前を行進。ルイ16世は、祖国の祭壇まで行って、憲法にかけて宣誓した。軍隊と群集は「国王万歳」と叫ぶ。驚いた王は何度も会釈をする。いまはもう「王」の臣下ではない国民が、まだ国王を愛しているなんてことがあるだろうか。そうだ、革命があまりにも早く進みすぎたために、フランスは内心もうこれ以上進んで欲しくないと願っているのだ。」とO・オブリの「フランス革命」から引用していた。
22日の「祖国は危機にあり」のスローガンを掲げた。7月11日の国家国非常事態宣言には触れていないギタール。1791年8月27日のピルニッツ宣言の日の日記も同様。
こうしてこの7月にプロシアのフリードリヒ・ヴィルヘルム(ブラウンシュヴァイク公)の指揮するプロシア軍とフランスが宣戦することになった。
8月になってパリ市民に公式に発表される「ブラウンシュヴァイクの宣言」をさせられたプロセインの大尉。させられたというのはフランス王妃の懇願からであった。
7月11日の国家国非常事態宣言「軍隊がわがフランスの国境に進軍している。自由を恐れる者達が、フランスの憲法に反対して武器を取っている。諸君、祖国は危機にある。」は、このプロシア軍との宣戦だ。
こうして、22日には宣言に応じてフランス各地から義勇兵がパリに集結したわけだ。
フランス革命下一市民の日記 過去記事一覧
テルール(恐怖)のあと (1794年8月〜12月)
ジャコバン派独裁 恐怖政治編 (1794年1月〜7月)
ロベスピエール編
ロベスピエール編 その1 (1792年12月〜1793年7月)
ロベスピエール編 その2 (1793年8月〜1793年12月)
1793年
フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 4月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 7月
フランス革命家の一市民の日記 1793年10月
1792年
フランス革命下の一市民の日記 1792年の3月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の9月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 10月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 12月
1791年
フランス革命下の一市民の日記 1791年の2月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の9月
この記事で注釈をしていないところなんか、インターネットで自由に検索すれば答えがでてきます。
感想のほか、この日記や注釈で、あれっ?って気がついたところは、僕なりにコメントしてます。で、気がつかないところもあります。以上。
フランス革命下の一市民の日記 1792年 6月
6月3日 日
エタンプの市長ジャック・ギヨーム・シモノーを追悼して、パリで葬儀が行われた。おそらく世界でかつてなかったほどのものであった。シモノー氏は法を守る職務を執行中に殺害された。国民議会の代議士747名が参列し、オペラ座楽団が演奏を行った。
6月13日 水
国王、三大臣を解任。
罷免されたのは陸軍大尉(セルヴァン)、内務大臣(ロラン)、大蔵大臣(クラヴィェール)。
(司祭追放と連盟兵召集に関する王の拒否権行使への副署を拒んだためである。)
6月17日 日
チュイルリーで不穏な動き。多くの群集が集まった。
6月20日 水 気温15度。寒い。雨。
ちょうど一年前の今日、王はひそかにモンメディに向かって出発し、ヴァレンヌで捕らえられたのだ。
今日20日、フォブール・サン・タントワーヌ、フォブール・サン・マルソー(場末の町)の3万〜4万に及ぶ男女、子供達が、槍その他さまざまの恐ろしげな武器で見を固め、大砲を引いて、チュイルリー王宮および庭園に到着した。彼らは武装大集団となって王および王妃の居室に侵入した。
指導者のアクロギーとかいう男?(アクロークという貴族義勇兵は、群集のなだめ役にまわる)が国民徴章である赤い帽子を王に差出し、民衆を喜ばせるためにこれを被ってくださいと言って、笑いながら王の頭に被せた。
別の一人が、国民の健康を祝してくださいといいながら葡萄酒の壜を差し出した。王はグラスもなしに壜からじかに飲んだ。
(略)
王は、最悪の場合に備えて、あらかじめ遺言状を作成していたという。幸運にも天の恵みにより、そのようなことは何ひとつ起こらなかった。奇跡といってもよいだろう。
本の注釈 僕の注釈
僕の注釈
3日は、ちょうど命日から3ヶ月後である。1792年の3月3日のギタールは、何も書いていない。
記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の3月
市民の暴動の犠牲者で、国民会議が葬儀を盛大な祭典にするという決議を出した。ここであのオランプ・ド・グージュが王妃マリー・アントワネットに資金をだすように依頼。
ブルジョワジーに対する民衆の攻撃、小麦騒動だ。その犠牲者がエタンプの市長ジャック・ギヨーム・シモノー。ル・シャプリエ法は物価高騰を引き起こした。10ソル前後の労働者の賃金。1ソル(スー)が¥100だとすると、当時はパンは¥1000くらいだった。
