一定期間更新がないため広告を表示しています
Vogue US 1947 May.1 by Salvador Dalí
広告 ブライアンズの靴下(ストッキング) by サルバドール・ダリ
サルバドール・ダリ(Salvador Dalí)は、ヴォーグの表紙だけではなく、ヴォーグの広告にもイラストを描いていた。
しかも自分の作品をパロディ化してる。
戦後強くなったのは「女と靴下(ストッキング)」と言われているが、ダリのこの広告は第二次世界大戦が終わった翌年。
Vogue US 1945 July by Salvador Dalí
広告 ブライアンズの靴下(ストッキング) by サルバドール・ダリ
Vogue US 1947 November.1 by Salvador Dalí
広告 ブライアンズの靴下(ストッキング) by サルバドール・ダリ
Vogue US 1947 September.15 by Salvador Dalí
広告 ブライアンズの靴下(ストッキング) by サルバドール・ダリ
Vogue US 1947 March.15 by Salvador Dalí
広告 ブライアンズの靴下(ストッキング) by サルバドール・ダリ
Vogue US 1945 November.1 by Salvador Dalí
広告 ブライアンズの靴下(ストッキング) by サルバドール・ダリ
Vogue US 1944 September.1 by Salvador Dalí
広告 ブライアンズの靴下(ストッキング) by サルバドール・ダリ
Vogue US 1944 October by Salvador Dalí
広告 ブライアンズの靴下(ストッキング) by サルバドール・ダリ
Vogue US 1948 April.1 by Salvador Dalí
広告 ブライアンズの靴下(ストッキング) by サルバドール・ダリ
Salvador Dalí 1948
広告 ブライアンズの靴下(ストッキング) by サルバドール・ダリ
最後の受胎告知っぽいのは、ヴォーグではない。まだまだダリのブライアンズの靴下(ストッキング)の広告イラストはある。
さてさてダリがヴォーグの表紙や広告イラストを描く前にはこんな表紙がヴォーグ アメリカ版を飾っていた。
記事 米国ヴォーグの表紙 ジョルジュ・ルパップのヴィーナスの誕生 1931
付録 フランスヴォーグのダリの表紙 Vogue Paris Cover
Vogue Paris Cover December 1971-January 1972
ヴォーグ 1971 12月号 マオ(毛沢東)に扮したマリリン・モンロー
サルバドール・ダリ (写真 フィリップ・ハルスマン)
左はダリの1981年頃の作品。ヴォーグの表紙が先で、そのあと作品化した「The Tower of Enigmas」(エニグマの塔)。
1971年といえば中華人民共和国は文化大革命の最中で、毛沢東が暗殺されそうになったのがこの年。そして日本や西側諸国の関係改善が進んだ年でもある。
さて、ダリのヴォーグの表紙はフランス ヴォーグにいくつかある。この記事からはハーパース・バザー誌に掲載されたダリのブライアンズの靴下も記事にしている。
記事 KAFKA ヴォーグ パリ ダリの表紙 French Vogue Covers by Dari
そして現在開催中の「ロベール・ドアノー生誕100年記念写真展」で、ピカソの写真も展示されているはずだが、そのピカソがヴォーグ・フランス誌の表紙に悪戯をした写真をロベール・ドアノーが撮影している。
その悪戯した表紙というのは他ならぬロベール・ドアノーが撮影したヴォーグの表紙。
記事 ロベール・ドアノー ヴォーグ・フランス誌の表紙とピカソ
ヴォーグは1909年に現在のコンデ・ナスト社に買収。その1909年の表紙はこちら。
記事 100年前のVOGUE アーツ・アンド・クラフツ運動の表紙 (鋭意製作中ですと)
ヴォーグ表紙 リンク記事
VOGUE
ジャン・ガブリエル・ドマーグ VOGUE 1921
ロベール・ドアノー ヴォーグ・フランス誌の表紙とピカソ
ヴォーグ米国誌 ダリの広告イラスト
ヴォーグ パリ ダリの表紙 French Vogue Covers by Dari
米国ヴォーグの表紙 ジョルジュ・ルパップのヴィーナスの誕生 1931
100年前のVOGUE アーツ・アンド・クラフツ運動の表紙 (鋭意製作中)
雲林院にてさくらの花のちりけるを見てよめる
「桜散る花の所は春ながら雪ぞ降りつつ消え難てにする」
(さくらちる 花の所は 春なから 雪そ降つゝ きえかてにする)
古今和歌(倭歌)集巻第二 春歌下 75番歌 承均法師
いま風邪。今日は仕事を休んだ。風邪で寝ているが妙に早くに目が覚めた。
そこで、過去記事のモーリス・ドニにTBを頂戴したブログを訪問した。4月というのに氷点下で雪。ついこの和歌を思い出した。
承均法師は同じ古今和歌集でもうひとつ「桜」を詠んでいる。
いざ桜 我も散りなむ ひとさかり ありなば人に うきめ見えなむ
古今和歌(倭歌)集巻第二 春歌下 77番歌 承均法師
京都市上京区紫野にあった雲林院は淳和天皇(786-840)の離宮だった。生没年未詳だが承均法師は元慶(877-885)頃の人だと思われるようだ。
承和の変(842)を詠んだのではないだろうか。
藤原氏最初の陰謀(他氏排斥)となった。後継者恒貞親王を憂慮しながら淳和上皇が崩御したあとの政変。廃太子となった恒貞親王(825-884)は品位、三品に叙せられるものの出家して法号を恒寂(恒寂入道親王)と称した。母正子内親王が嵯峨天皇の「嵯峨離宮」を寺に改めた大覚寺(真言宗)で精進持戒する。
廃太子となったあとも即位を促されることがあったらしい。
恒貞親王は美しい容姿で優雅な立ち居振る舞いが評判だった人物。
「桜散る花の所は春ながら雪ぞ降りつつ消え難てにする」
桜が散るく樹上はまぎれもなく春だというのに樹下には雪は消えがたく降り積もる。
「いざ桜 我も散りなむ ひとさかり ありなば人に うきめ見えなむ」
さあ桜、私もお前とともに散ろう。一時の盛りを過ぎれば、人にはつらい姿に見えるものだから。
承均法師は「雲林院にてさくらの花のちりけるを見てよめる」と、淳和天皇の縁の離宮の名を詞書にいれたのだろうか。
当時の雲林院は桜の名所としても有名だったらしいから、不思議ではない。
雲林院は「伊勢物語」にも登場する。在原業平(825-880)が主人公とされている物語だ。作者、成立共に未詳だが、同じく「雲林院」が登場する「源氏物語」(1001年頃)では、「伊勢物語」を古典としているところからみると、元慶(877-885)頃なのかもしれない。ただし紀貫之(866or872-945)が作者となれば、時代が違うけど。
この紀貫之、「桜散る 木の下風は 寒からで 空に知られぬ 雪ぞ降りける」(拾遣若衆)と詠んでいる。
さて、恒貞親王と同じ825年に誕生した業平は、阿保親王の五男である。恒貞親王に仕え、謀反で流罪となった橘逸勢は阿保親王の従兄弟であり、空海、最澄と同じく遣唐使の一人。
内々に事を収めたいと願っていた阿保親王の皇太后への密書が、願いと反対に承和の変に発展することになり、阿保親王は責任を感じたのか承和の変から数ヶ月後に急死。
こうした史実が承均法師の和歌からちらりと過ぎるのは僕だけ?
承均法師は、いつこの和歌を詠んだのだろう。
もしも恒貞親王の入寂の頃ならば、恒貞親王に仕えた一人ではないか。