ル・シャブリエ法が書かれたギタールの日記
記事 フランス革命下の一市民の日記 1791年の2月
パン¥100から¥1000(1斤600グラム相当だろうか)になったギタールの日記
記事 フランス革命下の一市民の日記 1791年の9月
2010年8月[VOROBYOVKA(ロシア) 2日 ロイター]
ロシアのシベリア地方からルーマニアにかけて広がる黒土地帯では深刻な干ばつに見舞われており、小麦の収穫が壊滅的な被害を受けている。 来年収穫用の作付けも危機的な状況にあるという。
フランスの歴史から、現代のこういう部分に日本人が身近に感じてくれるようになればいいね。
ちなみに1リーヴルなんだけど、当時の換算がスッごく面倒。ルイ金貨・・・というのが曲者らしい。金貨、銀貨・・・。1リーブル=12000円、1リーブル=10000円、1リーブル=1000円と様々な解釈の換算方法。20スー=1リーブル・・・。
なんか、変じゃん。一応それを心得て。
さて、6月8日のギタールの日記は、「パリに連盟兵駐屯地を置くこととする法令」については何も触れていない。13日は、王の拒否権の話。署名をしなかった3大臣。ジロンド派の大臣からフイヤン派内閣が成立。17日もこの拒否権のことではないか。
6月11日にその8日の法令にルイは拒否権を発動。さらに5月27日の拒否僧侶の追放も、この日に拒否権を発動している。
拒否権発動はこの記事からも。
記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の5月
20日はみんなご存知のテュイルリー宮殿侵入事件。
アクロギー(アクローク)が国民徴章である赤い帽子を王に差出し被せる。
赤い帽子に関しての記事
記事 フランス革命下の一市民の日記 1792年の3月
国民の健康を祝してくださいといいながら葡萄酒の壜を差し出した。王はグラスもなしに壜からじかに飲んだ。
ギタールの日記にはそう書いてある。
この日はやはりルイ16世の拒否権によるものだ。つまり、国民議会から、立法議会にかわってから、ルイ16世は拒否権の発動を4回行っている。
1791年の「王弟プロヴァンス伯への帰国命令」、「亡命貴族の断罪」、そしてこの「パリに連盟兵駐屯地を置くこととする法令」、「拒否僧侶の追放」になる。
5月28日には、「王弟プロヴァンス伯への帰国命令」、「亡命貴族の断罪」の拒否権の発動などで、王の拒否権を取り上げる同意を求めた。
にもかかわらず、ルイ16世は、この6月にも拒否権を発動した。その拒否権の撤回を求めるものだった。
20日の本書の注釈
この騒動は拒否権を撤回させるもの。この騒動に王は断乎として譲らなかった。王は慎みと威厳に満ちた声明を公表した。
「フランス国民は、数名の叛徒に指嗾された群集が武器 を手にして王宮に侵入したことを知るならば、苦々しい気持ちを抑えかねないだろう。 (略) 王は脅迫と侮辱に対して、ひたすら自らの良心と国民の幸福を願う心でもって応えた。 (略) 王政妥当をめざす者どもは、さらに罪を犯すことが必要だと思えば、あえてその罪を犯すがよい。 (略) 」
多くのフランス人は王への忠誠の表明をもって応え、パリの参事会執行部はペチヨンとマニュエルの罪状を審議しはじめた。
フランス革命下一市民の日記 過去記事一覧
テルール(恐怖)のあと (1794年8月〜12月)
ジャコバン派独裁 恐怖政治編 (1794年1月〜7月)
ロベスピエール編
ロベスピエール編 その1 (1792年12月〜1793年7月)
ロベスピエール編 その2 (1793年8月〜1793年12月)
1793年
フランス革命下の一市民の日記 1793年 1月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 4月
フランス革命下の一市民の日記 1793年 7月
フランス革命家の一市民の日記 1793年10月
1792年
フランス革命下の一市民の日記 1792年の3月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1792年の9月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 10月
フランス革命下の一市民の日記 1792年 12月
1791年
フランス革命下の一市民の日記 1791年の2月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の4月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の5月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の6月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の7月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の8月
フランス革命下の一市民の日記 1791年の9月